3月10日(金) おわりの日(こども)
桜一輪、風に、揺れる――
砂が目に入ったのか、後輩が顔をしかめた。
けれども目をぬぐうこともせず、ただ、右手をこちらに伸ばしている。
震える――そう、恐ろしくもないのに仙子は震えていた。急な発熱くらいは起こしているだろう――手で、その、後輩の右の手のひらに、ボタンを落とす。
学校名の刻まれた、ブレザータイプ(女子)の制服の、赤茶けたボタン。
後輩はそのボタンをぎゅっと握り、そして、そっ……と口元に近づける。
そのさまを見上げていた仙子の体温は、ちょっくら限界近くまで上がった。
そうして、仙子の顔が真っ赤になったことを確認した後輩は、こぶしを開き、仙子を見下ろしたまま――つまりは視線を仙子にぴったり固定したまま――ていねいに、口づけを落とした。
仙子の制服の、第二ボタンに。
海外育ちすごいなっ!、とか君は本当に十六歳か!?、とかさまざまな感想が頭をよぎったが、仙子も先輩としての矜持がある。後輩が口を開く前に、先手を打った。
「また、会おう」
後輩の顔が、こわばる。
予感はあった。ずっと知らないフリをして、走って逃げたあの予感。往生際が悪い、と我がことながらつくづく思う。
仙子だってわかっている(つもりだ)。わざわざ卒業式後に呼び出されて第二ボタンを乞われた意味くらい、よくわかっている(つもりだ)。卒業式の朝に突然3年生の教室に現れて式後の予定を尋ね――「いろいろあるよ」「じゃあ式が終わったらプール裏に来い」「……君、ひとの話を聞いていたかい?」――てきた後輩の意図くらい、よおぉぉっっくわかってしまった(つもりだ)。
けれど「つもり」が積もり積もって積み重なった結果、仙子はちょっと待った、と踏ん張った。
震えをおさめ、筒(卒業証書入り)を左の小脇に抱え、右手をもう一度伸ばし、にっこり、笑ってやる。
後輩の目が、鋭くなった。
こわもて度が2割増した。
「……てめぇ」
「おや、わざわざ先輩に挨拶に来てくれたということだろう? せっかくだ。握手、してくれないのかい?」
高3の晩秋から冬、そして早春にかけて、ふわっふわと浮いていた仙子のある感情は、けさこの後輩に呼び出しを受けた瞬間に凝固してしまった。気がつかないフリをしていたもろもろはもはや目をそらすなとばかりに心に押し寄せ、この日この時この瞬間とあいなった。人生に一度きり(のはず)の高校の卒業式だというのに、今も敬愛している教官の贈る言葉も、仲が良いのも良くないのも混ざった在校生の「旅立ちの日に」も、ぼうっとした頭で聞いていた。皆には失礼だが、早く終わらないかな、と一瞬だけ思ってしまった。
とはいえ、先輩として、このまま後輩にやられっぱなしではいけない。ついでに言えば、式後は本当に家族との予定が詰まっている。できれば、できれば、後輩の気持ちが、そう、だというならば、……落ち着いた気持ちで、物見高い同級生たちが見ていない場所(きっと廊下の窓からのぞかれているだろう)で、ちゃんと、聞きたいし、自分でも告げたい、のだ。
だいたいの話、混乱のほうが強い。
4月から大学で新生活(安い学生寮ゲット!)だし、後輩はかなり規格外の高校生だがそれでもあと2年は高校生で遠距離になるしどうやって会おうか交通費がすごいことにとか、初見は怖いが後輩はよく見ればオーバーキルなイケメンだから絶対に狙っている子がいるよどうしようとか、やっぱりホワイト・デーは逃げられないのかお返しの出費がとか、でもしかしちょっと待って本当に後輩はその、自分を……なのかやっぱり勘違いなのではないのか!、といった感じで、頭はしっちゃかめっちゃかである。
「今日はこの後、本当に忙しいんだ。だから、なんだ、うん、……また、会わないか? もちろん君が良ければ! あ、あした……からも」
精いっぱいの言葉だった。
からも、とつけるだけで腹筋がぴくぴくして声が裏返りそうだった。
ぶっちゃけ後輩を正視できなくて目をそらした。
伸ばした右手が、また、震えている、気がする。
(はやくはやくはやく君なにか言ってくれたまえなぜ黙るかな長いよ沈黙がイケメンだからしゃべらなくても良いとかそういうことはないから!)
そうして、その時は、来た。
感触。
熱い。そして厚い、手のひら。
明らかな、他人の、体温。
後輩の大きな手が、自分の手を握っている。
痛いぐらい、ぎゅうっと。
というか、今日は本当に痛い。
「あした、からも?」
のぞき込んでくる後輩の目は真剣だ。
まっすぐでいて、どこか、揺れている、ような気もする。
「……明日、君も休みだろう? 明日は皆で、3年生で上野公園に花見に行く予定だ。いや、まだソメイヨシノは咲いていないだろうが、なにかのイベントがあるらしく、屋台も出るから、まぁそれが目当てでね。……それが午前解散なんだ。午後は、空いているよ」
午後は希望者による、「キラッ☆秋葉原アニソン耐久6時間カラオケコース」である。理由をこじつけて抜け出すのは簡単だ。
後輩を見上げる。
「ヒトヨンマ……14時に、上野の公園改札口で待つ。そこなら邪魔も入るまいさ」
「……色気のねぇ誘い」
「君に色気で敵う高校生はそうそういないぞ」
ねぇよンなもん、とふて腐れる後輩に、思わず噴き出す。
そうして笑って、ほどけた気持ちで、手をほどく。
「明日、また、会おう」
「……遅れんじゃねぇぞ」
「君こそ」
後輩が背を向けて歩き出した。駅に向かう裏道には、すでに気の早い春の花がほころんでいる。しん……と静かな用水路脇を、後輩の大きな背中が進んでいく。
ついては、行かない。
これから仙子は、クラスに戻っていろいろやることがあるのだ。
けれども、焦る必要はない。今日で学校は卒業してしまうが、後輩とは、慶司郎とはあしたも、あしたからも会えるのだ。
「また、あした!」
手を振る。
慶司郎は背を向けたまま、けれども手を振り返してくれる。
(まったく、格好をつけて)
校舎へ駆け出す。
戻ればクラスメイトにいろいろ聞かれるだろう。そこは華麗にかわすべきだ。「大した話ではなかったよ。進学先について相談されて2・3意見を交わした」とかそんな感じで。すごく無理がある、と思うがそこはスルー一択で。
全力で駆ける。
制服のスカートをひるがえしていつものように、けれど今日で最後の、校舎までの200m。
焦る必要はない。でも、でも、あした、言うのだ。絶対に言おう。もしかしてもしかしたら向こうのあれはこっちの勘違いかもしれないけれど、ついに認めたこっちのこれは勘違いではない。絶対、絶対、先に告げよう。直接、面と向かって言ってやるのだ。JRは上野駅の公園改札口で、出会い頭に間髪入れずに慶司郎に言ってやるのだ。
――君が、好きだ。
桜一輪、風に、揺れた――
瀬里澤仙子が異世界に落っこちたのは、この日の夜のことである。
■17.03.10 改訂