7月27日(水) 夏休みの一日
瀬里澤仙子の夏休みの一日は、携帯のアラーム(バイブモード)から始まる。
もぞり、と伸ばした手の中の画面に表示される時刻、「AM5:00」。
窓の外からはスズメのさえずり。
室内は同室者(葵)の寝息。
カーテンのすき間から入る光は淡い。
眠い、と大あくびを一つ。
ここで二度寝の誘惑に負けると7時の朝食まで爆睡することになる。なんとか誘惑を振り払い、身支度を整えて仙子は寮の共有スペースへ。
今日も朝から雨だ。連日、天気の悪い日が続いている。気温も低いので温かいものが飲みたくなる。電気ポットの電源ケーブルをさす。ラジオから流れる天気予報は「今日明日で雨も最後、まもなく梅雨明けです。明後日からは30℃を越える夏らしい暑さになるでしょう」と告げているが、本当かなと首をひねる。ポットの中身を入れ替え沸騰スイッチを押し、冷蔵庫から麦茶を一杯。ちょっと体が冷える。
テーブルにはすでに陽太の姿。気の抜けた私服ジャージはおそらく寝間着兼用だ。男子はこのあたりものぐさができてうらやましい、と仙子はつねづね思う。寝癖を直すのに今日も時間を取られ、壁掛け時計の針は5時半を指す。
「おはよう、瀬里澤。今日は起きたんだな」
「おはよう会長。……蓮は?」
「声はかけた」
同室の蓮も早朝勉強仲間だが、仙子が見るところ起きてくる確率は半々というところ。仙子も陽太も、同い年の級友に対して手取り足取り面倒を見てやる気などさらっさらないので、「なんで起こしてくんねーんだよー」という蓮のぶーたれた文句は無言で流している。陽太の声がけは、本人いわく、「同室のよしみ」とのこと。遥希がいれば起こしてくれるかもしれないが、あいにく公務員試験のため帰省中だ。
「今日も二度寝だろうか」
「本人次第だな」
3年生が裏方をしたオープンスクールも無事終わった。
仙子は陽太や蓮と共に、もっぱら共有スペースで受験勉強に勤しんでいる。
実際のテスト時間に慣れるために朝早くから勉強するとなると、同室の葵の迷惑になる。また、図書館で一人勉強したところ、突然これまでにない読書熱にかられ、所蔵している紙のライトノベルにハードカバー、果ては漫研書庫の漫画本まで読み漁ってしまった。「三国志」(横山○輝・文庫版全30巻)は手を伸ばした寸前で思いとどまった。
これはまずい、と気がついた仙子、同じく部室で読書に励んでしまっていた陽太と手を組み、お互いを見張り役として受験勉強を進めているのだ。
当初、決めた時間に勉強をしていなかったら罰金100円、としていたのだが、実践してみたところ友情にヒビが入りそうになったので却下。現状、相手が誘惑に負けていたら「ふふん」と優越感に満ちた顔をして鼻で笑う、という案に落ち着いている。これが意外と頭にくるので、仙子もさぼらずに勉強が進んでいる。
テーブルに置きっぱなしにしている勉強道具と計画表を広げる。
今日のスケジュールを確認。寝起きは始めやすい作業系の勉強。漢字の練習と世界史の一問一答を本日のノルマ分こなす。気分が乗って無意識に声が出たらしく「瀬里澤うるさい」と陽太からつっこみ。頭のエンジンがかかってきたら、数学の問題集を進める。一番つらい物理は朝食後の午前中だが、今日は学校で対策授業があるのでそちらを優先しよう……。
ピンピロリーン
電気ポットから気の抜けた電子音。
お湯が沸いたようだ。
「瀬里澤、僕はほうじ茶がいい」
「奇遇だね会長、私もホットなものを飲みたいと思っていた。たまには濃いめに煎れた紅茶にたっぷりの牛乳と砂糖なんてどうだい?」
「それもいいな」
――立った方が負けだ。
せっかく調子が出てきたというのに、ここで立ったら最初からやり直しである。
回避するコツは、問題集から視線を上げないこと。一心不乱にシャープペンを走らせ、相手より集中して取り組んでいる様子をアピールすること。できれば学習タブレット(学校貸与・回路非搭載)で映像授業を見ているとよりベター。
高まる緊張感。
しゅわしゅわと湯気を吐く電気ポット。
しょうもない我慢比べは「……っはよーー……ねみー」と起きてくる蓮に丸投げ――「やあ蓮おはよう良いタイミングだね!」「へ?」「今日は紅茶だ。茶葉の缶はそこの棚にあるよ!」――して解決するのが最近のパターン。
◆◇◆
朝食を済ませてひと勉強し、10時からは学校3Fにある情報室のPC(回路非搭載)で講習を視聴する。
野玖宮高校・東京キャンパスはもともと遠隔授業を取り入れている。学校が行う夏期講習も、関西にある本校から遠路はるばる飛んできた電波で受講することができる。費用は授業料に含まれているので、仙子はここぞとばかりに見ることにしている。
情報室は奥の一部がパーテーションで区切られ、視聴用のPCブースが設けられている。事前に申請したカリキュラムを黙々と視聴する。わかるところは2倍速、わからないところはリピート操作。物理はやっぱりだいたいわからないので、公式が意味する運動を表したアニメーションを延々と見る。講習を受けに登校してきた凛と軽口――「仙子、あんた口からなんか出てる」「魂かな」「目がすわってるし」――をたたいて気を紛らわす。
情報室は寮側に面している。
休憩中、ぼーーっと外を眺めていると、甲高い声が聞こえた。よく見ると、下は小学生から上は中学生とおぼしき子どもたちが、水着のバッグを持って学校の敷地の奥から歩いてきていた。敷地の奥にはプールやテニスコートがある。
「あれ? 今日プール当番ないんでしょ? うちの妹、一緒に来たわよ」
「うん、朝は降っていたしね。今日のプール開放は中止だよ。……あぁ、たぶん、今は雨があがっているから、様子を見にきたのかな?」
野玖宮高校・東京キャンパスでは、地域貢献の一環として、休日や長期休暇の際、学校の各種施設を地元住人に無料で貸し出している。学校の体育館やテニスコート、プールなどがその対象だ。
夏休みは週に数回、午前または午後に開放されており、許可証(地元住民対象)があれば無料で利用できる。プール監督は地元の自治会が持ち回り、受付は東京キャンパスの生徒が受け持っている。土地柄、観光業が盛んで、かきいれ時である。川遊びも楽しめる地区なのだが、子どもだけ、というのは地域の保護者も不安なのだろう。利用者は多い。
仙子も1・2年の頃に受付をやったが、今年は1年生の魔戦コースが担当になっている。なんでも体力作りのためにひたすらプールを泳ぐそうで、利用するからそのついでだとか。泳げてせいぜい150m(25m×6回)の仙子は、彼らがどれくらい泳ぐことになるのか見当もつかない。
「今週末には梅雨明けだそうだ」
「暑くなんでしょ? いやよねー、ほんっと寝苦しくって」
「まったく」
子どもたちを見送り、またしばらく映像授業に向かえば、そろそろ昼時だ。
3年の寮生は、休日や長期休暇の際、隣駅にある1・2年の寮で作られた食事を運んでもらい、寮で食べている。今週は1年生(魔戦・魔技両コース)の強化合宿があるため、学校がある日と同様、朝昼晩を学校の食堂で彼らと一緒にとる。
魔戦コースの1年生は午前中たっぷり走り込んだはずなのだが、疲れも知らず、魔技コース生も含めて大騒ぎである。朝から晩まで好きなことをできるので、楽しくてしょうがないだろう。若さがあふれてはみ出している。勉強漬けの仙子にはうらやましい限りだ。
ちなみに、慶司郎の一角だけはたいてい人がおらず、静かである。仙子は最初「いじめ!?」と疑ったが、さっさと昼食を食べてとっとと出ていく慶司郎の堂々とした姿に、それはないなと思い直した。その後、漫研の部室で寝っ転がっているのを見つけて確信を深めた。たぶん、自由に過ごしたくて単独行動をしているのだろう。周囲のことは気にもとめていない。相変わらず我が道を行く後輩である。
仙子は大人数で食べるのはそれだけで楽しいと思うタイプなのだが、困るのは昼食の味付けである。朝から体力作りに山道を走る魔戦コース向けのためか、全体的に味が濃い。
「この油淋鶏、とてもおいしいのだけれども……」
しょっぱいために食が進むのである。
ため息を一つ。
ごま油ベースのたれがからんだ唐揚げが、仙子の食欲中枢を刺激する。
「食べ過ぎてしまう」
「おかわりすんの?」
「……どうしよう。凛は?」
「あたしはしないけど、んー、もうないんじゃない? ご飯もおかずも」
「くっ」
「……仙子ちゃん」
「姫ちゃんっ大丈夫だから皿を出さないでおくれ! そこまで飢えていないから!」
迷っているうち、魔戦コース生に食べ尽くされることもしばしば。
魔戦コースの合宿は来週もある(平日実施予定)。今度は希望者のみだそうだが、この調子では大半が参加するだろう。当面はこの悩ましい悩みが続くことになりそうだ。
◆◇◆
「具合はどうだい?」
「発動まで時間がかかる。もっと縮められねーのか」
昼食後はまったりと部室で過ごす。
眠くなる時間のため、15時までは潔く休憩時間に設定。各人が思い思い過ごす。
陽太は黙々と電子リーダー(回路非搭載)で読書。蓮は奥のテーブルで「ねええぇぇむううぅぅぅがあああぁ」とうめいてる。8月の即売会イベントに出す本の原稿が詰まっているようだ。
仙子は「三国志」の続きを読んだり、ゲームハード(国産据え置き機・初期ロット)を校内の無線LANにつなぎ、大きなディスプレイで大学のwebサイトを閲覧したりする。今週の土曜日には第一志望の大学でオープンキャンパスがあるので、ついでに旅費や交通手段の乗り継ぎ確認も済ませる。
「これ以上は無理じゃないかな。感度はかなり高めている。些細なことで暴発したら元も子もない」
ここ数日は慶司郎の相談に乗ることが多い。終業式後もちょくちょくメールのやりとりはしていたが、この時間帯に3年生が部室でくつろいでいるのを発見してからは、新装備の調整依頼を直接持ち込んでくる。
慶司郎は夏休みも個人訓練のスケジュールになっているらしい。時間に融通がきくようで、昼食後はたいていソファで漫画本を読んでいる。部室で仙子たち3年生をつかまえるためだろう。
夏休みの期間、1年生からのこういった相談は、火曜日に受けて金曜日に回答することになっている。凛の発案で、1年生の中でも存在感の強い妹を通じてそのような約束になった。
慶司郎のやっていることはルール破りとも言えるが、やる気があるのは良いことだ、と仙子は話を受けている。これで慶司郎も考えているのか、休憩時間を越してまで話を続けることはない。もともとは3年生の負担を減らすためのルールなので、負担にならないなければ構わないのだ。凛など「自分で言いだしもしない奴の手伝いなんてまっぴらごめんよ。でもやりたいってんなら別だわ。こーいうのは利用したもん勝ちなの」と言って妹からの相談をガンガン受けている。「意外とシスコンだったな」とは、同級生の新たな一面を発見した陽太の感想。
手のひらサイズの薄い金属板を慶司郎に返す。納得がいかないのか、慶司郎は板を鋭い目つきでにらんでいる。
――どうしたものかな。
仙子は先日の慶司郎の敗北を思い出す。
1学期最後の実技授業は、慶司郎VS魔戦コース生ほとんど、の対人戦であった。
魔戦コース生のリーダーは凛の妹、杏。序盤から彼女は小型ドローンを複数召喚し、慶司郎にまとわりつかせた。散々に慶司郎の視界を邪魔し、隙を見つけてはチームメイトに攻撃をさせて防御システムの飽和を狙う。4月に慶司郎が負けた異形を真似た戦法だった。
慶司郎も自分の弱点をそのままにしていたわけではない。教官との1対1訓練でしごかれていたそうで、必要な「力」をキープしながら防御・移動し、クラスメイトを一撃一殺で沈めていく。
最後は、大量のドローンを実体化させて特攻をかけた杏との相打ちだった。どちらも互いの攻撃によって防御システムの上限を越えてAR回路が強制停止。勝負は引き分けに思われた――杏のチームメイトのAR回路が、フィールド上のマップに突如として出現しなければ。
恐るるべきは、杏の勝利への執念。
最後の策として、チームメイトのAR回路のセンサーをだまくらかしてフィールド上での情報を消し、最初から死んだふりをさせていたという。「最後まで立ってるヤツが勝者よ」と杏は言い放ち、慶司郎は無言でフィールドを去った。
ライブ映像を見ていた仙子は、「本当に去年まで中学生だったのかなこの子たち」と戦慄した。
センサーをいじったことは教師陣でも物議をかもしたが、教官が「よく考えている」と発言したことで杏のチームの勝利が確定した。とはいえ「同じ手段は異形には通じない。生きて勝ちたいのならば他の手段も考えるように」という続きもあったので、今回限りの戦法となった。
慶司郎の相談を受けた仙子が、寮生と共にどーする?、と考えた装備の1つが、この薄いプレートである。「力」を流すと暴風が巻き起こり、周囲のものを吹き飛ばす回路が刻まれた実装備だ。
慶司郎の敗因は機動性を封じられたことにある。たいがいの異形やプレイヤーにはそんなことはできないが、今回のような複数戦や、選抜レベルのプレイヤーにはまだかなわないだろう。そうなった時、そこから抜け出し距離を稼ぐ、といった緊急避難で用いる。薄さ軽さを優先したため現状では使い捨てだが、それゆえドッグタグのように首から下げても行動を阻害しない。他の1年生からも、こういった消耗アイテム的な装備の希望が出ていたので、仙子としてもちょうど良かった。課題制作の一環として仕上げることができる。
これだけではトッププレイヤー対策には足りないだろう、ということで、もう一案、慶司郎のコートへの仕込みも考えているが、こちらは実装備化が難しく、まだまだ形にはなっていない。
「今のところ装備として調整できるのはこれくらいだよ。コートはもうちょっと待ってくれたまえ。慶司郎、すまないが、当面は君の腕次第、というところだ」
ぽん、と仙子が自分の腕をたたくと、慶司郎は目を細めた。
青い瞳に剣呑な光を浮かぶ。
「……わかった。これだけでも勝ってやる」
わずかに、口角が持ち上がる。
笑った、のだろう。
たとえ、猛獣が獲物の喉笛を食い破るような雰囲気の表情でも。
「……ほどほどに、手加減したまえよ」
「あァ? 勝負に手ぇ抜くなんてありえねぇよ」
元気が出たのは良いけれど、やっぱり本当に15歳かなこの発言、と冷や汗が流れる仙子だ。
◆◇◆
おやつを食べて脳へのエネルギー(糖質)を補給し、再び寮で勉強をこなす。現国の長い記述問題に涙し、世界史の横のつながりを問う問題に頭をひねっていれば、あっという間に夕食。食後は寮に戻って洗濯・掃除に風呂を済ませる。
にぎやかな声。
寮の窓から外を眺めれば、合宿所の前で1年生たちが花火に興じていた。
当初は夕食後もセンターを利用する予定だったそうだ。1学期の終わり頃に仙子が感じたように、ここ最近、山中の「力」の濃度が高めらしい。町に報告はしているが、広い山中のこと、調査と対策には時間がかかっているようだ。「力」はその量によって、資源にも災いにもなる。こんな時に夜道を移動するのもよくない、ということで自主学習時間になったそうだ。「めんどーってぼやいてたわ」という凛の妹経由の情報である。
合宿は月曜日から始まった。今日は水曜日で中日。休息も兼ねて、教師や教官からの許可が降りたのかもしれない。1年生たちは手持ち花火やらちょっとした仕掛け花火やらではしゃいでいる。
合宿所前の階段では、陽太が魔技コースの1年生たちと何やら話し込んでいた。陽太は魔技コースの実技指導補助をしているので、面識があるのだろう。身振り手振りを入れる様子を見るに、仙子は「怪談か」と思いいたる。
陽太の怪談を思い出し、ぶるり、震えが走る。
背後を振り返り、何もいないことを確認する。
陽太の怪談は、実に、怖い。
この辺りに伝わる民話からちょっと怖い系の話を抜き出し、「そういえば、ここの山の奥には炭焼き小屋があったらしい」とさりげない調子で語り出すのだ。心の準備もなく聞いているとだんたん雲行きが怪しくなり、最後には一人でシャワーを浴びるのもイヤになるオチが来る。1年生の頃は何度も怪談テロにあった。
ヒャ、と声があがり、「昔話さ」と陽太が笑っている。「先輩マジこえー!」と1年生が騒ぎ、つられた後輩たちが新たな犠牲者として集まってくる。
陽太の周囲の輪は、また少し、大きくなった。
今の2年生とはこんな関係を作れなかったから、仙子は、他人事ではあるけれど、ちょっとばかり、嬉しい。
20時から22時まで、またも勉強の時間だ。それまでに陽太が戻ってこなければ、「ふふん」と鼻で笑える権利が仙子に発生する。
どんな顔でやってやろうか、と思案しながら、仙子は髪を乾かすために洗面所に向かう。
1日の勉強時間はこれでだいたい9~10時間ということころ。
受験生、勝負の夏は、あと一か月ほど続く。
■次回更新日 8月11日 23時




