8月25日(木)16時 糸玉を転がして
仙子が迷路を進むのを見送ると、陽太の提案でしばらく休憩を取ることになった。
仙子が――正確には「糸」が――入り口に到達すれば、この広場に化け物が現れることになる。「『力』でできた、本物の異形だ。油断するな」と陽太は言った。それまでは体力を温存するべきだ、ということだった。
実際の話はもう少し深刻だった。
慶司郎は杏と共に、広場のすみに引っ張られた。離れた場所で、葵が美咲とさくらの相手をしている。
「正直な話、僕たちでは異形は倒せない」
「……どうすんだ?」
「逃げるしかない。というか、逃げるのが最善で唯一の策だ」
「異形を、ミノタウロスを倒さなきゃ出られないんじゃないんですか?」
杏が押し殺した声を出す。
「そうだ。だが倒すのは僕たちじゃない。たぶん、教官たちが突入してくる。……言ったろ? 僕たちはGPSをつけてる。その信号が消えてもう2時間は経つ。考えるだけで憂鬱だが、大騒ぎしているだろうな。特に梶、お前の姉が。電話の最後から『ふきだまり』に飲まれたのはわかっているから、準備もしているはずだ」
「……準備?」
慶司郎の疑問に陽太は肩をすくめた。
「当たり前の準備さ。AR回路を外に持ち出すんだ。AR回路は異形を倒すためにある。フィールドの中で、異形もどきを倒すためじゃない。この濃度だ、AR回路を起動できるし、あれさえあればどうにかなる。うちの実技の教官たちは異形を倒すプロだ。餅は餅屋っていうだろ? 専門家に任せるのが一番安全だ」
「でも、でも……どうやって入ってきてもらうんですか? 倒さなきゃ、出られないんでしょ? どこから入るかわかんないんじゃないですか?」
「『糸』が入り口に着いたら、それにGPSをくっつけて外に出すように瀬里澤には言ってある。糸は迷宮の外になければならないから、『糸』の先端は必ず外に出せる。信号が拾えれば、教官たちが駆けつけてくる」
「……GPSが、外に出なかったらどうする?」
「その時は、まぁ、瀬里澤に負担がかかるが、『糸』を思いっきり伸ばして教官を探してもらう。教官は、琴留、お前と同じで『力』が見えるタイプだから、『糸』をたどれる。……問題は、教官たちが突入するまで、迷宮の入り口を見つけるまで、どれくらい時間がかかるか、だ」
梶、と陽太は杏に強い口調で言った。
「異形と戦うな。どんなに弱そうに見えても、戦うな。これは絶対に守れ。……人間は、異形に勝てる。お前、この間、そう言ったんだってな」
「……アネキから聞いたんですか?」
「ああ。別に責めてるわけじゃない。僕はいい言葉だと思った。人間は異形に勝てる。確かにそうだ。そうしてきた。そうなった。
でも、回路がなくっちゃ安全じゃない。全く安全じゃない。勘違いするなよ。琴留、お前もだ。回路があれば、お前らなら勝てると思う。でも、ここに回路はない。ふだんやってる実技じゃないんだ。絶対に異形と戦うな」
死ぬぞ。
陽太の言葉は静かだった。表情も、恐れているようにも興奮しているようにも見えなかった。ただ、事実を告げている。そんな言い方だった。
慶司郎は、ゾクリ、と背中に何かを感じた。認めたくないが、それは、恐れ、だったのかもしれない。
「あの子たちには、逃げることはぎりぎりまで言わない。パニくらせたくないからな。直前までは王子役の琴留が倒せることにしておく。……本気にするなよ? 異形が出たら、ひたすら逃げる。瀬里澤の『糸』をたどって入り口まで走る。教官たちも『糸』を頼りに来るはずだから、それが一番早くて安全だ。……どんなに時間がかかっても、教官たちは必ず来てくれる。その時間を、僕たちが逃げ切れれば」
僕たちはこの迷宮から出られる。
死ぬぞ、と言った時と同じように、静かな陽太の言葉だった。同じように、ただ、事実を告げる。そんな表情だった。
◆◇◆
慶司郎は広場の壁に背を預けて座っていた。手の中には、白い「糸玉」があった。
仙子が作った「力」で作った「糸玉」は慶司郎に預けられた。王子役が持つべきだ、という仙子の主張に慶司郎以外の全員が賛成した。
4月に見たときは違って、「糸玉」は崩れもせずしっかりと丸まっている。感触はないのに、たしかに手のひらにある「糸玉」に、慶司郎は不思議な気分にさせられる。
「きれい」
慶司郎の隣で美咲が「糸玉」を眺めていた。懐かれたようだ。美咲がよく見えるように「糸玉」の向きを変える。
仙子の「糸玉」は「力」の固まりだ。外では「力」が見える者にしか見えないが、「ふきだまり」の中では別であるらしい。陽太が言うには「『迷宮』の中で役割が決まったんだ。『力』が変質して、『糸玉』として見えるようになった」とのことだ。
本当かどうかわからなかったが、慶司郎はとりあえず、そうか、と返しておいた。ただ、「迷宮」を抜ける際には「力」の濃度が不安定になって、いつもの仙子の「糸」に戻ってしまうかもしれない。なので、「迷宮」を抜け出す時の先頭は、メンバーの中で唯一「力」が見える慶司郎になった。
「早く聞こえないかな」
美咲はそんなことも知らず、「糸玉」から飛び出た「糸」がくっついたコップをいじる。
電波の通じない「ふきだまり」の中で、どのように入り口を見つけたことを伝えるのか。仙子は「糸電話ができるんだ!」と胸を張って答えた。実はこの「糸」、振動を伝えることもできるそうだ。つくづく便利な魔語である。今回のような嫌なこともあるのだろうが、慶司郎は魔語をかける3年生がやっぱりうらやましかった。
コップはさくらが持っていた折りたたみ式を採用。登山用に身につけていたという。仙子側には不要、ということでコップは「糸玉」側につけられた。仙子の出発前にテストをしたが、はっきり声が聞こえて驚かされた。
そういえば、と慶司郎は美咲に尋ねる。
「どっから来たんだ?」
コップの話題が出たときにわかったのだが、美咲とさくらは最初から一緒にいたわけではないそうだ。
美咲が野玖宮高校近くの町名を答える。
地元の子どもだった。
さくらは隣県在住。自治体が企画したサマーキャンプに応募し、野玖宮高校の近くにあるキャンプ場で釣りや登山の体験イベントに参加していたという。今日は慶司郎たちと同じくアスレチック施設にいたが、お昼を食べた後、急遽、解散・帰宅することをイベント職員から告げられたという。本人はわかっていなかったが、「力」の濃度が高くなった影響だろう。話の途中、「楽しかったから、帰りたくなくて。ちょっとだけって残ってたら、迷っちゃって……会ったの」と、美咲を指さした。
「いつから『ふきだまり』に入ったんだ?」
警報は午前中に出された。地元の人間なら情報を得るのも早いだろう。その前から迷ったとなれば、保護者はずいぶんと心配しているはずだ。
「……わかんない。気がついたら、ここにいたの。なんか、出られないから怖くなって本読んでた。そしたら『迷宮』になってた」
相変わらず、要領を得ない答えだった。
ガキならこんなもんか、と慶司郎は思った。今回の自分の行動がよく考えればガキなのは、棚に上げておくことにする。
「手、洗いたいなー。土ってよごれる。ハンカチ、後で返すね」
美咲はもともと汚れていたが(迷った時に転んで泥を被ったらしい)が、人形を作ったので、全員、土がついてしまった。さくらが水筒に水を入れていたので洗うこともできたが、「ここはフィールドと同じだ。あそこは飲み食い禁止だろ? ……なんかのはずみで口に入っても困る。念のため、出るまでやめておこう」と陽太が許さなかった。
「ね、お兄さんさ、ほんとに王子さまみたい。ハンカチ持ってて、ママが言ってたみたいな、こーしえんのハンカチ王子」
「……?」
「昔ね、こーしえんですっごくかっこいいピッチャーがいたんだって。その人が、汗かくと、きれーなハンカチで汗をふいたんだって。それがかっこよくて、すっごい人気で、ほんと王子様みたいだったんだって」
「……知らねぇな」
慶司郎は野球に興味がない。ちょうど今時期やっている甲子園も流し見する程度。強豪校はなんとなくわかるが、選手個人はさっぱりである。
「王子様、プロやきゅーにいったの。だけど、なんかねー、夏休みの前かな? ママが言ってたんだけど、シューカンシにのっちゃったんだって。なんかあったらしいよ、今年。じょせーもんだいかー、ザンネン、って言ってた」
「…………知らねーな」
電車で週刊誌の広告は見るが、これまた興味がない分野だ。記事タイトルもまともに読んだことはない。なんというか、王子役、というだけでも微妙なのに、週刊誌に載った元王子に例えられるとなると、慶司郎はさらに複雑な気分だった。
ぷっ、と聞こえたので目を向ける。近くで横になっていた杏の背中が、震えている。けほけほ、と咳込んでいるが、どうにもわざとらしかった。
「……寝る」
15分の仮眠でも、だいぶ体力が回復するだろう。
えーつまんないー、と言う美咲を無視して、慶司郎は目を閉じた。
■次回更新日:8月25日(木)17時




