5月20日(金) 1年生の一日
野玖宮高校・東京キャンパスの魔語運動コース在籍、琴留慶司郎の通学は、乗車駅の駅ナカで早昼を買うことから始まる。
弁当は持っているが、それだけでは足りないのが成長期。本日のチョイスは濃厚チーズが挟まったベーグル2つ。片手で食べられるのが楽でいい。
……ちょっと考える。
実技があるので放課後用にもう一つ追加。
ホーム階に降りたら周囲のチェックを欠かさない。
(うっとーしい。人のツラ見て騒ぎやがって)
乗る電車を1本早めたのが良かったのか、今日は写真を撮られなかった。
ちらちらこちらを伺うのは同じ制服の学生。同じ車両になればまたこちらを気にしてくる。面倒でも、階段から離れた最後尾車両の、これまた最後尾に座るのが最近の慶司郎の習慣だ。
学校の最寄り駅を出ると、勾配のきつい坂が続く。意識して早足で歩く。雨が降っているので滑らないように気をつける。息が切れるくらいが目安。トレーニングは日々の積み重ねだ。積み上げた努力を体は裏切らない。
この間の体育の授業では、学校からセンターの間を限界まで走った。走り込んだ。舗装されていない山道までルートに入っていた。木の根や草が生い茂り、でこぼこしていてひどく走りにくかった。
慎重に走る慶司郎の脇を追い抜いたのは3年生たちだった。同じ時間に体育があるようで、同じルートを走っていたらしい。慣れた道なのか、仙子など「やっぱり君がトップか! 転ばないよう気をつけて!」と声をかける余裕すらあった。
あれで火がついた、と思う。3年だろうが慣れていようが、女子に抜かれたままでいるなど許せることではない。
――山道は譲ってやる、怪我をしたら意味がない、だが舗装に戻ったら覚えてろ……!
合宿所前のラスト200mで仙子を追い抜いた時は、最っ高に気持ち良かった。心臓が爆発するかと思うほど苦しかったが、それが気にならないほどの達成感だった。
(あの間抜けヅラ!)
思い出すと今でも笑ってしまいそうで、慶司郎は奥歯をぐっと噛む。
いい気分だ。どうせならもっと早く家を出て、あの山道を走りこんでトレーニングにするのもありかもしれない。
そんなことを考えながら、教室の戸を開け――
「琴留君! 同じ中学校だったって子からID教えてもらっちゃった! 私の送ったから見てくれる?」
――ると、自分の個人情報が流出していた。ポケットのスマホが振動し、メッセージアプリの通知を告げている。
「……………………ぁア?」
口にできる言葉はそれくらいだった。「ふざけんな」も「ぶッ殺すぞ」も飲み込んだ。衝動をおさえこみ、壁も同級生も殴らなかった。なんとかこらえた。
教室の空気が凍りついていた。
話しかけてきた女子は固まってしまっている。いったいこの女子はどこで同級生をみつけたのだろう。野玖宮高校に慶司郎と同じ中学校出身の生徒などいない。
――勝手に調べて勝手に騒いで、やめろっつえばまた騒ぎやがって。
目つきが悪くなるのも、声が低くなるのもわかった。わかったが、慶司郎にはどうしようもなかった。こんな気持ちで笑顔など作れない。
「…………関係ねぇ」
言い捨てて席につく。鞄を置いて――サボろうかと考え、けれども止める。行くあてがない――座り、顔を外に向ける。一番後ろの窓際なので都合がいい。
「イケメンはたいへーん」
隣の席の女子がぼそっと呟いたのが聞こえた。慶司郎がにらむと、「こっわー」と言ってまたマニキュアを塗り始めた。
外を向く。
雨が、強くなっていた。
教室内は、恐る恐る、といった様子でざわめきを取り戻す。教室の隅ではメッセージを送ったとかいう女子が「どうしよう」とパニックになり、周りの女子に慰められているのが聞こえる。
(くそったれ)
スマホが振動する。
何回も。
何回も。
何回も。
中学校時代の同級生は他人のIDをずいぶん手広く教えたらしい。それとも教えた先がまた教えたのか。
メッセージはさきほどの女子以外からも来ていた。違う高校の女子のようだ。文面から推測するに、自分の画像まで出回っているらしい。「かっこいいね!」とか「ケイ君って呼びたい」とか好き勝手に書かれていた。
(知らねぇよ、てめぇなんか)
慶司郎のスマホは、そのあともしばらく、見知らぬ誰かからの通知を知らせた。
知っている者など、誰一人いなかった。
2限と3限の休み時間は少々長めの15分。15分もあれば軽食くらいペロリだ。早弁をする者、こっそり菓子をつまむ者、買いそびれて「腹がああぁぁぁ……」と絶望に浸る者、とさまざまである。
東京キャンパスは最寄りのコンビニまで車で10分、というステキ立地にある。通学生が朝に食料を買えなければ、頼みの綱は学食か購買部(生活雑貨の他に菓子類あり)しかない。ただこの2つ、残念ながら生徒向けの販売は昼休みからであった。
「はぁらぁがぁ……へぇっ……たぁ……」
同級生のうめき声をBGMに、慶司郎は今朝買ったベーグルを一口。
うまい。
チーズがクリーミーでこってりとしている。ベーグルそのものもボリュームがみっしりとあって、食べごたえがある。
気分がちょっと良くなる。
1つ目を早々に片づけ、2つ目へ。
空いている片手で慶司郎は学習用タブレットを操作する。
2限の物理は簡単だった。
物理の公式はよく使う。フィールド内での移動距離の計算に必要なのだ。前から調べていたから、授業が復習のようだった。先取りしておきたいので家で進めておくよう、カレンダーアプリに予定をメモ(同期できるスマホアプリがあるので便利)。来週のテストも問題ないだろう。
高校の授業はさほど難しくない。海外にいた間、家庭教師とやっていた内容のほうがよっぽど難しかった。日本に来てから勉強で困るということはないが、ずいぶん先の内容をさせられていたようだ……。
ピコン
タブレット画面に新着通知。タイトルは「3年生からのお知らせ」。
目を通す。
読み進めるうちにテンションが上がり、慶司郎は奥歯をぐっと噛む。本日2回目。
新装備の実装が、なんと今日の実技で来る!
それ以外にも希望の多い装備を制作してくれるという。同じ1年である魔技コースのレベルにはがっかりしていたからちょうど良かった。回路制作を習い始めた程度では話にならない。
希望装備はパターンが決まっているようだが、使用感をフィードバックして修正を入れていく、という文面が続いた。
ますますテンションが上がる。
自分に最適化した装備が作れるかもしれない。開発者は3年生だ。近くにいるのだから、うまくすれば自分向けに調整を入れられるかもしれない、いや入れさせよう、もしかしたら自分だけのユニーク装備が……!
「♪~」
鼻歌が聞こえた。
隣の女子が満面の笑みで学習用タブレットをいじっている。どうやら同じ通知を見ているようだ。
そういえばこいつもまあまあ強かった、と慶司郎は思い出す。杏とかいう名前で、3年生の姉がいるらしい。先月の合宿ではPvPで最後まで立ち向かってきた同級生だ。当然、自分が勝ったが、装備が増えれば戦い方も変わるだろう。もちろん負けないが。
「なに」
慶司郎が見ていることに気がついたようだ。
にらんでくる。
鼻で笑ってやった。
杏の目つきがますます悪くなった。
チャイムが鳴る。
同級生たちが慌ただしく席に駆け込む。
ベーグルの最後のひとかけらを口に放り込み、慶司郎も3限の準備をした。
野玖宮高校・東京キャンパスの午後の授業は少々変則的だ。センターを利用する実技授業は午後に多く、生徒たちはバスを使って昼休みに移動する。これが金曜日になると全学年が移動するのでさらに混む。学校のバスを逃すと民営の路線バスに自腹で乗ることになるので、生徒の財布には地味に痛い。
新装備のデータは6限に配布された。耳につけるタイプで、他の装備の邪魔をしない。慶司郎はフィールド内でさっそく実体化させ、「異形」と戦ってみた。レベルの低いものほど隠蔽の効果がよく出る。よく出るのだが、ちょっと気になる部分も出た。
通信機器を立ち上げ、こちらをモニタリングしている3年生の回線を呼び出す。
「おい」
『…………せめて名前くらい呼ぼうか、慶司郎』
慶司郎としては必要性を感じなかった。そもそも自分の担当だと言ったのは向こうだし、こうして呼べば仙子は応えたのだから問題ない。
「ずっと発動してんのか?」
『……えーーっと、何がだい?』
「耳のやつだ」
『ああ、配った装備だね。そうだよ。パッシブタイプで設定してある』
「邪魔だ。ずっとはいらねー。『力』を無駄に使う。必要な時は俺が決める」
『……つまり?』
「いじれないのか? 使う時に使いたい」
『アクティブということか。できないことはないけれど……意識しないと発動しないよ? 手間のわりに、消費量が減らせるわけではないと思う』
「かまわねぇ」
別の3年生が『修正? めんどくせー』などと言っているのが聞こえたが気にしない。
慶司郎にとって、装備が消費する「力」は少なければ少ないほどいい。どれだけ移動に「力」を回せるかが勝負なのだ。
話していると別の回線がつながる。
『琴留。それほど『力』を節約したいのならば、別の方法がある』
実技の指導教官だった。
『回路で実体化させるのではなく、実物を身につければいい』
「……あんのか?」
フィールドでの装備品には2種類ある。
AR回路で実体化させるものと、現実にある物質に魔語を刻んで回路とするものだ。当然、実物に刻むほうが材料費やら加工賃やらがかかり、価格も上がる。大きな装備であれば工作機械で一気に魔語を刻めるが、今回のイヤーカフスのような小さなものは手作業で刻むことになる。ここまでくると、ちょっと驚きのお値段になってくる。
『試作品があったな、瀬里澤』
『はい教官! ……ですがあれは先輩用ですので、慶司郎が使うには回路用の文言を追加しなければなりませんが』
『瀬里澤、頼まれてくれるか?』
『はい!』
『うわーチョロ子やっぱりチョロ子だわー』
『チョロすぎてむしろびびる』
じわり。
腹の底から、興奮が立ち上る。
『琴留。実装備をつければ制御する回路が増えることになる。今までAR回路しか扱っていなかっただろう。制御できる自信はあるか?』
通信機器が伝えるのは指導教官の声だけだ。
けれども、慶司郎には、はっきりとわかった。
――こいつ、笑ってやがる。
嘲りではない。
むしろ、余裕を持ってこちらを見ている。強者が格下を微笑ましく見ているような、そんな笑いだ。
じわり。
腹の底から、凶暴な感情が湧き上る。
「……やってやろうじゃねぇか」
『楽しみだ』
フィールドからあがれ、と指示して指導教官からの通信は切れた。
野玖宮高等学校・東京キャンパスの1年生は2コースに分かれている。
AR回路の運用が特徴の魔語運動コース(魔戦)と、魔語の修得や回路作成が特徴の魔語技術(略称「魔技」)コースだ。この2コース、合同で行う授業もあるが、教室もカリキュラムも異なる。
慶司郎たち魔戦コースの実技がフィールド内で行われるのに対し、魔技コースの実技は工作室で行われる。
魔技コースの入学には条件がある。「力」の濃度が高い施設内で、魔語の手書きができることだ(書ける文字数は問わない)。魔技コースのカリキュラムには回路の手作り実習もあるので、「力」を持った魔語の手書きができなければお話にならないのである。
「力」を持った魔語を書けるかどうか、判別するのは簡単だ。専用工具を用いて導電性の金属板に魔語を刻めば良い。「力」がなければ、魔語はただの模様にしか見えない。この模様が母国語としてすらすら読めれば、成功したことがわかる。
センターの工作室に入ると、金属を削るかん高い音と、焦げたような特有の臭いにまとわりつかれた。目の前の空間を、ゆらり、透明な「力」が流れる。
慶司郎は思わず足を止める。
「こっちだ!」
奥の作業台で仙子が手を振った。
つられて周囲の魔技コースの1年生たちが振り向き――こちらをガン見してくる。
(しまった)
舌打ちを、慶司郎はこらえる。
センターの特定区画では、装備を実体化させたまま移動することが許可されている。工作室もその範囲内だった。着替えるのが面倒なのでフィールド装備のまま来たのだが、悪目立ちしているようだ。
足早に移動。コートの裾がひるがえる。
工作室には大型機械の他、一人用の作業台がいくつもある。このあたりの作りは学校の工作室も同じだ。
仙子は作業台に向かい、模様のような小さいシールを狭い幅(5mm)のリングに丁寧に張りつけている。装備は複数のリングが連なったイヤーカフスだ。新たにリングを加工して付け加えるらしい。
周囲には魔技コースの1年生が集まってきた。仙子の加工を実演見本にするようで、3年生たちが説明を――「これから回路用の魔語を刻みまーす。どんな感じで書くのか見てねー!」「私より姫ちゃんのほうが上手だけれどもね」「この人数じゃ葵は無理でしょ、手が震えちゃうわ。後ろー、イス乗っていいから見えるようにしてー」――をしている。
やがて、拡大鏡の下にシールの貼られたリングがセットされた。
防護メガネをつけた仙子が専用工具の電源を入れる。高速で回るそれはゆっくりとリングの上のシールにあてられ――
「直で削るとけっこう失敗しちゃうから、シールで魔語の下書きをしておきまーす」
慶司郎には仙子の指先から、ぞろり、と動く「糸」が見えた。それは工具の先端を伝い、シールごと削り取られたリングの表面に張りつき――
「削る時、つまり工具の先が触れた時に、『力』を強くイメージしてくださーい。このへんは個人で違うと思うんで、自分がやりやすいようにしてねー」
奇妙な光景だった。べたりと貼りついた「糸」が形作るのは模様のはずなのに、慶司郎にはそれが日本語として目に映り――
「シールはきっちり削ってくださーい。残ると回路の性能が落ちるんで」
――意味がわかる。
1つ目のリング――『吸収せよ』。
2つ目のリング――『変換せよ』。
シールでは単なる模様だったものが、仙子が刻むと「力」を持った魔語となった。
周囲から「おー」「すげー」「読めるねー」と感嘆の声があがる。
「この2つが全部の回路に一番最初に刻む文でーす。これ入れないと回路になんないから、まずはこれをきれいに彫れるように練習してねー、かいさーん」
魔技コースの1年生がそれぞれの作業台に戻る。
ちょいちょい
コートを引っ張られた。
仙子だ。「すぐに装備するのだろう? ここでは邪魔になるから」と工作室から廊下に連れ出された。
魔戦コースは全員が「AR活動部」(部活。大会にもこの部で参加)に所属しているが、中間考査が近いため今週は部活動がない。
フィールドにいられないならば用はないので、慶司郎も授業後はとっととセンターを出てきた。
帰りの電車をホームで待つ間、仙子からもらった書類を封筒から出す。
「君のことだ。この装備も欲しいと言い出すと思ってね」
連れ出された廊下で渡されたのは、「校内における回路制作・実物販売制度について」と書かれた書類一式だった。
もちろん欲しいのでうなずく。できたての装備は仙子の手の中にある。早くつけてみたかった。
「順番が逆になってしまったが、本来はその紙を提出してから制作に入るんだ。作れる生徒が実習で作る程度だから、まあ性能は高くはないがね。
希望者はリストの中から作ってもらいたい回路を選び、実費を学校に支払うことになっている。もしこの装備を買い取りたいのであれば、保護者の許可と支払いが必要だ」
高い金額ではない。むしろ、ネットオークションなどに出品されているような、人が刻んだ実装備に比べればかなり安い。
書類を真剣に読んでいたら、「私の回路はあまり性能が良くないよ」と仙子が笑った。
「よく考えるように! 希望できる回路の数は年間で決まっている。今年は2~3個だったかな?」
そもそも実装備を持っていないので構わなかった。
それよりも早くつけたい。仙子に「くれ」と片手を出す。
「君ね……あぁ、ちょっと待ちたまえ。もともとはだいぶ前に作られた物なんだ。ちゃんと発動するか確認するから」
仙子は装備からさきほど作ったリング2本を抜いて「それを持っていてくれ」とこちらに渡してきた。そして残った装備を手の平に乗せ――
ヴン
「!」
――わずかに、ほんの一瞬だけだが、仙子がわからなかった。目の前にいるはずなのに、見えているはずなのに、「いなくなった」と思った。
「大丈夫だね」
「使えんじゃねーか」
「ん?」
「回路」
今、確かに仙子は装備を発動していた。自分でも効果を実感した。けれども、この上級生は「回路を使えない」と言っていたはずだ。
嘘をつかれたのか、と思ったが「違うよ」と返される。
「先に2つ渡しただろう? その2つのリングに、回路にするための魔語を刻んだんだ。回路にするためにはその2つの文が必要だ。それがなければ回路にならない」
仙子が残りのリングを渡してくる。
「私たちはね、回路が使えないだけだ。魔語は書けるし、回路でなければこうして使うこともできる」
「作れんのに、使えねーのか?」
「…………そうだね、改めて言われると、自分でも不思議な話だと思うよ。どうも、回路にするためのこの2文と相性が悪いそうだ」
削ればいい、と言いかけ、気がつく。
それでは回路にならない。回路でなければ――
「回路にしなければ、慶司郎、君は使えないよ。……君だけではないか。回路があるから、回路を通して、魔語が誰でも使える。私たち以外は」
ままならないものだね、と仙子は肩をすくめた。
電車はまだ来ない。
今のうちに、と慶司郎は3つ目のベーグルをかじる。
……うまい。
チーズの水分がベーグルに吸われたのか、生地がしっとりとしている。これはこれでありだ。3つ買って正解だった、うまいからまた買おう、肉が挟まったのもうまそうだった……。
同級生たちの話し声が聞こえてきた。
電車の本数は少ないから、どうしても乗り降りする電車はかぶる。
ちらり、と見た同級生の中に、隣の席の女子・杏がいて――
(……あの野郎)
――同じ封筒を持っていた。
色まで同じだ。入っている書類も同じかもしれない。いや、絶対同じだろう。3年に姉がいるとか。作らせる気だ、身内なら作った装備に注文をつけて細かく調整することだってできるだろう、自分だってそうする……!
(ぜってー負けねぇ)
手を伸ばす。
いくつも連なったイヤーカフスが、ぴったりと耳にはまっている。
回路を使えないのは大変なのだろうが、回路を自由に作れるのはうらやましい、役に立つじゃねぇか……。
プワーン、と気の抜けた音を鳴らし、電車がやってくる。
使い込んで調整を仙子にさせよう、と慶司郎は固く決意した。
■次回更新日:5月27日 22時




