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  9月 8日(木) 国際識字デー





 野玖宮高等学校・東京キャンパス3F廊下のつきあたり、書庫&漫研前の窓から手を出して、仙子は小声で叫んだ。


「我に電波を!」


 人には見られたくない姿である。

 上半身はほぼ外に出ており、足も若干浮き気味。んぐぐ、と精いっぱい伸ばした手の先には旧式の携帯端末(ガラホ)。Wi-fiモードにしたそれは今、寮からはみ出る電波を頑張って探しているはずだ。愛用の端末を励ますため、仙子はもう一度、唱えるとなんとなく繋がりやすくなる(気がする)、でも他人には絶対に聞かれたくない言葉を、さっきよりはちょっと大きめの声で叫――



 ガラッ



「我に電波を!」



 ――んだ寸前、前触れもなく、背後で書庫の扉が開く音がした。

 まずい完全に聞かれた誰だ遥希か蓮かそれともたんに書庫に漫画を借りにきただけの生徒かそれなら素知らぬふりをして誤魔化そう、と仙子は高速で思考を空回りさせて振り向いた。



「……何、やってんだ?」



 慶司郎だった。先日、気まずい別れ方をした後輩である。整った容姿が、心の底から不思議そうな表情を浮かべてこちらを見ている。


 仙子は固まった。


 同級生男子達の「アホがここいる」視線だったら、仙子も「個人の自由だ、放っておいてくれたまえ!」と反論できただろう。しかし、純粋に「何をしているのかわからない」と目で伝えてくる後輩(しかも校内随一のイケメン)が相手では、食らうダメージもいつもとひと味違う。


「や、やあ」


 よりによって何で君かな、と仙子は内心、自分の間の悪さを嘆く。

 


 ◆◇◆



 9月8日は国際識字デー(※)である。


「『文字が読めることを人間が生まれながらにもった基本的な権利と位置づけ、文盲の根絶を目指す。知識を得ることで、文字の読めなかった人々の不衛生な住環境の改善、経済状況の好転を促進するために制定された。制定からもうすぐ70年、再来年には記念の式典がフランスで予定されている』……へぇ」


 こんな日もあるのか、と仙子は読み進める。


 図書室の前の壁は掲示スペースである。図書委員会のお知らせや、委員会活動として作成された特集が貼られる。

 今月の特集は「国際識字デー」関連。回路が世界の識字率に与えた影響や、近年、計画が発表された「全書翻訳プロジェクト」の概要などが載っている。


「あ、瀬里澤先輩、こんにちわー」


 1年生に声をかけられ、挨拶を交わす。

 魔技コース生だ。実技の授業でたまに絡むため面識がある。中学時代の雰囲気が抜けきらないあどけなさ、普通に先輩呼びをしてくれる素直さ――魔技コース生たちは仙子にとって貴重な心のオアシスである。2年生は人によってお互いの存在をスルーすることもあるし、1年生の魔戦コース生はトップを筆頭に我が道を行く唯我独尊系。一般的な先輩・後輩関係に憧れていた仙子としては、このあたり、無念この上ない後輩たちだ。


 学祭に向けての話をし、1年生はそのまま図書室に入っていった。魔語に関する調べものがあるらしい。

 じゃあ、と手を振る仙子、振った手首にはまる時計の文字盤を眺め、ため息を一つ。


 時刻は放課後である。


 今日も今日とて受験勉強をするために図書室前まで来たわけだが、全く持ってやる気が出ない。勉強道具こそ図書室の自習スペースに置いたが、問題集を広げても集中できず、こうして図書室から出てきてしまったのである。


 腕時計を再び確認する。

 あと5分、と自分に言い訳し、掲示物の文字を追う。




 8月末に起こった憂鬱な事件は、3年生たちにも尾を引いていた。


 仙子も陽太や葵と共に病院で立て続けに検査を受けさせられ、その合間に関係者からこっぴどく説教された。その後、陽太や葵は実家に強制送還。必然的に、国の調査官の聞き取り調査は仙子に集中する。休憩時には鈍行と夜行バスを乗り継いだ母親が現れ、これまたこっぴどく怒られて泣かれた。調査官(顔見知り)が宥めてくれて本当に助かった。

 調査官から美咲のことも聞く。ああやはり、と思い、胸に溜まった重い感情を無理やり飲み込んだ。どうしようもなかった。あれ以上のことはできなかった。それはわかっていた。調査官にも「よくやった」と励まされ、自分を納得させる。

 重い出来事だったが、時間はいかなる容赦もなく進む。受験生の貴重な夏休みは無情にも過ぎ去った。検査入院はそれなりに長引き、月末にあった模試は諦めざるをえなかった。すでに起きてしまったことに、なってしまったことに、捕らわれすぎても良くはない、と仙子は自分を奮い立たせる。


 新学期は、通夜の席のように沈んだ空気の中で始まった。陽太と葵は欠席。凛もいつもの明るさが見られず、蓮と遥希は別人かと仙子が思うほど静かだった。

 陽太と葵は引き続き実家で療養中のため、寮にもいない。葵の実家では今回の事態を重く見ており、中退も検討中との話まで出た。迷惑をかけた、と凛に連れられて仙子に謝りに来た杏は、それを聞いて青ざめていた。

 蓮や遥希は、少しばかり、今回の件に無力感を感じているようだった。そもそも二人とも実家に帰省していたし、遥希など公務員の二次試験があった時期なのでどうしようもないことである。けれども、寮では妙な感じに気を遣われ、仙子としては逆に困っている。自身の一次試験が近い蓮まで「掃除代わってやろっかー」と言うので、まず自分のことを優先に、と返しておいた。

 葵がいないため、寮の部屋には仙子一人しかいない。気楽さよりも、寂しさを強く感じてしまう。寮に住み込んでいる保険医(女医)も気にかけてくれるが、就寝前に「おやすみ」という相手がいない生活は、地味に、堪える。


 良い知らせが入ったのは今週の頭だ。

 中退の件は葵の無言の抵抗(ハンガーストライキ)で回避され、陽太ともども週末には寮に戻ってくるという。口には出さなかったが、仙子のメールをのぞき込んだ3年生たちには、ほっとした雰囲気が漂った。


 そういった折りである。

 気持ちも新たにし、勉強の遅れを取り戻さなければならない。そんな仙子の心にわずかばかり引っかかるのは、同じく事件に巻き込まれた後輩のことである。説明を求められ、できるだけわかりやすく話したつもりだったが、結果として後味の悪い別れ方になっていた。

 慶司郎の問いに、嘘をつくこともできた。だが、仙子はそれを避けた。なんとなく、慶司郎は気づくだろう、と思ったのだ。実装備の使用方法などで会話を交わすことも多く、理解が早いな、とはいつも感じていた。たとえあの場は誤魔化せても、いずれはその嘘を見抜いただろう。そうなった時のほうが、仙子は怖かった。


 二学期が始まってから、後輩とは話していない。学食で姿を遠目に見かけた程度だ。先週はセンターの点検が入って実技授業が中止。昨日の漫研活動日は、本来、学祭用会誌の締め切り日だったが、未提出者の陽太が休みのため翌週に延期。話す機会は運悪く潰れ、仙子はもやもやとしたものを抱えていた。授業中はまだいいのだが、一人で勉強しているとどうにも悪い方向――(軽蔑されたかな……しただろうな)――に考えが傾く。結局、今日も仙子はシャープペンを放り出し、図書室前の掲示物で無為に時間を浪費するのであった。




 黙々と「国際識字デー」の特集を読み進める。記事は結構な読みごたえがあった。

 回路による識字率の劇的な向上や、反面、回路を搭載した機器に頼らなければならないリスク。また、電子データのない実物の本を電子化し、AIによって魔語に変換、回路を搭載したリーダー機器で、どんな言語でも自由に読めるようにする「全書翻訳プロジェクト」の概要……。

 掲示の最後には「詳細はこちら」という文字と、画像コードが印字されていた。携帯端末のカメラ機能で、インターネット上のURLが読みとれるようだ。興味のおもむくままカメラでぱしゃり、とした仙子、とある問題に気がついた。


 「ページが重かったらまずい」


 仙子は携帯端末の料金を自腹で払っている。これを減らせば自由に使えるお小遣いが増えるため、不要なオプションはできるだけ削った。結果、基本料金は最低金額、メールの受信はただ、ネット接続も使わなければ0円というコースになった。その分、うっかりキャリア回線を使ってネットへ接続すると、使った分だけやたら高い料金を取られる。幸い、旧型とはいえ端末にはWi-fiモードがあったので、出先ではメールと電話、ネットを見たいときは寮のWi-fi環境、と使い分けて料金を抑える運用を心がけている。


 さて問題は、接続先のページの重さ(データ量)である。テキストのみであれば支障はないが、このご時世、そんな簡素なサイトはそうそうない。しかも相手は国際機関。大手企業並のスタイリッシュデザインや広報用動画が流れるかもしれない。そうなれば、ただでさえ乏しい仙子の財布のライフの残機は、確実に、0である。


 少しばかり考え、仙子は寮のWi-fi電波を使うことにした。といっても、面倒なので寮には戻らない。寮は学校の敷地内にあって校舎にも近い。3Fの廊下から腕を伸ばせば、運良く電波を拾えるかもしれない。だめならだめで、画像コードを保存し、寮に帰った時にリンク先を見ればいい。


 そういうわけで、瀬里澤仙子は3F奥の廊下の窓から身を乗り出し、そこをばっちり後輩に見られることになったのだった。

 


 ◆◇◆



「いや、大したことではないんだ、うん、本当に大したことではない、気にしないでくれたまえ」


 仙子は全力でこの場を誤魔化すことにした。後輩から視線を外し、携帯端末に目を落とす。うかつに目を合わせていると、後輩の無言の圧力に負け、「ちょっと電波が欲しくて」とか口走りそうな気がしたのである。さすがにそれは避けたい。

 

 仙子の旧型端末は運良く寮の電波を拾えたようだ。画面が切り替わって接続先のページが表示されたが、そこで仙子は思わずつぶやいてしまった。


「うわぁ、英語か……日本語版がない」


 世界に冠たる国際的な教育・科学・文化活動を行う機関の公式サイトは、日本語をカバーしていなかったのである(対応言語:英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・アラビア語・中国語)。仙子も英語は好きなのでそこそこ勉強しているが、受験科目ではないため、あまりそちらに時間を割けない。開いたページは、仙子には少々難度の高い単語が並んでいる。


 ささいなことではあるが、こういった時、仙子は回路が使えないことが本当に嫌になる。回路があれば、使えれば、翻訳機能で簡単に読める。情報を得られる。けれども、使えない自分は、自力で、自分の力だけでなんとかするしかないのだ。


 図書室で辞書を引くか、と顔を上げた仙子は、その時ようやく後輩がこちらを見ていたことに気がついた。


「え、えーーと……どうしたんだい?」


 というか、だいぶ近くにいた。背の高さを活かして画面をのぞきこんでいる。


(全っ然わからなかった! 気配を消せる高校生ってなんだ!? 忍者か、いや慶司郎はハーフだからNINJAか!?)


 動揺する仙子をよそに、慶司郎はページを眺めていた。そして自分の携帯端末を取り出し、なにやら操作をして「これか?」と仙子に差し出した。


 画面には、さきほど英文で並んでいたページが、日本語で表示されていた。


「あ、うん、そうだ、が……えぇと、ありがとう?」


 慶司郎は回路が使えるので、所持している携帯端末も回路付きなのだろう。その翻訳機能を使って、日本語表記をさせている。どのページを見ているかは、慶司郎も片親が英語圏のはずなので、察しがついたのだろう。

 そこまでは仙子にもわかった。

 わからなかったのは、どうして仙子に見せるのか、であった。なぜそんな流れになるのか、慶司郎の考えがいまいち、いや、いまさんぐらい仙子にはわからなかったが、見せてくれるようなのでとりあえず見ることにした。


 ページは近年の識字率の向上の現況についてまとめられている。リーフレットもあるらしく、一部は画像で埋め込まれて紹介されていた。

 母国語で読める、というのはずいぶんストレスのないもので、さして時間もかからず仙子はページを読み切ることができた。


「ありがとう、読み終わったよ。助かった。手間をかけたね、申し訳ない」


 仙子が顔を上げると、慶司郎がこちらをじっ……と見ている。どうやら、何か言いたいことがあるらしい。嫌悪感を持っている様子はない。この時ばかりは、仙子は後輩の目で語る気質に感謝した。


「装備のことかい? それなら来週まで――」

「ちげぇ」


 仙子の言葉を遮り、慶司郎が言う。どことなく苦い表情で、けれども仙子に視線を合わせて。


「俺も、出る」

「……うん?」

「俺も、出たかった。あんなとこにいたかねぇ。出たいと思った。おんなじだ。あんたらと。……けど、選ばせる。俺は、わかんねぇまま死にたかない。何も知らねぇまま出て、喜んで、それで崩れんじゃやってらんねぇ。どうなるか、言って、選ばせる」


 唐突な発言だった。何のことだい、と尋ねようとして――気がつく。これは、先日の話の続きなのだ。慶司郎が、何を、語っているのか理解するにつれ、徐々に、仙子の息が詰まる。勝手に沸き上がる感情は安堵も憤りもないまぜで、声を封じてしまう。


――君は、君は、ずっと考えていてくれたのか。今日までずっと、私たちがしたことを、選んだことを考えていてくれたのか、わかろうとしてくれたのか、理解しようとしてくれたのか。ああ、でも、選ばせるのか、あんな小さい子に選ばせるのか、告げるのか。出たら死ぬと、出ても帰れないと、時は過ぎて、人ではなくなっていて、命を引きずり込んでいたあの子に、それを、告げて、教えて、選ばせるのか。出たら死ぬのに、それをわからせた上で選ばせるのか!


「『力』が足んなくて崩れるんなら、フィールドみてぇな所にいるんだって、手だろ」


 慶司郎が続ける。

 難しい手段だと、本人も知っているはずだ。フィールド内は設定によって簡単に環境や地形そのものが変わる。居住空間として想定されている場所ではないのだ。


 陽太ならば「理想論だな」と切って捨てるだろう。凛なら「実験動物よねー」だろうか。葵と遥希はたぶん何も言わないし、蓮は「イベント行けねーなー」とぼやくだろう。仙子には想像がついた。


 夢のような話だ――そう、言うことはたやすかった。けれど、この、ぶっきらぼうで無愛想で、言葉が足りず近寄りがたく思われている後輩の、優しさを、生かそうとするために考えた時間を、注いだ気持ちを、仙子はどうしてもむげにはできなかった。


「君は」

「……あァ?」

「君は、知りたいのか。自分が、変わってしまって、人でなくなってしまって、出たら、だめになると、そんな状態に自分が変わっていることを、知りたいのか?」

「そりゃそーだろ」


 慶司郎は、当然のように答える。



「俺のことは、俺が決める」



 仙子は、わらう。後輩の強さに。



「そうか……そうか」

「だから、俺がんなことになったら、仙子、てめぇ黙ってんじゃねぇぞ」


 後輩の言い方には凄みも迫力もあったが、仙子は全然怖くなかった。これはきっと、慶司郎なりの、歩み寄りなのだろうと、思った。たぶん。おそらく。本来ならば、魔戦コース生はセンターにいる時間なのだ。実技に手を抜かない慶司郎が、活動日でもないのに漫研の部室にいる理由はなかなか見当たらない。


「……わかったよ。そんなことが起こっては困るが、万が一、その時は、必ず、必ず、君に話すことを約束しよう」


 仙子は、わらう。慶司郎に告げる――そんな日が絶対に来ないことを必死に願う、自分の弱さを。


「さて、私はもう帰るが、君、このあと予定は?」

「センター」

「だろうね!」


 あらん限りの力を振り絞り、仙子は普段通りの表情を取り繕う。


 理解された喜びに。

 和解できた嬉しさに。

 残酷な要求をする後輩への腹立たしさに。

 正当な要求がもたらす苦しさに。


 体が震えそうなほどに荒らされた心の内を、何とか、抑えて。


 (……今日は無理だ、もう無理だ、帰ろう、帰ってさっさとシャワーを浴びてご飯を食べて、すぐに寝よう、すぐにだ。それでよく寝て、明日から頑張ろう)


 本日の勉強計画の放棄してしまう、受験生の鑑にはほど遠い仙子であった。




 


※International Literacy Day /参照webサイト:ユネスコ(国際連合教育科学文化機関、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization U.N.E.S.C.O.)


■次回投稿日:9月27日 22時


17.03.20 国際識字デーの経過年数を変更

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