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  8月25日(木)17時 結んだ手のひら


「走れっ! 振り向くなっ!!」


 陽太の鋭い声が慶司郎の背中を打つ。


 白く細い「糸」をたどり、慶司郎は大きなストライドで走る。左手で、美咲と手を繋いでいた。ほとんど引きずっているはずだが、必死に美咲も走っているようだった。

 後ろでは杏がさくらの手を引いているはずだ。

 その後ろに葵。

 そして、最後尾に、陽太。

 そして、そして、その後ろからは――



 aaaaaaaAAaaAAAAaaaaaaAAAAAAAAAA!!



――「異形」が、(せま)っていた。



 ◆◇◆


 

 仙子からの連絡が「糸電話」に入ったのは、時刻が17時を過ぎた頃だった。


『濃度が急激に下がった。そろそろだと思う』

「わかった。……瀬里澤、まだ大丈夫か?」

『うん。……まあ、なんとかなりそうだよ!』


 コップから聞こえる声の調子は明るい。けれども陽太との会話の合間に聞こえる息は荒く、疲労を隠せていなかった。


 陽太は手短に仙子との通話を終える。

 次の連絡は、入り口から糸を出す時。その時にそなえ、仙子が通って行った迷路の通路脇に待機することになった。


 陽太が復習だ、と美咲とさくらにこの後の行動を確認している。


「いいか、瀬里澤が『糸』を外に出したら、ミノタウロスが現れる。弱そうだったら?」

「……たおす?」

「そうだ。強そうだったら?」

「せんりゃくてきてったい!」

「その通り、逃げるんじゃない。体勢を立て直すんだ。君らは王子と杏で組になる。僕と葵は一番後ろから行く。……そこの王子と杏はすごく強い。すごく強いが、今は武器がない。どんなに強くても武器がなければ不利だ。その武器を取りに行くために、僕たちは入り口に向かって走る。絶対に振り向くなよ。追いつかれる」

「……追いつかれたら、どうなるんですか?」

「……振り向かずに一生懸命走れば入り口から出られる。僕たちには身代わりの人形がある。余計なことは考えないで、それを守ればいい」

「あたし50m9秒だから早いよ! さくらちゃんは?」

「走るの、好きじゃない……」


 各人が作った土人形は、おのおのが持たされた。慶司郎のポケットの中にも身代わりの人形が入っている。何かあった時、一度だけその害を代わりに受けるという。

 こんな頼りないものが、と思う。

 慶司郎は身代わり回路の実物を見たことがない。陽太いわく、本物もこれと大差ないという。こんな頼りないものが、ふだんフィールドで受ける攻撃を肩代わりしているのかと思うと、にわかには信じられなかった。


 慶司郎は広場の中央に視線をやる。たいまつの光がろくに届かないそこは、薄ぼんやりとしてはっきりしない。


 半人半牛を(かたど)った土の塊は、今、その場所に置かれている。ミノタウロスがいるのは迷宮の中心だから、と陽太が据えたのだ。


「ほんとに、なんのか? 『異形』」

「……さぁ。わかんない」


 慶司郎のつぶやきに、隣で座り込んでいた杏が答えた。


「……わかんないけど、宅先輩の話はわりと当たるって、アネキが言ってた」


 信じとけば?、という杏も半信半疑の表情だった。慶司郎も漫研でのつきあいで陽太の知識量が豊富なことは感じていた。だが、こんな得体のしれない場所でそれが通用するか、わからなかった。


 不安、なのかもしれない。

 深く、息を吐く。

 


「なるわ」



 唐突に声をかけられた。


 杏の隣に、葵が立っていた。

 たいまつの揺れる炎に、白い顔が照らされる。



「あれは、なるわ。あれは、『異形』になる」



 細い指が、広場の中央を示す。 



「あれが、ミノタウロスになるの。だから、私たちは、このままの姿で、この迷宮を出るの」



 そう言って、葵は陽太たちの元へ歩いていく。長い黒髪が背中でさらさらと揺れていた。


 杏がごくり、と喉を鳴らす。ケホ、と一つ咳き込み、膝の間に顔をうずめた。


「……早く、出たい」


 慶司郎は顔をそむけ、迷路の奥を見る。


 手元の「糸玉」から伸びる白い「糸」。細い「糸」が、頼りない「糸」が、それでもしっかりとした輪郭を持って薄暗い通路を貫いていた。


 口にはしなかったが、慶司郎も同じ意見だった。






 ――そうして、その時は、きた。






 ◆◇◆






 変化は一瞬で起こった。


 全員が耳を澄ます中、コップから『今、外に出す』と仙子の声が聞こえたその時、ゴオォ、と地面が鳴った。


 慶司郎には見えた。


 迷路の奥から、天井から、たいまつを揺らし、「糸」を揺らし、透明な「力」が流れていくのを。広場を走り回り、徐々に徐々に渦を描くのを。巨大な、強大な渦を巻くのを。



 広場の中央に、なにかが動いた。


 薄暗い中央で、なにかが蠢いた。

 


 耳鳴りがする。鼓動がうるさい。慶司郎の耳から頭の奥までドクドクと響く。

 ズ、ズ、と重い音。規則正しいそれは、まるで人が、とても大きな人が歩いているような音。


(ある、く?)


 暗がりから、それは、ぬぅ、と出てきた。


 編み上げのサンダルから太い足が二本。まとったぼろ切れからのぞくのは泥にまみれた大きな肉体。そこまでは、人なのに、確かに、人なのに、丸太のような首の上に乗るのは、角の生えた――



「走れっ!」



 ――牛の顔が、こちらを見た。


 ドンッ、と押された背中に「振り向くなっ」と陽太の声。


「走れっ! 振り向くなっ!!」


 広場から迷路へ。

 無我夢中で、それでもなんとか美咲の手を取り、足を前に出す。

 白い「糸」をたどって。





 aaaaaaaaaaaaaAAAAAAA………!


 背後から「異形」の声が響く。少しばかり距離が空いたのかも知れないが、走る足をゆるめることができない。


 薄暗い通路をどれだけ走ったのか、慶司郎にはもはやわからなかった。長い距離なのかも知れないし、案外わずかな時間だったのかも知れない。

 実技の訓練で長距離を延々走らされたが、そのどれよりもつらかった。

 呼吸は乱れ、気持ちがまとまらない。ただ、ただ、早く、早く、早く走れ、と気が急く。


 初めて見る異形に少しばかり興味があった。本物はどんなものなのか、できるのならば、戦ってみたかった。


 けれども。

 けれども。


 見た瞬間、「異形」を見た瞬間、目が合った瞬間、慶司郎が感じたものは。


(くそったれ……!)


 認めるわけにはいかない。

 認めることなどできない。


 ゼェゼェと苦し気な美咲の呼吸が聞こえる。けれども慶司郎は振り返ることすらできず、ただただ小さな手を引いて走る。


 声が、聞こえなかった。


 陽太の「走れっ」という声が、いつの間にか聞こえなかった。聞こえなくなって、それから「異形」の声が遠のいていた。気がついてしまった。

 杏とさくらがいるのはすぐ後ろの足音でわかった。葵はわからない。なぜか、慶司郎はいない気がした。けれどもやはり、振り返ることができなかった。


 

 通路の角を曲がる。

 白い「糸」が揺れている。

 ゆらり、それは、色を失って透明になり、その先には――



「走れ」



 ――教官がいた。

 センターでの実技授業のように、フィールド用のいつもの装備をつけ、いつものように穏やかな声をかけて、教官が慶司郎の脇をすり抜けていった。

 迷路の奥へ、迷宮の中心へ。



 

 透明な「糸」を見失わないように、どれほど走っただろうか。

 足元が、明るくなっていた。


「慶司郎っ、みんなっ、早く!」


 声に、顔を上げる。

 仙子の姿。

 血の気の引いた顔を、明るく照らす光。


 透明な「糸」は確かに「迷宮」の出口へ繋がっている。

 慶司郎は小さな手を引き、倒れ込むようにして光へ飛び込んだ。



 ◆◇◆



 出口の先は、慶司郎と杏が白い霧に巻き込まれた脇道だった。

 西日が木々の隙間からさし、暗い場所に順応していた網膜を容赦なく刺激する。


 蝉が、鳴いていた。

 夏の終わりを、最期を惜しむように、激しく鳴いている。



――お家に、帰らなくっちゃ



 地面に倒れていた慶司郎は、聞こえた美咲の声に身を起こそうとした。


「見るなっ慶司郎!」


 頭を押さえ込まれる。髪をつかまれ、抱え込まれる。反射的に、慶司郎は手を、その手を振り払おうとして――


「だめだ、見なくていいんだ、慶司郎、見ないでやってくれ……」


 ――声に、一瞬、止められる。ひずんだ、かすれた、泣きそうな、仙子の声に。



 とさり


 

 何かが落ちる、軽い音。


 

 慶司郎は仙子の手を除け、振り返った。


 

 本が地面に落ちていた。

 横には靴。まるで今まで履いていたような並び方。


 はらり


 その上に、黒い塵にまみれたホットパンツとTシャツが落ちてくる。泥水を被ったように変色したそれは、ボロボロにほつれていた。


 視線を上げる。

 美咲を見ようとして、外に出られてきっと笑っていると思って、それを見ようと見上げて――



「…………あ?」



 ――美咲が、崩れていた。

 残っていた頭だけが、にこり、笑い、そうしてばらぱらぱら……と見る間に崩れて、服の上の黒い塵を増やした。そして、ざぁ、と強く吹いた風に、黒い塵は散っていった。


 本が、開いていた。


 見える挿し絵は、半人半牛の怪物。


 迷宮の主。

 迷宮に閉じこめられていたもの。

 そして最期に倒されたもの。

 

 本の向こうに、杏とさくらの姿が見えた。その奥には、教官や教師に背負われた陽太や葵も。

 

 けれども、美咲だけはいなかった。

 崩れてしまった。





 

 蝉が、鳴いていた。

 ただ、ないていた。






 


 何も。

 何もかも、わからず、耐えきれず、慶司郎はうずくまった。






■次回更新日:8月31日 22時

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