エピソード 2ー1 ザッカニアへ
冬の終わりの昼下がり。俺達を乗せた船は出港した。そうして向かうのは、ザッカニア帝国。水平線の向こうに山脈がかすかに見える大地である。
ソフィアやミリィ母さんは海を見ること自体が初めてだからか、テンションが上がりまくりのようだ。さっきから船尾の方で遠ざかるスフィール領を見てはしゃいでいる。
年齢的には親子くらい離れているんだけど、ミリィ母さんが若く見えるせいだろう。はしゃぐ二人は姉妹にしか見えない。
そんな二人を背に、俺は船首にある柵に身をあずけ、水平線の向こうに見える山かなにかの影をぼんやりと眺めていた。
「……さすがに、ちょっと冷えるな」
真冬の海の上。温度調整の紋様魔術が刻まれた服を着ているとは言え、さすがに許容範囲外のようだ。俺は寒さに少しだけ身を震わせた。
だけど――
「リオン、みーっけ」
背後からふわりと、温もりが俺を包み込んだ。柑橘系の香りが届き、長くサラサラの髪が俺の頬をくすぐる。その桜色の髪の持ち主は、もちろんアリスだ。
「……急にどうしたんだ?」
「えへへ、ちょっと寒かったから。……嫌だった?」
「まさか。……暖かいよ」
本当に暖かい。ただ温度が暖かいだけじゃなく、アリスの優しさに暖かさを感じる――なんて言うと、少し恥ずかしいのだけど。
でも、抱きついてくれたのはたぶん、俺が寒さに身を震わせているのを見たからだろう。
アリスは自重しないあれこれが目立つけど、いつも――今までもずっと、こんな風に細やかな気配りをしてくれている。ほんと、アリスにはいくら感謝してもしたりない。
なんてことを考えながら、俺を包み込む腕にそっと手を添える。
「なあアリス、あの大陸までどれくらいの距離があるのかな?」
何事もなければ、帆船でおよそ五時間くらいと聞いている。とは言え、船がどれくらいの速度なのかは判らない。だから何気ない話題として振っただけだったんだけど――
「向こうの大陸までおよそ50キロメートルくらいだよ」
明確な答えが返ってきた。
「……ええっと、どうやって船の速度を割り出したんだ?」
「船の速度は割り出してないよ。距離から逆算すると時速5~6ノットみたいだけどね」
「速度から割り出してないって……だったらどうして距離が分かったんだ?」
移動速度が分からなければ、距離なんて知りようがないはずだと首をかしげる。そんな俺に背後から抱きついているアリスは、俺の耳元でクスクスと笑った。
「港の近くに小さな山があったでしょ? あの山の中腹くらいから、海の向こうにある港町が見えるんだって。で、その山の中腹までの高さが大雑把な計算で200メートルくらい。そこから計算して、おおよそ50キロメートルくらいって結論に至ったんだよ」
「なるほど……」
大地は球体になっているので、見える距離には限界がある。それが水平線や地平線だ。そしてその距離は当然ながら、自分達の立っている高さで代わる。
平地の場合、地平線までの距離はだいたい4.5キロメートルだったはずだ。
ただし――
「それって、この星が地球と同じ大きさだった場合だろ? その計算があってるとは限らないんじゃないか?」
「この星の大きさなら、だいたい地球と同じくらいだよ」
「なん、だと……?」
海の向こうまでの距離くらいなら、まだ勘とか、空気の揺らぎ具合とか、なんらかの方法で想像出来なくもないけど……星の大きさって、一体なにをどうすれば計算出来るんだ?
「ええっと……私が洋服を作るために、メートル原器を作り出したのは覚えてるよね?」
「ああ。これが一メートルだって言う基準となる物差しだろ?」
「そうそう。あのメートル原器を基準に、レールを作ったでしょ。そのレールを真っ直ぐに引いた本数でおおよその距離を算出。何処まで見えるかを双方向から調べてみたの。そして複数箇所で調べた結果、その距離がおよそ4.5キロメートルだったんだよね」
「な、なるほど……」
大地が平らとは限らないし、メートル原器は地球のものと同一じゃない。それなりに誤差はあるはずだけど……大雑把にはその通りなんだろう。
なんというか、一メートルの物差しで星のサイズを測るって凄まじいな。
「でも、急に距離なんてどうして知りたがったの?」
「特に意味はないよ。陸に着くまで時間があるし、いわゆる他愛もない会話ってやつだ」
「そうなんだ? 私はてっきり、交易するためにあれこれ調べてるんだと思ってた」
「……知っておいて損はないと思うけどな。交易するとしても、安全性や積載量の方が重要じゃないかな。どうせ、一日に何往復も出来る訳じゃないしさ」
「そっか、そうだね。移動速度なら上げる方法があったんだけど……残念」
「速度を上げるって、どうやるんだ?」
そこまで重要じゃないとは言え、速いに越したことはない。なにより、アリスの考えた方法に興味が湧いたのだ。
だけど、俺がそれを聞いた瞬間、俺に抱きついていたアリスはその身を離してしまった。俺を包んでいた温もりが失われ、少しだけ寂しさを覚える。
――なんて思ったのは一瞬、すぐに別のことに気を取られた。不意に、少しだけ加速するような重力を感じたのだ。そしてそれは、数十秒ほど続き、ようやく収まった。
「……なにをしたんだ?」
「凄く単純だよ。風の精霊にお願いして、帆を押してもらっただけ」
「おぉぅ……」
なるほど、その手があったか。船に乗ってる俺達がいくら帆を押しても加速なんてしないけど、風の精霊は飛んでるようなモノだもんな。
たしかに帆を押せば加速する。意外な盲点だった。
「もっとも、これだと常時発動しなきゃいけないし、私じゃそんなに長続きしないけどね」
「……なるほど、リズか」
普通の精霊魔術の持続時間は数秒がせいぜい。にもかかわらず、リズの精霊魔術は威力が低い代わりに三日持続するという、ちょっと頭のおかしい持続時間を誇る。
彼女が帆に風を送るように精霊にお願いすれば、船の移動速度は跳ね上がるだろう。逆に言うと、三日は風が収まらないので、止まるときが少し不便でもある。
そもそも、さっきも言った通り、荷物の積み卸しがあるし、一日に行き来出来る距離じゃない。速度が何割か上がったからとは言え、そこまで恩恵のあるモノではないだろう。
と言うか、精霊魔術を使う仕事が忙しくて出かけられないと、最近のリズは嘆いていた。ようやく自由な時間を得られるようになってきたのに、今度は港で――というのは可愛そうだ。
そうでなくても、ミューレの街から離れた港町に滞在させる訳にはいかないしな。
でも……なんらかの応用は出来るかもしれない。頭の片隅くらいには覚えておこう。――なんて考えていると、今度は減速するような軽い反動が来た。
「……あれ? もしかして、今まで精霊魔術を起動しっぱなしだったのか?」
「うぅん。使ったのはさっきの一度だけだよ?」
いたずらっぽい微笑み。俺はすぐに、その微笑みの意味を理解した。
「まさか、持続時間の延長が出来るようになったのか?」
「うんうん。と言っても、一分くらいだけどね」
「マジか……」
一分程度というなかれ。たしかにリズは三日という頭のおかしい持続時間だけど、普通は数秒が限界。一分というのは十分に非常識な持続時間だ。
それを可能にしたと言うことは……
「もしかして、将来的にはリズ並みの持続時間になったりするのか?」
「それはさすがに無理だよ。だってリズちゃんの精霊魔術が何日も持続するのって、半分以上は恩恵の力によるモノだよ」
「アリスでも無理なのか……って、はい?」
今なんか衝撃な事実を聞いた気がするとアリスをまじまじと見る。桜色のロングヘアーを風に揺らす彼女は、なぜか呆れ眼で俺を見返した。
「気づいてなかったの? リズちゃんの精霊魔術が三日も続くのって、恩恵の影響だよ?」
「な、な、なんだってーっ!?」
思わず間の抜けた驚き方をしてしまった。
いやまぁな? おかしいとは思っていたんだ。精霊魔術が三日も持続するなんて、いくらなんでもありえないレベルだからな。
でも……そうか、恩恵なら不自然でもなんでもない。アリスの感覚共有や気配察知、それにソフィアの心を読む能力と、恩恵はどれもチート級の能力ばっかりだからな。
精霊魔術の持続時間延長くらい、可愛げのある方だろう。
「……リオン、まさか、本当に気付いてなかったの?」
「イヤマサカソンナ。もちろん、リズが恩恵持ちだって気付いてたよ」
「ふぅん? まあそうだよね。普通は数秒なのが約三日。ざっと計算して……数万倍の持続時間。おかしいと思わないはずないもんね?」
「ソ、ソウデスネ」
いや、俺だっておかしいとは思ってたんだよ? ただ、現実にリズは三日持続するって言うから、そういうものだって思って理由までは考えなかっただけで。
……ま、まあ、それが今回の敗因なんだけどさ。アリスは俺が気付いてなかったと分かっているのだろう。クスクスと笑っている。
蒼い瞳を細めて微笑む姿は可愛いけど……可愛いからこそ、笑われてるのがなんか悔しい。
ともあれ、そんな感じで雑談を続けることしばし。微笑むアリスの顔を見て、アリスの両眼が青色であることに気が付いた。当然ながら、その髪には髪飾りが添えられている。
「また迷彩の紋様魔術で虹彩異色症を隠してるんだ?」
「うん。やっぱりハイエルフだって知られると色々と厄介だからね。特にザッカニアでは、私達は身分を偽る予定だし、さすがにそのままって訳にはいかないよ」
「たしかになぁ」
ハイエルフなんて伝説上の種族だって言われるレベルだからな。そのハイエルフが街を歩いてたら騒動になるし、いくら隣国でもグランシェス家のアリスティアだってバレしそうだ。
「……なんか残念そうだね?」
「それはまぁな。アリスの左右の瞳が色違いなのって、凄く綺麗で好きだからさ」
「え、私のことが好き?」
「もちろんアリスのことは好きだが、そんなことは言ってない」
「ふぇっ!?」
ノータイムで切り返したら、アリスの頬が髪と同じ桜色に染まった。照れるのならやらなきゃ良いのに――なんて突っ込むのは無粋だろうか?
なんにしても、そういう事情なら仕方がない。アリスにはこのまま普通のエルフのフリをしてもらおう。と言うか、むしろ俺達がもう少し服装に気を使うべきか。
「……どうしたの?」
「いや、俺達の服装だと素性がバレるかなと思って」
最近は一般人にも手が届く金額になってきたとは言え、それはリゼルヘイムでの話。ザッカニア帝国では、まだまだ貴族の召し物だろう。
「あぁそれなら大丈夫。旅人風のローブを用意してあるから」
「おぉ、手回しが良いな」
幸いにして真冬だし、ローブならちょうど良い。
だけど……この地方は比較的温暖で、更には温度調整付きの紋様魔術があるからだろう。アリスは真冬でもミニスカートにニーハイソックスを着用している。
その絶対領域が見えなくなるとか……リゼルヘイムに帰りたくなってきた。
「……って、なんだ?」
アリスが両手を差し出していることに気付いて首をかしげる。
「なにって、ローブだよ」
アリスはそう言うが、その手にはなにも持っていないように見える。だけど俺はその仕草にデジャヴを覚え、アリスの手元へと手を伸ばす。するとそこに見えない布があった。
それはたぶん魔獣に分類される蜘蛛の糸で紡がれた、透明な糸で編んだローブ。
紋様魔術で光りを屈折させ、対となる紋様魔術を使っている人間以外には、色つきの生地に見せる効果がある。ようするに俺にだけ見えない生地。
これなら、ローブ姿で正体を隠しつつも、俺だけは絶対領域を楽しむことが出来る。
「……アリス」
「なに?」
「グッジョブだ」
思わず親指をびっと立てる。そんな俺がおかしかったのは、アリスはクスクスと笑った。
「なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ」
「なんでもないよーだ。それより、ほらみて。ザッカニアの港が見えてきたよ」
アリスが水平線を指差す。そこにはたしかに、港町らしき建物が見え隠れしている。
「あれがザッカニアの港町ヴェークか……」
もちろん、発展具合はミューレの街と比べるまでもないはずだ。けど、リゼルヘイムに昔からある建てモノとも違う。なんというか国の特色があって面白い。
「今度はどんなトラブルが起きるのかなぁ~」
「こらこらこら、俺達の行く先々でトラブルが起きてるみたいに言うなっ」
「え、起きてるよね?」
「……………起きてるけどさ」
最初はスフィール家。そしてグランプ侯爵家にミューレの街。更にはエルフの里やリゼルヘイム王都に、そのあいだの街道などなど。出先でトラブルの起きなかった記憶がない。
「でも今回の目的は、両国の友好な条約を結ぶことだ。それなのにトラブルとか困る。という訳で、今回は絶対にトラブルとか起こさないからな」
「それ、フラグだよね?」
「……違うと思いたい」
なにはともあれ、ザッカニア帝国まであと少しだ。
ネタなのかなんなのかよく分からない、船上のアリスと言うサブタイトルを思いついたんですが、特に上手く言えてる訳でもないので諦めました。なんか、響きは凄く気に入ったんですけどね。
次話は25日を予定しています。






