第三節
「うーす今帰ったぞ……って、何だ、ずいぶん元気だな」
居間の扉を開けた美紀は、拍子抜けしたように声をかけた。
「あーうん、おかげさまでな」
「まーた誤魔化して、男らしくないんだぁ」
何とか雪花のからかいをやり過ごして、風呂にでも入ろうかと思っていたときのことだった。
美紀はその手にビニール袋をぶら下げている。
おそらく、中に入っているのは頭痛薬と精神安定剤だろう。正直、頭痛薬はあまりにも味がよろしくないので飲みたくはないのだが、その分効力は高い。
先程よりはましになってきたとはいえ、頭を割らんばかりの頭痛はまだ続いている。美紀から素直に受け取ると、チップ状になっている薬を取り出した。
口に含むと、案の定くさやのようなひどい風味が口内を暴れ回る。今すぐにでもはき出したくて堪らないが、じっと我慢して舌の上で転がしていると、薬が溶けるのと比例して頭痛が少しずつ柔らないでいくのを感じた。
「……やっぱさ、薬の効力なんだより先に、この味をどうにかするべきだったと思うんだよ」
「そんなにマズイの?」
雪花が、興味深げに薬のパッケージをのぞき込む。
生まれてこの方病気になぞ罹ったことがないような奴だから、この手の薬のひどさを知らないのだろう。
「飲んでみる?悶絶すること受け合いだけど」
「……やめとく」
「良い判断だと言っとく。・・・・・・それじゃ、俺は風呂に入ってくるから」
いってらっしゃい、と言う二人の声を背に受けて、自室へと階段を上っていく。
灯りをつけると、橙色の暖かい光が部屋を染め上げる。寝間着と下着を取りに上がったのだが、何となく部屋があまり整理されていないのが気になった。
――――だから何、というわけでもないのだが、そこらに散らばっている服や物などを拾い上げ、元の位置に戻してみたり、消臭スプレーをかけてみたり。
はじめは軽く整理をしていただけだったはずなのに、いつの間にか部屋の片付け熱中していた。
一段落したときに部屋の時計を見上げてみると、針は6時半を刺している。風呂に入ってくるといった時間から、もう二十分はたっていた。
「――――げ」
口の中でつぶやき、慌てて荷物をとって駆けだしていく。
階段を駆け下り、風呂場に飛び込むと。
「――――え?」
――――そこには、惚けた顔でそう呟く、下着姿になった幼なじみの姿があった。
「――――――――」
しこうが、とまる。
やっぱりこいつ貧乳だなだとか、でも意外に腰は括れてるだとか、おいおいこりゃ何のギャルゲだよだとか。どっか、頭の隅ではクソくだらないことを考えているのに、今すぐ謝って出ていこうだなんて考えは、ちらりとも思い浮かばなかった。
「でっ、出てけぇ――――!」
「ちょ、おまっ――――!?」
なにを血迷ったのか、半端にスカートを脱いだ状態で俺の身体に飛びかかってくる雪花。
「わっ、わぁっ!?」
当然、バランスを崩して、俺にもたれ掛かるようにして崩れ落ちる。
「ッおぉ――!?」
急に体重がかかったせいで膝の力が抜け、雪花を巻き込むようにして倒れてしまう。
「…………」
「…………」
呆然と、視線を合わせて向かい合う。
まるで、押し倒すような格好になってしまった雪花の身体。肌も露わな下着だけの格好が色っぽく、白い肌と、広がった真っ赤な髪のギャップがどうしようもなく男としての本能を“そそって”しまう。
こんな細い躯のどこに、こんな柔らかさがあるんだろう・・・・・・と、そこまでぼんやりと考えたところで、真っ赤になって動揺している雪花の表情が見えた。
「あ・・・・・・あの、さ。男の人がそういうものだって言うのは分かっているんだけど。その、当たってるっていうか。その・・・・・・」
弱り切った表情で、目の端にうっすらと涙さえ浮かべる雪花。その言葉で、俺のある部分が盛り立っているのに気づく。
「ご……ごめんっ」
跳ね上がるようにして雪花から体を離す。
尻餅をついたまま二三歩後ずさると、自分の胸がとんでもない勢いで脈打っているのを今更のように自覚した。
……初めて抱く、生々しい感情だった。
何よりも近い位置にいた幼なじみを、俺は今、抱きたいと思ってしまったのだ。理性のタガが外れ、心の奥底からわき出たどろどろとした欲望に身を任せ、こいつを自分の思いのままに汚してしまいと考えていた。
恐ろしかった。
何よりも、そんな感情に身を任せて、少しばかりの開放感を感じていた自分自身に。
家族だと、何よりも大切な物だと言っておいて、心のどこかではそんな理性を枷だと感じていた。こいつを一人の女だと、何よりも汚してしまいたい対象だと思っていたのだ。
雪花は、下着姿の体を抱きしめて、頬を赤らめている。 そんな姿を見て、胸の鼓動がまた一つ大きく脈打つ。「……っ」
慌てて目をそらし、一呼吸ついてから立ち上がる。
風呂場のドアに手をかけ、
「ゴメン、出直してくる」
そう言って出て行こうとすると、雪花が少し慌てて立ち上がるのが感じられた。
「ちょ……ちょっと待って」
「ん、なんだ?」
自覚して、きわめて冷静に答えるように努める。
そうしないと、あのとき抱いた欲望に流されてしまいそうだったからだ。
「……その、私、今回のはそんなに怒ってないから。男の人はそういうの仕方がないって事ぐらいは知ってるし。……それだけ、私が魅力的だって思えば、何となく嬉しい気がしないでもないし。あ、でも!誰にもこんな事しても良いって訳じゃないよ。私だったら良いって訳でも……ないけれど」
――――トドメだった。
再び、理性のタガはあっさりと外れ、衝動の任せるままに雪花の肩をつかむ。
「雪花」
「ひゃ……ひゃいっ!?」
雪花の顔が、俺の近くにある。
真っ赤な頬と、潤んだ瞳。頬にかかった一筋の髪を払うと、ゆっくりと顔を近づけていく。
「雪花……俺は――」
「伊月……」
「――――はい、そこまで」
「ひゃいっっっっ!?」
「ひいぃっっっっ!?」
ぽん、と突如俺の両肩に乗せられた手と、呆れたような声。
あまりの衝撃に、二人して思わず飛び上がるほどに驚いてしまう。
振り向くと、そこには“ニヤリ”と非常に嫌な笑みを湛えた美紀が立っていた。
バクバクと、先ほどとは全く違う意味で騒ぎ始める心臓。
「若さだねぇ」
「……えっと、あのな、美紀」
「リビドーだねぇ」
「そ、その、美紀さん、誤解なの」
「――――雪花はさっさと風呂に入って、伊月は今すぐここから出て行く。ついでに二人とも頭冷やしときなさい」
『……はい』
*
ベランダに出ると、淡い風が艦上を吹き抜けているのを感じた。冬の名残の冷たい風が、火照った体に心地良い。
今も目を閉じると、あのときの光景が脳裏にくっきりと浮かんでくる。先程の興奮が収まった今でも、あの時の雪花は純粋に色っぽかったと思う。
「……あー」
やばいな、とうっすらと頭の端で思う。
これじゃあ、明日はどんな顔をして雪花に会えば良いのか分からない。
(……いや、そうじゃない)
何よりも恐ろしいのは、こんな戸惑いを抱いているのが自分だけで、雪花の方は全く意識していなかった時だ。 そうなった時、俺はこれからまともに雪花のそばに立っていられる自信がない。
「うーす、青少年。悩んでるかい?」
ガラガラとブラインド式の窓が開く音と共に、美紀がベランダに 上がってきた。美紀はタバコを一本取り出すと、口のはしにくわえる。
火はつけない。
「子供たちの発育によくない」と、俺たちを引き取ったときに、あっさりとタバコを吸うこと自体は止めたものの、何かをくわえていないと気が済まないらしい。普段はキャンディーやらガムやらで気を紛らわしているのだが、苛ついているとき、ストレスが溜まっているときなどは、こうしてタバコをくわえている。
「悩んでるってわけじゃないよ。ただ、うじうじしてるだけ」
「実に結構なことじゃないか。陣はそういうところ、冷めてるもんだったからな。親として、子供のそういう悩みは知っておきたいものさ」
ベランダのベンチに背を預け、二人してcentralの遠い景色を見つめる。様々な灯りが、人の営みの光景が目の中に飛び込んできた。
あの灯りの一つ一つが人の存在を証明するものであるならば、その中の一つに、陣が点けている灯りもあるのだろうか。
――――陣、お前は今どこにいる。
センチメンタルな感情だと割り切ることもできずに、もやもやとした感情を胸の中で持て余す。 全面に広がる種々様々な灯りよりもさらに遠く、ぼやけて見えるのはeastの陰だろうか。
「・・・・・・それで」
何気ない風を装って、美紀がそう声をかけてくる。
「結局、明日からどう動くのかは決めてあるのか?」
「そこまで詳しく話したわけでもないけど、とりあえず陣の寮部屋でも探ってみようかと思う。どうせ、遺品受け取りや何やらで行かなけりゃならないんだし」
そうか、と美紀は呟く。
「・・・・・・しかし、濃い一日だったな」
苦笑しつつ、美紀は言う。
それは俺も同意するところだ。
「陣が行方不明だって聞かされて、久しぶりに発作でぶっ倒れて、そして・・・・・・」
「雪花の裸を見てしまった、か?」
「――――裸じゃ、ないけど」
似たようなものだろう、と美紀は笑う。
確かに、似たようなものだ。というより、なまじ下着で隠されていたものだから、余計に脳裏に残っている。
「まぁ、何にせよ、明日のお前の反応次第だと思うがな?」
「・・・・・・どういう意味」
「単なる幼なじみのままで居たいのか、それとも次のステップに進むのか、このままギクシャクしたままなのかーーだ」
したり顔で、そう告げられる。
何のことだとは、思わない。
「――どーすればいいんかなーこれ」
世間一般からの判断からすれば、可愛い幼なじみとのハプニングだというだけで、羨ましがられるだけの物だろう。
しかし――。
俺にとっては、違う。単なる兄弟以上の何者でもなかった俺たちは、無意識だろうが何だろうが、互いを男や女だと思わないことで、この関係を守ってきたのだ。
それだけに、今回の事件は致命的だった。精神的な成熟よりも、肉体的な違いを意識させられたことで、俺たちはどうしようもなく、違う存在なのだと思い知らされた。
そして情けないことに、俺はこの関係が壊れることを恐れている。家族と言う関係の心地よさよりも、新しい繋がりを作れるのかが分からなくて。
「さて、な。こればっかりはお前自身が答えを出さなくちゃいけないものだ。私から答えを示すことはできない」
・・・・・・俺がするべきこと。俺にしか、できないこと。
「・・・・・・とりあえず、今日はもう寝ることにするよ」
「ああ、お休み」