3月11日(土) 待ち人来たらず
待ち人は、まだ、来ない。
JR上野駅は公園改札で窓口業務をする彼には、少年の様子は、そう、見えた。
花見にはまだ早いが、ほころんだ蕾に誘われたのか人手は多い。であるから改札を行き来する客も、また多い。駅員である彼は、路線を尋ねる外国人や切符を落として半泣きの中学生たちの応対に追われていた。
その少年に気がついたのは、午後のまったりとした陽光の中だった。通り過ぎる客たちの幾人かが、ちら、ちら、とするから、彼もちら、とつられたのだ。公園改札を出たすぐそばの壁、そこにもたれて立つ少年はずいぶんと存在感があった。褐色の肌は外国人観光客ならば珍しくもないが、こなれた私服と落ち着いた雰囲気は地元民のそれだ。ハーフか、と見当をつける。ちょっと驚くほど整った容貌で、撮影の話なんて今日はなかったよな、と彼は本日の特記事項を確認したほどだ(たいていは事前連絡が入る)。上背がありすらっとしているが、ひ弱さは全くない。スポーツでもしているのだろう、バランス良く引き締まった体つきだった(彼は肉が少々ついた自分の腹を見やり……見なかったことにした)。
大人の男、に見えないこともない。
それでも、少年、と彼が思ってしまうのは、顔立ちに柔らかさが残っているからだ。期待と、高揚と、少量の不安。まとめれば、「若いっていいねぇ」という10代特有の躍動感が、シャープな容姿の裏に見えるからだ。思春期に入った長女より少し上、といったところだろう。洗濯物分けられるって本当につらい、と余計なことまで彼は思い出してしまった。
携帯端末をチラ、と見た少年はそれをポケットにしまった。道路を挟んで広がる上野恩賜公園の木立を眺めている。
13時を半ば回った頃合いである。待ち合わせは14時なのかもしれない。
大人であればランチを共にして公園を散策というコースもあるが、なるほど高校生なら食事は外すか、と彼は推測した。大勢でわいわい、ならともかく、オシャレな店の小さなテーブル席(対面)ではいろいろ大変だ。会話を途切れさせない場のつなぎ方とか、相手が好みそうな話題選びとか。しかも正面に座るのはこの美形少年。待ち人がどんな少女(昨今は同性もあり得る)か知らないが、このレベルと対峙するには根性と自信が要る。
まだ見ぬ待ち人を勝手に想像しながら、業務にあたる。今度は老婦人。目的地への最寄り駅が知りたいという。足も耳も弱そうだ。どの乗り換えをしてどの駅で降りるのが一番楽か、と彼は頭をフル回転させる。
◆◇◆
おいおいこいつふっちまうってどんだけ美少女(か美少年)だよ、と彼はひそかに驚いた。券売機トラブルを片付けて改札に戻り、そういえばと改札外の壁を見れば、少年は、まだ、いたのだ。彼はとっさに腕時計を確認した。業務柄、時刻合わせを毎日するので正確さには自信がある。
14時35分であった。14時を、とっくに過ぎていた。
盗み見れば、少年は携帯端末をいじっていた。長い指を素早く滑らせ――そして止まる。無表情に画面を眺め、また指を滑らせる。メッセージを入力し、送ろうとして――送れない。消して、また書き直して文を作り、そして止まる。そう、彼には見えた。
あんな顔でもすっぽかされるのかと思えば、同情(と深い共感)が湧く。彼は動揺しているはず(無表情なので不明だが)の少年にかわり、前向きに考えてやることにした。待ち合わせのお相手はかなりのおっちょこちょいなのだ、このカッコ良すぎる少年に対抗すべく気合を入れたら化粧に失敗したとか。いやいや、緊張で眠れなくて寝坊した、なんてのもありそうだ。待て待て、寝坊するにしてもこの時間では豪快すぎる、あれだ、待ち合わせの時間か場所を間違えてるとか、嫁によくやられた……。
窓口の下方から声をかけられた。お?、と見れば就学時未満とおぼしき子どもが数人、切符を差し出していた。動物園に行ってきたのか、めいめいが小さなリュックを背負っている。後ろで大人がすいません、とばかりにこちらを拝んでいた。この年齢ならば無料だが、自分で切符を通したい!、となったのかもしれない。で、自動改札機は高さ的に無理だったから有人改札に来た、と。受けて立とうッ、と彼は切符用のスタンプを構える。
◆◇◆
15時15分。
少しだけ。
ほんの少しだけ、彼は汗をかいた。
そう、感じた。
少年は、まだ、そこにいる。まだひとりで、そこにいる。15時を過ぎてから、とうとう少年はメッセージを送った。画面をにらみ、そしてタップしたので間違いない。それから、それからとうとう電話をかけた。平べったい携帯端末を耳に当て、コールしている。3回、4回……相手は出ない。8回、9回……かけ続けている。
少しだけ。
ほんの少しだけ、また、彼は背中に汗を感じた。
改札を通る客はひっきりなしで、窓口に助けを求める客も絶えない。業務に追われる彼の意識の片隅で、少し、少しだけ不安が湧いた。
あの姿は嫌だ。電話をかけて、かけ続けて、何十回とコールして、出ない相手を待つ姿は、どうにも嫌だ。固定電話の時代ではないのだ、いつも身につけている携帯端末の着信に、ああまでかけている呼び出しに、気がつかないことなどあるだろうか。
何もなければ。
意識があれば。
きっと、あの日の自分もあんな姿だったのだろう。実家でひとり、母が倒れていたあの日も。
少年は電話をかけ続けていた。もはやその表情は固い。固いまま、公園から駅の構内に向き直り、天井を――利用客の呼び出しを告げるスピーカーを見つめる。
アナウンスをする声が震えないよう、彼は腹に力を込める。
◆◇◆
電話がつながったのは、16時をだいぶ通りすぎていた。
視界のすみで少年が話し始めた瞬間、彼は安堵し――けれどもわかってしまった。
「――――!?」
ふられたとか、すっぽかされたとか、そういうものではないことがわかってしまった。話しだした少年の、目の険しさと浮かぶ焦りであったり、きれぎれに伝わる声の鋭さと潜む不安であったり――飛び出すように走り出した、その、姿であったり。
見ていたではないか、気づいていたではないか、少年が携帯端末を耳から離し、1回押せば済むリダイヤルではなくて、指を滑らせ、もう一度、もう一度選んでいたのを。
自分は知らぬふりをしたのだ。わからぬふりをしたのだ。あれは、あれはかけていたのだ、きっと別の相手にかけていたのだ、少年と待ち人の共通の友人、頼れる者、そういった相手に。あの日、仕事に出ていた父に、彼が望みをかけたように。
少年はあっという間に改札を抜け、人混みをぶつかることなくすり抜け、走り、走り、東京行きのホームへ降りていった。
彼は業務にあたる。一番近いトイレはッ、と真剣な中年に、あっちの通路の奥です、と即座に指さす。冷静で機敏な対応に満足する。
業務の合間、そっと思う。大事でなければいい。事故だろうか、事件でなければいいが。
事故でも小さなものであればいい、階段で転んだとか自転車でこけたとか、おっちょこちょいな相手がうっかりしでかして病院に運ばれ、それでいて大したものではないのだ、ガーゼ一枚、薬一錠で済むような。そうして笑って、大したことなくて良かったと隠れて泣けるような。
彼は業務にあたる。まだ美術館って開いてますか?、と会社帰りの女性に、すぐそばの「美術館チケットうりば」を案内する。人気の展示は激混みするから、時間帯を外して行くのかもしれない。
業務の合間、そっと願う。生きていれば、生きてさえいれば。
ありふれた話だ、事故に病気、誰にでもある、どこにでもある、ありふれた話だ。でも、生きてさえいれば、だいたいは笑って終わらせることができる。笑って、また毎日を暮らすことができる。
名も知らぬ少年の、見も知らぬ待ち人の、大事ないことを彼は思う。きっと明後日くらいには忘れてしまうだろう、日に何十人と会話し、何件もの人生の出来事を垣間見る業務だ、今日のこともそのうち忘れてしまうだろう。それでも、いま、いま、願うくらいはいいだろう。無事であることを、笑って会えることを。
日暮れを迎える公園改札は、帰りの客で混雑してきた。気の早い花見でもしたのか、ほろ酔い気分の乗客もちらほらといる。酔っ払って財布がないとか、泥酔して絡んでくるとか、そういった客も出てくるだろう。大変面倒なタイプだ。
早く帰りたい、と彼は思った。構内のショップでちょっといい総菜とデザートを買うのもありかもしれない。それらを手土産に、嫁と娘の顔を、彼は早く見たかった。嫁に、「また高いのを買って」と文句を言われたかった。娘に、「お父さんはあっち」と洗濯カゴを分けられたかった。
JR上野駅は公園改札の窓口の中から、彼は少年が立っていた壁を見る。夕日に照らされたそこにもう少年はおらず、今日を楽しんだ人々がさざめき家路に就くばかり。彼はそれでも、探してしまう。誰か、少年を待っている誰かがいないかと。もう、確信してしまったというのに。もう、ありえないというのに。
待ち人は、もう、来ない。
■次回更新日:3月20日 21時




