8月31日(水) 晩夏
「よー、キンリュー。なに、3面? あ、この間のやつの呼び出しかー」
3Fの進路指導室を出た途端、3年生の木平 蓮に声をかけられた。
慶司郎は上級生から目をそらした。
タイミングは最悪だった。
ご迷惑をおかけしました、と担任と話しながら、慶司郎に続いて出てきたのは母親。いえいえ琴留君は先が楽しみですから、そんな先生、と雑談は続く。
早くどっか行け、と切実に念じた慶司郎の願いもむなしく――
「お前のお母さん、美人だなー。あ、こんちわー、ども、同じ部活の3年ですー、や、漫研のほうですー」
――蓮は空気を読まなかった。蓮に気づいた母親と挨拶を交わし、世間話まで始める始末。
親の呼び出しをくらったあげくにその親(しかも母親)を同じ部活(厳密には同好会)の先輩に見られる。こんな状況下における思春期系男子の内心は、筆舌に尽くし難い。その後、慶司郎はこの苦行を5分ほど耐えねばならなかった。
◆◇◆
あの日、外に出た後の、美咲が崩れた後の慶司郎の記憶は曖昧だ。
気がつけば、乗り換え駅の近くの総合病院で一夜を明かしていた。母親がベッドの脇で、無事で良かった、と泣いていたことだけは覚えている。
翌日は朝から検査の連続。外傷がないか改めて問診、「力」を体内に取り込んでいないかの簡易血液検査、念のためのにと頭部CTスキャンまで撮られた。
特に異常はない、とわかると、次に聞き取り調査が始まった。来たのは異形担当を名乗る国の調査官。「ふきだまり」の中とはいえ、「異形」が発生したことを重く見ている、とのことで、慶司郎は事の経緯を根掘り葉掘り、こと細かに尋ねられた。尋問めいた調査は、慶司郎の疲労を見兼ねた立ち会いの医師が止めるまで続く(母親は徹夜がたたって寝ていた)。最後に、ずっと気になっていた美咲のことを聞くと、「調査中だから」と素っ気なく返された。
国の調査官たちが帰った後は横になっていたのだが、どうにも気持ちが収まらない。美咲以外はどうなのかも気になってしまい、母親から携帯端末を取り返して仙子にメールを打つ。「大丈夫か」。慶司郎がいつまで待っても、返信はない。仙子はわりあい早く返事を返すタイプだ。気になって何度もディスプレイをのぞいていると、またも母親が泣きそうになった。仕方がないので寝た。
問題ないということで、慶司郎は27日には退院となった。迎えはどうにか仕事を切り上げた父親である。無事で良かったと涙され、軽率なことをしたと叱られた。アメリカ人の父親は感情表現が過剰に豊かだ。やって来た都の職員が父親の泣き顔を目撃し、病室の入り口でどん引きしていた。つられて母親も泣き出した。慶司郎はいろいろときつかった。個室だったのが救いだった。
落ち着いた後、都の職員から治療費などの説明を受ける。「力」に関係した被害は基金制度があって、多少は治療の補助費が出るという。とはいえ、今回は警報が出ていたにも関わらず、自分からそのエリアに行っている。適用されるかどうかは不明らしい。
自宅に戻ると、学校に退院の報告の電話をかけさせられた。担任からは、退院の祝いと共に、自宅待機と反省文提出の指示。3者面談もするという。日程を決めるために母親に代わる。電話口で、母親が何度も担任に詫びていた。舌打ちを、こらえた。
夜に仙子からの返信。『私は大事ないよ。ほかの皆も問題ないと聞いている』。安心する。そして、迷う。迷って、それでも問いを送る。「美咲は?」。この夜、1通のメールも受信しなかった。
仙子からの返事は、翌28日もそろそろ終わりの時刻に受け取った。『メールでは説明しづらい。学校で話そう』。3者面談が31日の午後イチにあるので、その後に部室で話すことにした。
そうして、慶司郎は31日を待っていた。
何が起こっていたのか何度も何度も考え、答えがわからないもどかしさに焦れ、その様子を母親に何度も心配されながら。
31日を、待っていた。
◆◇◆
「暑いだろう。何か飲むかい?」
仙子の申し出に、首を振って断る。
時間は、あまりなかった。
学校に残る、と言うと、母親は絶対だめ、と聞かなかった。どうにも信用がない。すぐに帰ると何度言っても、だめ、と繰り返すばかりだ。困ってしまい、だんだん母親に強い口調で当たってしまう。どうすればいいのか。焦る慶司郎を助けたのは蓮だった。
「キンリューあれだろ? 仙子と話あんだろ? すぐに済ませりゃいーじゃん。それまで待っててもらえよー。センセー! キ……琴留のおかーさん、ちょっと具合が悪いってさー! ここ空いてんでしょー? 休んでもらってていーっすかー?」
蓮は3Fにいた教師からさっさと許可を取り、面談をしていた進路指導室に母親を案内した。
「早く済ませろよー。仙子もさー、この間のやつで模試、受けらんなかったっぽくてさー、勉強遅れてんだし」
蓮の言葉を思い出す。
慶司郎を待っている間、仙子は勉強をしていたのだろう。暑いのによくいる、とぼんやりと思う。部室の大きなテーブルには、問題集やノートが広げられていた。
めまいを、慶司郎は覚える。
模試。
受験勉強。
学校。
日常に、ついていけない。
「美咲は、どうしたんだ?」
蝉が、うるさかった。
「……あの本からわかったそうだよ。学校の図書室の本で、まだ、貸し出し記録が残っていたらしい。美咲ちゃんは、下校途中で行方不明になっていた。隣駅に小学校があるだろう? 小学4年生。……行方不明になったのは、今から20年前」
仙子が答えた。
静かな声だった。
「ご家族は引っ越されている。連絡がつけば……出てきた服を、遺品として渡す」
「……遺品?」
「死んだものとして、ここの役場では処理が済んでいた」
おい、と仙子を止める。
「意味がわかんねぇ。いたじゃねぇか、ふざけたこと言ってんじゃねぇ!」
テーブルを叩く。
仙子のペンや消しゴムが、揺れた。
「……『ふきだまり』は、そういうことが起こる場所だ。20年前、美咲ちゃんは学校帰りにそこに迷い込んだ。そして行方不明になった。『力』があることすらもよくわかっていない時期だ。誰も、そんなものがあるとは知らなかった。だから、見つけられなかった。美咲ちゃんは……ずっと、あそこにいた」
慶司郎は、うまく、意味を理解することができなかった。
「『力』はイメージによって変わる。君もAR回路を使っているから、よく知っているだろう? ……回路は安全なんだ。使用者が指定したものしか実体化させない。使用者にその影響が出ることはない。でも、回路がなければ、『力』は、本当に、何にでもなる。何にでも変えてしまう。……美咲ちゃんにとって、『ふきだまり』は本当に怖かったんだろう。そして、借りていた本の、牛の怪物の話を思い出して、怖さのイメージとして『迷宮』ができた。そして、出られなくなった」
何でだ、と問う自分の声が、かすれていた。
「慶司郎、あの神話の中で、一番強いものはミノタウロスを倒した王子だ。……では、一番、長く、『迷宮』の中で生きていたものは何だろうか?」
言うな、と。
言うな、と慶司郎は思った。なぜかもわからず、ただ、ただそれだけを強く思って――気がついてしまった。
「……わかったかい? そうだ、ミノタウロスだよ。最初に迷宮に閉じこめられたもの。そして、倒されるまでは迷宮で最も強いもの、最も長く生きられるもの。……美咲ちゃんは怖かった。薄暗いあんな場所で、何がいるのかもわからなかった。怖くないようにするにはどうしたらいい? どうすれば生きていられる? ……そういったことを、思ったんだろう。『力』はイメージによって何にでも変わる。何でも変える。だから、怖くないものになった。だから、美咲ちゃんは変わってしまった。だから、『迷宮』から出られなくなった」
部室のカーテンが揺れる。
日差しは強くとも、カーテンにはらむ風には秋の涼しさがあった。
「『力』の濃度によって、『ふきだまり』がこちらに通じる場所も変わっていたのだと思う。『力』の濃度が低い時期は、もっと山の奥でつながっていたはずだ。最近は土砂崩れがあったというから、それで地中に溜まっていた『力』が吐き出されて、濃度が高くなったんだろう。そして、この間のような、ふもと寄りの場所で外と通じた。……最初に巻き込まれたのは、さくらちゃんだ。あの子も私たちと同じ体質のようだね。たぶん、外でも魔語が書ける」
思い出す。さくらのおびえた様子を。あれは、自分を怖がっていたのでは、ない?
「……初めは、同い年の子に見えたそうだよ。ふつうにしゃべりもした。だんだん、霧が――『力』のことだろうな――濃くなるにつれ、なにか、よくわからないものに見え、そのうちに君たちを見つけた。美咲ちゃんは、さくらちゃんも君たちも、まとめて『ふきだまり』の中に引きずり込んだ。私たちは、まぁ、おまけさ」
あとは知っての通りだ、と仙子は続けた。
「私たちはああいったことに巻き込まれやすいから、対処法を知っている。落ち着くこと、悲観的にならないこと、自分の望むゴールをイメージをすること。……変わらずに、生きて出ることだよ。美咲ちゃんが……危ないのはすぐに気がついた。服もやけに汚れていたし、さくらちゃんから話も聞いたしね。君と話している時は落ち着いているようだったな。人と話して、自分を思い出していたのかもしれない。……怖いものではない、自分をね」
仙子の表情は、ずっと変わらず、静かなままだった。
「あとはその考えを強固なものすれば良かった。自分は出られる、テセウスと共にいた生け贄だ、生きて出られる、『迷宮』の主ではない、『迷宮』の主は別にいる、糸があれば『迷宮』から抜けられる……そうして、あの子は『迷宮』から無事に出た」
「…………無事じゃ、ねぇだろ!!」
こらえきれず、立ち上がる。
がたん、とベンチがきしんだ。
「……無事だよ、慶司郎。あの子は、無事に、人の姿で、人のままで外に出た。怪物ではなかったし、怪物にはならなかった」
でもね、と仙子は慶司郎をまっすぐに見た。
「人は、20年も、飲まず食わずでは生きられない。生きていれば、それは人ではないんだ。人間ではないんだよ」
慶司郎は、呆然として、立ち尽くす。
だから、と仙子は答えた。「ふきだまり」の中で、陽太が「出られる」と告げた時のように、淡々とした表情だった。
「だから、美咲ちゃんは崩れた。あの子をあの子に戻していた『力』が、それを支えるだけの十分な『力』が、外にはない。……人だから、あの子は崩れたんだ」
どうしても。
どうしても、慶司郎は、それを聞くことを、尋ねることを、問いつめることを、どうしても、止められなかった。気がついてしまったそれを、そのままにすることができなかった。ここまで、ここまで詳しいのであれば――
「……知ってたのか?」
「うん?」
「……知ってて、崩れるって知ってて、『力』が足んねぇこと知ってて、知ってて外に出させたんか!?」
座ったまま、仙子は答えた。
最初から最後まで、変わらず、静かな声音だった。
「知っていたよ」
蝉が、うるさかった。
「知っていたよ。私は、外に出たかった。あのまま、あそこで、人でないものに変わりたくはなかった」
慶司郎は部室を飛び出した。
どうしようもない怒りを、ぶつける先のわからない衝動をこらえ、部室を飛び出し、書庫を駆け抜けた。
蝉が、うるさかった。
蝉の音の合間に、カナカナカナ……と秋の虫が鳴いていた。
待っていた母親を捕まえ、無言で手を引いて廊下を歩く。抗議の声は無視した。
そうして、家まで帰った。
ときどき、振り返って、母親の姿を確認しながら。
■次回更新日:9月8日 22時




