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四季花  作者: 大石次郎
1/8

夏 ~前~

 午後の現場が早く終わったので4時に待ち合わせすることになった。泥まみれであちこちヘコんだ会社の車をコインパーキングに停め、丈夫だからという理由だけで買ったトレッキング用のリュックを右肩に担いで8月のムッとする熱気の中、俺は小走りで喫茶店に向かった。現場から少し遠かったので6分程、遅れてしまっている。

 喫茶『菱田珈琲』の入り口には今年も朝顔の鉢植えが置かれていた。夜学に通ってた最初の頃、夕方まで咲いているこれを俺は昼顔か夕顔だと思っていたが、卒業する頃にマスターから遅くまで咲いている品種だと聞かされた。店は朝から開いているが、昼には萎んでしまっては飾るに飾れないからだそうだ。よく働く花だと思ったね。

「おっ、いたいた」

 奥のソファ席に年季の入った茶髪の女の少し猫背の後ろ姿が見えた。藍子だ。

 俺はドアベルを鳴らして店内に入った。冷房が沁みる。

「いらっしゃいませ、あれ? 川上さんじゃないですかぁ」

 もう5年ぐらい前から働いているウェイトレスの『ヨーコちゃん』が人懐っこく寄ってきた。ヨーコちゃんは見るたびに太ってゆくようで、急に接近されると迫力がある。

「ああ、ちょっと、奥ね」

 俺は適当の応えて、知らんふりしてソファ席に座っている藍子の元へ急いだ。

「藍子」

「うん」

 藍子はフルーツサンドをもそもそ食べながら振り返ってきた。相変わらず眠そうな顔だ。

 藍子の向かいに座るとヨーコちゃんが水とお絞りを持ってきた。

「今月、アイスクリームとフラッペのメニューが揃ってますよ! ほらっ、プリンもっ!」

 ヨーコちゃんは水とお絞りを置くと、テーブルに置いてあったメニューを取ってグイグイ『お薦め』してくる。

「おっ、じゃサマーサンデーとジンジャーエールで」

「かしこまりましたぁっ」

 ヨーコちゃんは元気よく厨房にオーダーを伝えに行った。

「ヨーコちゃんのデブ専の彼氏、お金持ちらしいよ。司法書士だって」

「へぇ?」

 司法書士ってそんな儲かったったか? などと思いながら、お冷やを2分の1くらい一息で飲んだ。

「ふぅっ、よし! 今月分っ」

 俺は汗や現場の作業で使うこともある水で濡れないようにビニール袋で包んだ茶封筒を作業着の胸ポケットから取り出し、茶封筒だけをフルーツサンドの皿の横に置いた。藍子の飲み物はホットレモンティーだった。たぶん、砂糖は入れてない。この組み合わせは夜学の頃から変わってない。

「振込みでもいいんだよ?」

「まあな」

 藍子は猫が様子を伺うようにレモンティーを飲みながら置かれた茶封筒をジッと見ていたが、カップを置いて茶封筒を取ると中も開けずに自分のバッグにしまった。

「遊馬は元気だよ。メールしたけど、この間、ちょっと扁桃腺が腫れたけどもう大丈夫」

「そっか」

「動物園楽しみにしてた」

 遊馬とは月に一度会えることになっていた。今は子供だが、年頃になって面倒がるようになるまで、遊馬の好きな所に連れて行ってやりたかった。金が払える範囲でさ。

「任せとけ、動物園は得意だ」

 藍子は呆れて苦笑した。夫婦だった数年前、俺は藍子の雇った探偵に不倫相手との動物園デートを『3回』も撮られている。正直動物園は不倫デートに向かない。そぐわないからな。だが、子供の頃から動物園はテンションが上がる! 藍子は「獣臭い」と嫌うので家族で行くのも難しく、俺は不倫デートとなるとやたら動物園に行こうとした。そういえば不倫に限らず動物園が嫌いな女で、付き合ったのは藍子だけだな。

 結婚は子供ができた勢いだったが、夜学の教室でも全方位に『話し掛けるなオーラ』を放っていたいかにも面倒くさそうな、断じてファッションで染めてるワケではない武骨なヤンキー茶髪の藍子と付き合うことになったのはホントに、今でも不思議だ。

 藍子は黙ってテーブルの下で俺の脛を蹴ってきた。

「痛っ」

「直樹、お前調子に乗んなよ?」

「はいはい、俺が悪い俺が悪い」

 藍子にジト目で睨まれていると、ヨーコちゃんが蜜漬けの生姜の浮いたジンジャーエールを持ってきた。

「はーいっ、ジンジャーエールでーす」

「おうっ、ヨーコちゃんありがと。彼氏、羽振りがいいんだって?」

「そうなんですよぉっ!」

 ボリュームのある体をクネクネさせるヨーコちゃん。

「彼、ぽっちゃりしたスタイルが好きな人だからウェイトをキープするのが大変でぇっ」

 ここで藍子が毒を吐き出した。

「ヨーコちゃんはビジネスデブだもんね」

「藍子っ」

 俺は嗜めようとしたが、ヨーコちゃんは動じなかった。

「ビジネスじゃないですよぉ、私、ナチュラルボーンですよぉっ?!」

 ヨーコちゃんの笑顔の切り返しに俺は笑い、藍子は薄目で口をヘの字にして『もうたくさん』のポーズをした。

「洋子ちゃん」

「はい。それじゃ、ごゆっくりぃ~」

 カウンターからマスターに呼ばれ、ヨーコちゃんは大きな尻を振って引っ込んでいった。

「・・・瞳さんとは相変わらずか」

 藍子は今は実家で暮らしているが、たまに様子を見に来るらしい姉の瞳さんと折り合いが悪かった。

「変わるも何も姉妹だから。今更関係が変わるワケないよ」

 俺のせいで実家に戻ったようなもんだ。遊馬が来年小学校に上がるまではパート以外の仕事は難しいだろうし、美容師に戻ってもまた部屋を借りるのは負担だろう。遊馬が小学生になっても一人で世話するのもキツいだろうしな。

 もうどうしようもないことだが面目なくて、養育費のことがなけりゃ独身の頃のようにスロットにでも行きたい気分になった。

「今、スロット行きたいとか思ってた?」

「思ってねぇしっ、もう何年も行ってねぇから」

 見透かされて慌てて蜜漬けの浮いたジンジャーエールをストローで飲んだ。美味いっ! 久し振りに飲んだが一杯400円じゃなかったらこの季節、毎日飲みたいくらいだ。生姜のエキスが炭酸に乗ってシュワーっと胸の奥から沁みてくる。

「ま、いいけど」

 藍子はたぶん砂糖の入っていない紅茶をまた飲んだ。改めて藍子の顔や首元、手首の辺りを見ると老けたという程じゃないが、張りがなくなってきていて、若さが失われつつあるのが見て取れた。

 十代後半から二十代中盤くらいまでの藍子の若さが一番眩しかった時間を浪費させてしまったんじゃないか?

「あたしさ」

「んん?」

 藍子は少し迷うような顔をした。

「お待たせしましたぁっ、サマーサンデーです!」

 話を切って、ヨーコちゃんがガラスの皿を持ってきた。パインソースのかかったチョコミントアイス、ココナッツソースのかかったブルーベリーアイス、蜂蜜塩ソースのかかったスイカアイスが盛られ、ウエハースが添えられていた。

「ありがとう」

「これ、売れてますよぉ? ごゆっくり」

 ヨーコちゃんは伝票を置いて、愛想良く別の席の接客に移って行った。

「何の話?」

「ん~っ、ま、いいや。それよりさ」

 藍子は最近パート先のスーパーでバイトの女子大生と鮮魚担当の社員の不倫が問題が発覚し、その社員が吊し上げで雑用や意味の無い資料作りばかりやらされるようになって可哀想なことになっていると、噂話を始めた。

 きっとデリケートなことか何か重大なことを話そうとしたんだろうけど、もう友達でもない俺は重ねて聞くワケにもいかず、アイスクリームをスプーンでつつきながら、どうでもいい不倫話に「自業自得ってヤツだな」とか、もっともらしい相槌を打つしかなかった。

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