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  8月25日(木)14時 事の起こり





 その時も、蝉は鳴いていた。


 羽音は何匹も何匹も重なり、途切れることなく、暑く湿った夕方の空気を震わせて、慶司郎の耳に響く。


「見るなっ慶司郎!」


 頭を押さえ込まれる。髪をつかまれ、抱え込まれる。反射的に、慶司郎はその手を、上級生の手を振り払おうとして――


「だめだ、見なくていいんだ、慶司郎、見ないでやってくれ……」


 ――声に、一瞬、止められる。ひずんだ、かすれた、泣きそうな、仙子の声に。



 とさり


 

 何かが落ちる、軽い音。


 

 慶司郎は仙子の手を除け、振り返った。






 蝉が、鳴いていた。

 ただ、ないていた。






 ◆◇◆






 駅のホームで慶司郎は手をかざす。台風一過とあって日差しはずいぶんと強い。気温がさほど高くないのが救いだ。

 沿線では快速も止まる大きい駅だが、ここも無人駅である。観光客は多いが駅員はいない。慶司郎は誰にも制止されずに、午前中は帰宅するために通らされた改札を、今度は駅の外へ向かって通り抜ける。




 夏休みも残りわずかである。

 1年生は魔戦コースの琴留(ことどめ) 慶司郎(けいしろう)は今週も合宿(希望制)に参加していた。今回は山中でのトレーニングが中心。フィールド内の地形は砂漠から海・山までバリエーションに富む。それらに対応するため、今週は学校近隣にある自然の地形を活かしたアスレチック施設を利用していた。都が運営しているので使用料もリーズナブル。学校から2つほど山奥の駅にあるので、合宿所から通っていた。


 その合宿が中止になったのは、今日の昼前のことだ。

 なんでも、近くの山中で「力」の濃度が急激に高まったという。町から警報が出たそうで、連絡を受けた学校側は、急遽、合宿を中止にして魔戦コース生へ帰宅の指示を出した。「力」の濃度や危険性については教官をはじめとする指導陣も詳しい。早い判断だった。

 収まりがつかなかったのは、魔戦コースの通学生たちである。


 ――寮生はいい。お盆休みも終わって寮住まいが始まっているから、警報が解除されたらすぐにトレーニングを再開できる。けれども、自分たちは家に帰って連絡が来るまで自宅で待機しなければならない。この時間がもったいない。せめてもう少し様子を見られないのか……!


 慶司郎も同じ意見だったが黙っていた。クラスメイトが発言しているので同じ事を言う必要性を感じなかったし、なにより教官が前言を撤回するとは思えなかった。

 案の定、抗議に対して教官は穏やかな声で――「指導に関しては学校、そして保護者から一任を書面で得ている。『力』の危険性についてはすでに皆に説明した。それを聞いてなお残るならば、安全を保障しない。生きるも死ぬも、自分で決めれば良い」――これ以上の責任は取らないことを明言した。引率の教師が慌ててフォローに入っていたが、場はしん……、と静まった。教官は外部から招かれた指導者だ(つまり教師ではない)、ということは4月の授業はじめに説明を受けてはいた。が、ここまで突き放した対応をされるとは、生徒たちも思っていなかった。

 とはいえ、魔戦コース生は基本的に「強いヤツが上」という思考である。実技で最も強い教官の言葉に、皆、納得はしないものの従った。慶司郎も従った。


 表面上は。


 帰りの電車で、通学生たちはぶーたれ、悪態をついていた。慶司郎はいつもの通りに最後尾の車両でそれを聞き、いつもの通りに乗り換え駅で降りた。そして同級生らが周囲にいないことを確認し、トイレで私服に着替え(合宿で着なかった分)、コインロッカーにスポーツバッグと勉強道具を押し込み、再び電車に乗ってアスレチック施設の最寄り駅に戻ったのだ。


(どこで見える?)


 目的は、「力」の流れを見ることである。


 ――濃度が高まったといっても、フィールド内ほどではないだろう。ということは、見えるか見えないかのぎりぎりのライン。そういった濃度で「力」を見られるようになれば、濃度の高いフィールド内ではもっと鮮明に見えるはず。こんな機会などそうはない、高い濃度などフィールドで慣れている、そうだ、ばれなければ問題ない……!


 といわけで、慶司郎はこっそり戻ってきたのである。山奥まで入るつもりはさすがにない。せいぜいトレーニングをした都の施設周辺が目的地だ。念のため、母親には「寄り道をして遅くなる」とメッセージを送った。これで学校から連絡が入ってもばっちりである。


 駅からアスレチック施設への登山道を歩いていると、反対方向、つまり駅へ下る人々が増えてきた。アスレチック施設が早めに閉まることになったと、会話の切れ端が聞こえる。町から出た警報が東京都まで上がり、施設にも連絡が入ったのだろう。


(急がねぇと)


 施設が閉まる前に到着したかった。

 近道を、と登山道の本筋から離れ、脇道を行く。昨日も訓練で施設まで散々走らされたので、道はよく知っていた。

 急な山道を小走りに駆ける。


 もう少しで目的地、というところで、慶司郎は思いもかけない人物に遭遇した。

 

「…………さいってー……」


 脇道のさらに脇でうずくまっていたのは、同じ魔戦コースの(かじ) (あん)だった。



 ◆◇◆



「…………だからー、だいじょぶだって。……はぁ!? いいって、ほんと、だいじょぶだから!」


 杏の電話はなかなか終わりそうになかった。相手側(姉らしい)は慶司郎に聞こえるほど張り上げている。早く下りなさい、何やってんの馬鹿、などの叱責だ。自分にも言われているようで居心地が悪く、慶司郎は杏から目をそらす。


 この同級生も、慶司郎と同じく「力」の濃度が高い場所で自分の感覚を磨こうと来たようだ。私服に着替えたところまで同じだった。けれども、当の濃度に酔って気持ちが悪くなったらしい。はっきりとは言わないが、杏は「力」を嗅覚か味覚で感じるタイプのようである。慶司郎が見つけた時には口元を押さえていた。


(仕方ねぇか)


 見かけはアレだが慶司郎も人の子である。肝心の「力」の流れはまだ見えないが、具合の悪い同級生を放ってまで行く気にはなれなかった。それが女子ならなおさらだった。母親にも「女の子とちっちゃい子には優しくね!」といつも言われている。ばれなければ問題ないが、放置したことを母親に黙っているのも落ち着きが悪い。


「先輩なんか呼ばなくっていいって! いるから! 一人で下りられっから! ……誰って、キン、じゃなくて琴留!」


 振り向くと杏と目があった。明らかに「やっば」という顔をしている。3年生にはよくされるが、同学年にも「キンリュー」呼びをされているとは知らなかった。3年の姉経由だろうか。何か言うよりこちらが効果的だろうと、フン、と鼻で笑ってやる。


 杏はますます目をつり上がらせ、怒鳴った。


「うっせー馬鹿アネキ! 一人だってあたしは下りられるよ! あんたと違うし、問題ないの!」


 向こう側はさらにヒートアップして何かを叫びはじめ――



「……え?」



 ――突然、電話が切れた。



「え、なにこれ?」


 杏が端末をいじる。自分から切ったわけではないようだ。何度もかけ直そうとしているが、つながる様子はない。

 東京都ではあるが、現在地はけっこうな山奥である。電波の状態が悪くなったのか、と慶司郎は思った。



「は? ウソでしょ、なんでかかんないの」


 声に焦り。

 不穏なものを感じた慶司郎はあたりを見回し、それに、気がついた。


「……おい」

「なに!」


 白い霧。


 いつの間にか足元に溜まっていた。

 透けるほど薄いけれども、風に散ることなくゆるゆると動く。


「道が見えなくなる。早くしろ」

「っるせーな! 指図すんな!」


(口の悪ぃ女)


 これだけ元気ならば一人で歩けるだろう、と杏と共に道を下る。だが、しばらくすると同級生がいきなり咳き込んだ。


 尋常な咳の仕方ではない。


 歩くこともできず、立つこともできず、体を丸め、腹と口を押さえて、切れ目なく咳き込む。咳の合間、ヒュ、と喉が鳴っている。


 大丈夫か、と聞くのも無意味だった。見るからに大丈夫ではない。腕を取り、引きずるように連れていく。しゃべる余裕もないのか、杏は抵抗しない。


 霧が、濃くなっていた。


 動かないほうが良いのかもしれない。台風が過ぎたばかりで足場もぬかるんでいる。けれども、杏の状態もまずい。「喘息持ちか?」と問えば首を横に振ったが、咳はいっこうに止まらない。

 

 霧が、流れてくる。


 周囲の木々はずいぶん曖昧な輪郭になっている。道はまだわかるが、それも時間の問題に思えた。「ここで休むか?」と聞けば、杏は激しく、それこそ咳より激しく首を振って嫌がった。慶司郎も、あまりここにはいたくない気分だったので助かった。


(やべぇな)


 杏はろくに歩けそうにない。

 肩を貸すにも道幅が狭く茂みにひっかかる。やりたくはないが、背負うしかなさそうだ。同年代の女子にしたいことではない。向こうも嫌だろが、下りるにはそれしかない。人に見られたら、と想像するとかなり憂鬱だった。杏がいたのだ。同じことを考えた同級生は他にもいるかもしれない。出くわしたら人生最悪の事態である。


 覚悟を決めて杏を背負おうとした時――



「あの、だいじょぶ、ですか?」



 ――声をかけられた。


 振り返る。


 道の奥、山側に、子どもが二人、いた。


 霧が、白さを増す。


 杏の咳きが激しくなった。


「その人のせきが、聞こえて」


 慶司郎は妙なことに気がついた。

 二人のうち、声をかけてきた子どもは異様に服が汚れている。泥水でも被ったのだろうか。ボーイッシュなTシャツとホットパンツが変色している。気にはしていなのか、元気そうな表情でこちらを見ている。山の中だというのに、小脇に本を抱えていた。もう片方の少女はそれなりにきれいな格好だったが、顔色に血の気がなく、うつむいてた。

 どちらも小学生だろう。高学年にも見えるが、女子は年のわりにませているから、慶司郎にはよくわからない。


「……大丈夫だ。駅に戻って休む」

「駅!? やった、わたしたち、道がわかんなくなっちゃって」


 これで帰れるね、と元気な少女が隣の少女に言う。

 うつむいてた少女が顔をあげる。その目はきょろきょろと動き回り、定まらない。


 舌打ちを、慶司郎はこらえる。

 小さな子どもに怖がられることはわりとある。気の弱そうな子どもだから怯えられたのかもしれない。こんな山中で泣き出されても困る。できるだけ優しい口調を意識し、返事をする。


「ここを下れば大きな道に出る。そこから山を降りれば、すぐ駅だ」


 近いんだ、とはしゃぐ少女とは対照的に、おとなしそうな少女は慶司郎を見て、ぴたり、固まる。やはり怖がられたようだ。

 杏の咳はますます止まらない。丸まってしまった背中がけいれんを起こしたように震える。


「でも、その人、歩けないんじゃない? どっかで休めば?」

「……場所が悪ぃ」


 こんな所では、と霧に囲まれた周りを見渡すと、少女が元気よく「わたし、いいとこ知ってる! そこなら休めるよ!」と言った。迷っていたのではないかと思いつつ、「そりゃいい」と慶司郎は合いの手を返し――



「じめじめしてうす暗いけど、静かなところ! きっと気に入るから!」



 ――腕を、引かれた。


 蝉の音が、止んでいた。

 騒がしいほどの虫の音が、聞こえない。


 気づかぬうちに少女は慶司郎のすぐそばに立ち、にこ、と笑って腕をつかんでいた。反対の手には、うつむいていた少女。その目は恐怖を浮かべて――



「離れろ慶司郎っ!!」



 ――汚れた服の少女を見ていた。



 誰だ、と思う間もなく、「糸」が見えた。細い、細い、「糸」。すぐに切れそうなほど細いのに、「力」に満ちた、見たことのある、「糸」。それは一瞬で体に絡み、そばの杏にも絡み――



「いっしょにいこう?」



 ――声と共に白い霧に包まれ、慶司郎は何もわからなくなった。






次回更新日:8月25日 15時

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