6月 1日(水) 衣替え
――5分。わずか5分で人はここまで堕ちるというのか。
仙子は絶望した。
「衣替えの歴史は古い。『更新』の『更』を使って『更衣』とも呼ばれ、さかのぼれば平安時代から行われていた。日本は季節の変わり目がはっきりしているから衣装の切り替えもしやすかったんだろう。公家たちは4月から9月は毎月のように装束を替えていたそうだ」
「お、会長ー語り出しちゃってどーしたー? さすが歴オタ、そんなウンチクやっちゃうとほんとにオタクっぽいなー」
「暇なんだろ」
「この習慣は武家や庶民にも引き継がれた。江戸時代に入ってからは幕府が制度化して、武家では年4回行われたという。当時の庶民は質屋をタンス代わりにして衣替えをしていたらしい」
「へー」
「元ネタはグー(ピー)ル先生? ウィ(ピー)ペディアさん?」
「追加して広辞苑と時代劇小説。すまんが作家は誰か忘れた。
世が明治になってもこの習慣は続き、役人は6月と10月に制服を着替えるようになる。太陽暦にあわせた都合だろう。当時の日本は今よりももっと中央集権だ、上のやることはみんな真似する。学校もこれにならって教師や生徒の衣服を6月と10月に替えるようになり、21世紀の今もそれが続いている」
「……で、どーしたの会長」
「つまりは?」
「今日は6月1日。もうすぐ梅雨入りだ。雨が降っている。しかも粒の細かい霧雨ときた。とても、とても、とても、濡れやすい!」
「…………」
「…………」
「ブラウスがしっとりと濡れて体に張りつく! イイ! あのぺったり感! 絶妙に写し出される素肌の色よ!」
「…………会長ってさー、結構むっつりだよな」
「…………意外とな。嫌いじゃないけど」
「木平、最上、自分に嘘をつくんじゃない。好きだろう? なあ好きだろう?」
「いやー俺の嫁二次元だし」
「画面の外にいるのはちょっと」
「素直になれ、さあ素直になるんだ!
よーく見てみろ、あの登校してくる女子たちを!
透けブラは最高だな!
これこそ人類の至宝!
白いブラウスの下にうっすらと透ける鮮やかなブラジャー!
彼女たちは自分のブラが透けていることに気がついている、気がついているが、そっと素知らぬフリをしているんだ。だって恥ずかしいだろう? 本来は秘められているはずのプライベートなコーディネートが赤裸々に暴かれてしまっている! そう、羞恥! 彼女たちには恥じらいを隠し、身悶えながらそれに耐えて今この瞬間を生きている!」
「会長ー会長ー帰ってきてくれー」
「理解はできるがとりあえず落ち着け」
「ハレールヤ! ことほぎたまえ! 今日、無粋なブレザーは取り払われた!
……本来なら邪魔物でしかないサマーベストも取り除きたいが、生徒総会で採択が決まっては仕方ない、着用が個人の自由に委ねられていることだけが儚い救い……。
民主主義の欠点はこうして少数の意見を踏みつぶしてしまうことだ。歴史が証明している」
「まーでもさ、ブラは透けねーけどあのセーターのVネック、わりと深めじゃん? 谷間がチラッとするのはいーよな。蒸しあちーと上のボタン開けるっしょ」
「お前いいこと言うな。天才か」
「………………確かに。貧乳にも心躍る切なさがあるが、豊かな胸はそれだけで賛美すべき存在だ。本人の性格は脇に置いて。あれ、凛の妹か?」
「おーでけー。そうそう、姉貴といっしょででかいなー」
「……………………挟めそう」
「……………………ナニを、と聞くだけ野暮な話だな。しかし素晴らしい谷間と隆起。ボタンの隙間からチラリズム。姉と違って垂れてない。まさに地母神、豊穣の女神、彼女こそガイア。拝みたくなる」
「ありがたやーありがたやー」
「パフパフ神、ここに降り立つ」
――以上が仙子と葵が連れだってトイレに行っていた5分間の教室の惨状である。戻ってきたらごらんのありさまであった。たった5分でここまでひどい話題になるとは、さすが年頃の男子。
女子がいない時に、という気遣いはあったのだろう。しかし教室には3人しかいないし、男子たちの声(主に陽太)はだんだんと盛り上がっている。中の会話は廊下にだだ漏れであった。
(女3人で姦しいとはよく言うけれど、男3人ならなんだろう? 下ネタ? 下世話? 馬鹿? 馬鹿なのか?)
仙子は必死でどうでもいいことを考え続けた。そうでもしないと隣が怖い。葵はとっくに仙子の後ろに隠れている。
凜が教室の引き戸の前に立っていた。
妹より一足先に登校していたようだ。
全てを洗い流したような晴れやかな笑顔で――言った。
「これだから童貞は」
彼女の手に握られたスマホが、ミシ、と鳴ったのは、たぶん仙子の気のせいではない。
■次回更新日:6月22日




