第一節
目が覚めると、日はもうずいぶん高いところに昇っているらしかった。半端に閉じられたカーテンから差し込んでくる日差しと、陽光の匂いがそれを感じさせる。
「あ――……」
寝ぼけた頭の覚醒を待っていると、昨日の出来事が走馬燈のようにフラッシュバックしてくる。
嫌に、現実感がない。
まるで、それこそとんでも長い夢でも見ていたのではないかという気もしてくる。
「……そんなわきゃ、ねぇか」
溜息をついて、もそもそとベッドから這い出ていく。
ついでに壁の時計を見やると、時刻は十時半を指していた。いつもならば、完全に寝坊の時間だ。
風をひいたわけではなく、日曜日でもないのに学校を休むというのもまた変な感覚だが、今日は普段以上の密度で一日が廻っていく。
そう考えると、こんな時間に起きるなんてのは、完全に出遅れだ。
かといって、焦燥感は訪れていないのが不思議なところだ。
そんなことを思いながら、寝間着を脱ぎ、服に着替えていく。いよいよズボンを脱ごうとしたとき、ふと、ドアがノックされる音がした。
「はーい?」
いつも通りの感覚のままで、美紀が起こしに来たのだと油断していた。
故に、次の瞬間絶句する。
「伊月――?そろそろ、いい加減に起きないとーって……」
空気が、固まる。
感じたのは、昨日の出来事の既視感。昨日とは立場が逆だが、この空気は、完全に昨日のソレだ。
「えー、えっと、ごめんね?」
現れたのは、微妙に引きつった顔をした雪花だった。 妙な間、固まった時間が流れるが、昨日のような甘い空気には成らない。
「あー、うん。こっちこそ変なもの見せてごめん」
そう言うと雪花はドアを閉じ、部屋の外から声を掛けてくる。
「朝ご飯、もう出来てるから!あの、早めに来てねって……それだけ!」
どたばたと、慌てた足音と共に階段を駆け下りていく音がする。どうやら、それなりは焦ってはいたらしい。
雪花の気配が遠ざかるのが分かると、突然の事に強張っていた肩の力が抜ける。
「……まじかよ、これ」
思わず、苦笑いが漏れる。
案外、見られる立場になると動揺も少ない。もちろん、驚きや気恥ずかしさもあるが、昨日、雪花の下着姿を見てしまったときよりは数倍ましな感覚だった。
「さて……と」
服を着終わると、今日やるべき事を頭の中で反復する。
もちろん、雪花と相談して煮詰めなければ成らないことでは在るが、だいたいの意見は一致するだろうと思っていた。
考えれば、今やれることなどは思ったよりも少ない。
先の見えなさ、情報の少なさに気分が暗くなりかけるが、いつだって始めはそんなものだと自分で自分を納得させる。
――――今重要なのは、とにかく情報を集めること。
この混乱を乗り切るためにも、今やれることをやるしかない。
再び壁時計を見ると、時刻は十時四十分を回っていた。
そろそろ、美紀がじれてくる頃だ。
部屋のドアを開けると、案の定、下から俺を呼ぶ声が聞こえてくる。
「今行くから、ちょっと待てってば!」
どうして親というものは、こんなにもちょうど良いタイミングで声を掛けてくるものなのだろうか?
くだらない事を考えながら、俺は階段を駆け下りた。
*
食卓に着くと、そこにはもう雪花と美紀が椅子に腰を掛けていた。メニューは、スクランブルエッグとベーコン。マーガリンが塗られたパンに、レタスなどが盛られたサラダ。プラスしてコーンスープとオレンジジュースという、普段からは考えられないほど気合いが入ったメニューだった。
「あれ、今朝はずいぶんと頑張ったんだな」
そう言うと、なぜか少し得意げな表情で美紀が答える。
「いやいや、今日は私が作ったんじゃないんだよ」
そう言うと、雪花を指し示す。
「すごいだろう?嫁さん修行はバッチリって感じじゃないか」
「ちょ、ちょっと美紀さん!?へんなこと言わないでよ、もう!」
「いやいや、これは真面目にすごいぞ、雪花。昔は料理下手だったのに、こんなものあっさり作れるようになるだなんてなぁ……」
美紀の言い分はスルーするとしても、これは真面目に尊敬の対象だ。ひどく感心するが、肝心の雪花の反応がない。
視線を向けて見ると、雪花は、真っ赤になって顔をそらしていた。
「……うー、もう。昨日からなんなのよ、いったい……。これじゃぁ、私の立場が無いじゃない。ていうか、なんで私はこんなに動揺してんのよ……」
何事かを口の中でぶつぶつと呟いているが、生憎と俺の方までは声が届いていない。
どうしたのかとまじまじと見つめると、雪花は真っ赤な顔のまま「ぐぬぅ……」と唸り、その直後に手をたたいて叫ぶ。
「もう終わり!この話はもうお終いにしましょう!手を合わせて、はい、いただきます!」
「い、いただきます」
「はいはい、いただきます」
突然の剣幕に少々引きながら挨拶をすると、それに合わせるように、美紀が仕方なさげな表情で手を合わせる。
箸を取り、まずはスクランブルエッグに手を伸ばす。
黄金色の明るさの、見るからに美味しそうな料理。
口に含むと、期待通りの感触が訪れた。
「おぉ……!」
「ん、良い感じじゃないか」
口の中で柔らかく解ける卵。味付けもちょうど良い塩梅で、思わず感心の声が漏れてしまった。
続いてコーンスープにも手を伸ばす。
人工物では再現できない味。
絶妙なとろみが、ソレを物語っている。
具材のトウモロコシの感触もよく、普段はトースト一枚で片付けている朝食が、どれだけ味気ないものだったのかを思い知らされた。
「期待してたよりも、ずっと美味しいよ。――いや、こう言っては失礼だな。ホント、毎日でも食べたい味だ」
「ああ、真面目に嫁に欲しいくらいだな」
「まったく、好き勝手言うわねぇ……」
雪花は、呆れたように良いながら、自身も皿に箸を伸ばし、その味に納得したように「結構、良い感じ……」などと呟いている。
そのまま、雑談を交わしながら食事を続けていく。
最近の出来事。これからの生活。そんなことを話していく内に、話題は自然と今日の予定へと移っていった。
「……それで、今日は具体的にどうするんだ?私も仕事があるし、足が必要なら早めに伝えておいてもらいたいんだが」
「俺としては、まずは陣の寮に行くべきだと思う」
「うん、私もソレは思ってた。話し合うべきは、
“まずどんな情報が得たいのか”だよね」
――――俺たちは、何の情報が欲しいのか。
選択肢はあまりにも多い。
陣が死んだというのは本当か?
死んでいないならば今どこにいる?
なぜ陣はこんな状況に陥ったのか?
そもそも、陣が関わっていたプロジェクトとは何なのか?
考えれば考えるほどに、このふざけた状況への疑問は増えていく。
一度に全ての情報を得ようとしても、ますます状況が混乱するだけだ。
必要なのは、取捨選択していくこと。
現在、俺たちに必要な情報とは何か。
この混乱した状況に、輪郭線を与えてくれる情報とは何か。
「……まずは、陣の消息を知るべきだと思う。正直な話、管理政府がなに企んだてたって陣が帰ってくれば俺たちとしてはそれで良いんだ。だから、まずは陣の行方を知ることを考えるべきだと思う」
「ん、私もそれには賛成。必要であれば、
“陣が死亡したと断定する理由は何なのか”も、聞くべきだよね」
「なら、質問をする対象も考えておかなきゃな」
俺たちの意見がまとまると、美紀はそう切り替えてきた。
「だけど、そう簡単には思いつかないわよ?」
「いや、大丈夫だ。その辺は私に当てがある」
美紀が勤めている会社は、CENTRALの管理政府にコネがある。当然、顔見知りの相手もそれなりにいて、個人的な関係も繋いでいる相手なら、かなり無理なお願いでも聞いてもらえるそうだ。
もちろん、それにしたって限度という物はあるが、行方不明の肉親を探すくらいなら、おそらく頼まれてくれるだろう、とのことだった。
「それで都合の良いことに、今回当たる伝手は陣ともそれなりに顔見知りだった男だ。部署も近かった様だし、何かしらの情報はあると思う」
朗報だった。
何の社会的繋がりもない俺達学生にとって、こうしたコネはこれ以上のない力になる。
「……よし、それじゃあ、だいたいのことは決まったな」
そう言って、椅子を引く。
皿の中身はきれいに食べ終わっており、後は片付けるだけであった。手早く三人分の皿をまとめると、席を立って台所へと向かう。
「あ、大丈夫だよ。洗い物も私がやるから」
「そんな訳にはいかないだろ。朝は一人で作らせちゃったんだ、洗い物ぐらいはしないと」
蛇口から水を流すと、腕まくりして皿に向かう。さて、どこから手をつけようかと考えていると、横から声がかかる。
「じゃ、手分けしてやろうか。伊月が洗った物を私が拭いて片付ける、それなら良いでしょう?」
そう言って雪花は水の設定をお湯に替え、大皿を差し出す。
黙々とした作業。何皿か洗っているうちに、自然と間が持たなくなってくるのが分かった。
気が重いわけではない。むしろ、この沈黙は俺にとって心地良い感触だった。美紀は自分でいつの間に炒れていたのか、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。
朝のひと時。穏やかな沈黙がそこには流れていた。
(そういえば、こうして家族でゆっくりするのも久しぶりだな)
ふと、思い立ったことだった。
別に疎遠になっていたというわけではないが、雪花と会うのも学校だけになっていたし、美紀も陣も仕事が忙しく、ゆっくりできないどころか家にいないこともしばしばあった。
いつの間にか、こんな状況になっていたことに対する違和感もなくなっていたけれど、取り戻してみれば、やはりこれしか無いといった感じに肌に合う。
「久しぶりだねー、こうして二人で並んで皿洗いするっていうのも」
「ああ、中学二年の頃の夏休み以来か。高校に入ってからはこういうこともほとんどなかったからな」
昔は、夏休みなどの長期休暇があるたびに、こうしてどちらかの家に泊まりがけで遊んだ物だった。
「花火やったり、プール行ったり」
「カブトムシ捕ったりとかな」
そんなことを懐かしいなどと思ってしまうのは、ノスタルジックが過ぎるだろうか。美紀からしたら、その年で何を言ってるんだという感じなのだろうけれど。
「……ほい、これで最後だな」
「はい、お疲れ様」
洗い物じたいは10分ほどであっさりと終わった。手をタオルで拭うと、自分の部屋に戻っていく。
「それじゃあ、十分後ぐらいに玄関の前で」