第二節
「雪花、今日は泊まっていきな」
「うん。じゃあ、お母さんたちに連絡するね」
幼い頃から家族ぐるみの付き合いをしてきただけあって、どちらかの家に寝泊まりしたり、飯をごちそうになったりすることはそこまで珍しいことでも無い。
義母である美紀が忙しく、兄貴と二人きりになることも珍しくなかったうちでは、いつも親切にしてくれる雪花の家族は掛け替えのない存在だった。
俺たちの年齢が上がってからは、泊まりがけで過ごすことは無くなってきたモノの、両家の交流はまだまだ続いている。
「あ、お母さん?今日は伊月のうちにお泊まりしようってお誘を受けてるんだけど……」
話し込む雪花を横目に、俺はなにやら妙に緊張していた。雪花が泊まりに来るなんて、そこまで珍しいことでも無いのに。
さっき見せられた笑顔が頭の中に残ったまま消えず、“女の子”が泊まりに来るのだと、どうしても意識してしまう。
これじゃあまるで、雪花にそういう感情を持ってるみたいじゃないか。当然、そんなことを認められるはずもなく、思考はますます泥沼にはまっていくばかり。
……ふと、前方から視線を感じた。
見ると、美紀がにやにやとしたいやに癪に障る目でこちらを眇見ていた。
「……なんだよ」
「いやいや、青春だねぇ。嬉しいよ、息子が滾るリビドーぶつける相手見つけられたようで」
「なに言ってんだ。小さい頃にゃ、一緒に風呂にも入ったこともあるんだ。兄弟みたいなもんだろ、有りえねぇよ」
美紀は口元に笑いを湛えたまま、ひらひらと手を振る。 話はこれで終わり、ということらしいのだが、なにやら一方的にからかわれた気がしてならない。
こんなところは、俺が単にガキだと言うことなのか、それとも美紀の性格が悪いからなのかは分からないが、少なくともまともな親のやることではない、というのは分かる。
いつか目にもの見せてやる――だとか、それこそ子供みたいなことを思っていると、どうやら雪花が話をつけたらしい、指で丸をつくって見せていた。
「迷惑かけないように、大人しくしなさいよって言ってた。久しぶりだね、伊月の家に泊まるの」
「そーかもな。かれこれ、2年ぶりぐらいか?」
楽しそうに雪花は身を乗り出し、吹いてくる風にその上半身を晒す。やはりその姿は妙に綺麗で、この事件のせいなのかは分からないけれど、今まで通りガキのままではいられないのだなと変に意識してしまった。
見ると、水平線はゆっくりと夕焼け色に変わってきており、吹き付ける風もだんだんと冷たくなってきているような気がした。
家に着く頃には、陽は完全に落ちているだろうか。
この、あまりにも現実感のない一日の終わりを感じると同時に、なにやら俺たちにとっての一つの時代が一つ終わってしまったような、そんな錯覚を抱いた。
*
予測通り、家にたどり着いたときにはすっかり日は沈み、空には満点の星空が浮かんでいた。大気汚染という言葉から解放されたこの世界では、とりわけライトを点けなくても、降り注ぐ光がぼんやりとあたりの闇を照らしてくれる。
海の上から覗く空は、まるでよく出来たプラネタリウムのようだ。黒い闇が天蓋となって空を覆い尽くし、輝ける星々が集まって、長大な川のようにように横たわっている。
この世で、俺たちに季節の移ろいを鮮やかに示してくれるのは天に輝く星々だ。地上の緑を失ったこの世界ではなにもかもが不変で、同時にいつ崩れるかも分からない不安に満ちている。
しかし、この世界が俺たちの生きている今なのだ。
それは誰がどうしても、変えられるものではない。
……車から降りて凝った体を伸ばすと、湿った海風が肺に染み渡った。雪花も降りたのを確認した美紀は、車庫に車をしまっていく。
閉じた黒い門扉の前に立ち、音声認識と指紋認証を果たす。ハイテク嫌いの美紀であっても、どうやら安全には気を遣うらしい。
この認証システムに登録されているのは六人。俺と、陣と、美紀と、雪花と、その両親。この六人は合い鍵も持たされており、好きなときに出入りできるようになっている。
「ただいま」
「お邪魔します」
誰も居ない、しんと静まった家はどことなくもの悲しい。いつもならば、美味しそうな匂いを漂わせて出迎えてくれる家族が居たはずだ。
「――っ」
ずきりと、胸が軋むのが分かった。
初めて知る痛み。
――いや、ずっと前にもこの感覚は覚えたことがある。
無理矢理、知りたくもない過去を掘り返されたような感覚があった。何かが、ずっと忘れていた何かが頭の脳裏をよぎる。
それは断片的で、決してすべてを思い出したというわけではないはずなのに。
なぜだろう。
「ちょっと……どうしたの?伊月」
「――ああ、いや何でもない」
頬を伝う熱さを自覚したときには、涙は既に俺の制御を離れてあふれ出ていた。
慌てて手で拭うが、次々とあふれる涙は止まるところを知らない。
「あれ……。なんだよこれ、意味わかんねぇっ!何なんだよ!」
涙が止まらない、訳の分からない悲しみが胸の中を占め、感情を制御することが出来ない。
「くそっ、止まれ、止まれよ、止まれったら!」
いつしか戸惑いは恐怖に、悲しみは苛立ちに変わっていた。顔を掴み、掻き毟るように引っ掻き続ける。
それでも、あふれ出る情動は止められない。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして――――――。
「――――どうして俺たちを捨てたのッ!?父さん!!」
そうだ、それがどうしても許せなくて悲しくて絶望的で忘れたくて――嫌で嫌で堪らない。
「い――いやだ!おいてかないで、おいてくなよ!せ――、せつか!どこ、せつか!!」
置いてかれるのは、もう嫌だ。
誰かが死ぬのは、もう嫌だ。
いやだ。いやなんだ。
「――――落ち着いて、伊月」
――なにか、とても温かくて優しいものに包まれた気がした。
涙で、前が見えない。頭が、おかしくなりそうなぐらいの痛みに苛まれている。俺は、やっとそのことを認識した。
「はぁ――っ。っあ、はぐぅッ、せ、つか。せつか!」
雪花の胸に、縋り付くように抱きつく。
そこに、求めていたぬくもりを見つけ出した俺は、まるで赤ん坊のように何度も名前を呼んでいた。
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて、ゆっくり深呼吸。いつもの通り、吸って、吐いて」
「ふ――っ、はぁ――っ、すぅ――っはぁ――」
喘鳴のような、無様な呼吸音が響く。だが、少しずつ心のざわめきが収まってくるのを感じていた。
二、三度、深呼吸を繰り返す。
やっと、躁状態が収まった頃。
「……落ち着いた?大丈夫、私はここに居るから。不安になることなんてないんだよ」
「……ごめん。いつも世話かけて、ごめん」
あまりの情けなさに泣きたくなる。
いつもこうだ。世話かけて、迷惑かけて、ちっとも成長できないガキのまま。今も、この温もりを離したくないと駄々のような心だけがある。
「いいんだよ、情けなくても。私たちは家族だから、誰に迷惑かけたって構わない。それに正直、私だって泣き叫びたくはあったの。伊月が私の分まで泣いてくれたから、これはその代わり」
こうして、頭をゆっくりと撫でられて、その感触に俺は遠い日の暖かさを思い出しそうになる。
しかし、その記憶は結局思い出すことはなく、俺の目蓋は重力に引かれるように落ちていった。
*
俺と兄貴は、幼い頃実の両親に捨てられた。両親、といっても記憶にあるのは父親のことだけで、母親のことはなにも覚えてはいない。
兄貴が言うには、俺が生まれてすぐに死んだらしい。 父親は、理知的な人だったと思う。
それはその穏やかな口調がそうさせたのかもしれないし、もしくはもっと単純に、フレームの細い眼鏡を掛けていたからかもしれない。
自分たちのことを捨てた奴に向かってこんなことを言うのも変かもしれないが、俺は決して父親のことが嫌いではなかった。捨てられた今となっても。
それは、別に特別な理由があるわけではなくて、単に未練がましいだけだ。心の奥底では信じてる。俺たちを捨てたのには何か特別な理由があって、それは父親の本意ではないのだと、いつか俺たちを迎えにきてくれて、また家族一緒に過ごせるのだと。
それでも、本当はそんなことは有りえないと分かっているから、乖離していく現実に耐えられない。剥がれ落ちていく虚飾など見たくないから、忘れようと努めるのだ。
不意に、先ほどのような衝動が起きる。
我を忘れ、狂ったように叫び、そこらの物や人に当たるか、自分の体を傷つけるか。まるで……というか、まるっきり子供なのだ。
本当に求めているのが、誰かから与えられる温もりだというところなんか特に。
乳飲み子であったときから成長できていない。
捨てられた瞬間に心が縛り付けられて、動き出すことが出来ない。
そんな自分を何とかしたいとはずっと思ってきたし、事実、この衝動はもう3年近く起こっていなかった。
しかし、蓋を開けてみればこの様だ。
……あぁ、本当は分かっているはずなのに。
欲しかった温もりは、とっくのとうに与えられているということを。
*
ぼんやりとした蛍光灯の明かりが、目蓋の裏にまで差し込んでいる。ぼやけた頭で、少しずつ視線のフォーカスを合わせていくと、そこには見慣れた幼なじみの姿があった。
「……あ、起きたんだ。大丈夫――な訳がないと思うから、水持ってくるね。待ってて」
こちらを見て微笑み、立ち上がる雪花。
慌てて手を伸ばし、衝動的に声を出そうとするが、やってきたのは本当に頭が割れてしまうのではないかと錯覚するほどの激烈な頭痛であった。
「…………ッゥ!」
「ああほら、無理しない。ゆっくり体起こして。久しぶりの症状だったんだから、そーなるのも仕方がないことだと思うよ」
苦笑しながら、雪花は俺に手を伸ばしてくる。
ここで意地を張っていても仕方がない。素直に手を取ると、寝かされていたソファーの上から体を起こす。
頭上から降り注ぐのは、暖色系の蛍光灯の光。
どうやら、ここは居間であるらしかった。
見慣れた調度品が目に映ると、訳もなく安心感を抱く。
「……雪花が運んでくれたのか?ごめんな、重かったろ」
「そうでもないよ。それに、昔使ってた担架がまだ残ってたからね。運ぶの事態は楽だったかも」
ふぅん、と何気なく返事をしてから、自分が着ている服装が先ほどと違うことに気づく
その意味に思い当たり、何となくばつが悪いような、恥ずかしいような、変な気分になる。
「なぁ、もしかして服着替えさせたのも……」
台所で、水を入れて戻ってきた雪花に向かってそう投げかける。
雪花は数瞬間を置いてから、ああ、と思い当たったように得心を打つ。
「うん、ちょっと上着汗吸ってすごかったし、下も……ね、汗以外にも出ちゃってたし。ごめんね、気に障ったら謝るよ」
「いや……ここで怒り出したら、俺ほんとに最悪な奴じゃないか」
「そうなの?でもこういうのって、男の沽券って奴に関わるんだって美紀さんが言ってたよ」
そういえば、と雪花の一言で美紀が見当たらないことに気づく。
どこに行ったのだろうか。
「美紀さんなら、伊月の薬取りに行ってくるって。そろそろ戻ってくるんじゃないかな?」
はい、と渡された水をゆっくり飲み干していきながら、なにか言いたそうにしている雪花の視線に気づく。
というより、なにやら妙に嬉しそうだ。なにか、あったのだろうか。
「ね、伊月、さっき私の名前呼んでたよね」
「さっきって……いつ?」
「覚えてないってことは、無意識だったのかな?ほら、症状が起きてたとき、私の名前散々呼んでたでしょ?」
……まるで覚えていない。
困惑する俺をよそに、雪花はますます嬉しそうに口角を上げている。
「いつも、そういうときって呼ぶのは陣さんか美紀さんだったから。初めてだよ?こんなこと。ね、これってどういう心境の変化なのかな」
「……さあな」
そんなこと、俺の口から言えるわけがないだろう。それこそ、男の沽券に関わることだ。まぁ、今更体面云々にこだわるのも間抜けな話だが。
「え~、誤魔化さないでよ。さっきも言ったけど、結構本気で嬉しかったんだから。いざというときに頼りにされるっていうのは、なんかね母性本能が刺激されるっていうのかな、必要とされてるってスゴい感じられるの」
これほどまでに、雪花が感情を顔に出すのは珍しいことだ。にこにことした笑みが、彼女の機嫌の良さを表していたが、自分でも分からない気持ちを表せるわけもなく、マズイ方向に話が転がっているのを悟った俺は話題を逸らそうと試みる。
「そ――それよりもさ、今日はほんとに助かったよ。今日のはちょっと真剣にやばかったから、雪花がいなかったらどうにかなってたかもしれない」
誤魔化すように言葉を重ねると、雪花は納得いかなさそうに唇をとがらせる。しかし、本当に分からないモノは分からないのだ。
第一、俺はそんなことを言った記憶がないわけだし。
「というよりもさ、美紀さんは分かってたんじゃないかな?伊月がこうなるってこと。だから私が呼ばれたんだと思う」
ああ、それは確かにあるかもしれない。
この衝動は、厄介なことに自分で制御できるような類のものではない。いつこうなるのかが分からない以上、人手は多いに越したことはないということだろう。
「一人の時に起こらなくてよかったよ、本当に」
そう言って、雪花は改めて安心したようだった。目に見えて表情が柔らかくなる。
俺は、自分のこの弱さへの嫌悪感以上に、この幼なじみにこんな表情をさせたことが情けなかった。
本当は、俺の方が守ってやりたいのだ。
雪花は、決して強い人じゃない。ごく普通の女の子。だから本来守ってやるのは男の俺の役割なはずなのだ。
それはたぶん、つまらない意地という奴で、逆に守ってもらってるような有様の俺がなにを言ってるんだと笑われるのだろうが、しかしその思いは捨てきれない。
いつか、本当の逆境に立ったとき、彼女を笑って守れるような自分になりたいと思っている。
……ああ、でもそうか。
拳をぎゅっと握りしめ、自分の覚悟を再認識する。
逆境は、今だ。甘えた自分から脱却するのは、間違いなく今このときなはずなのだ。
俺たちに訪れたこの理不尽の前で、どんな困難にも負けないと、急に覚悟なんて付くとは思えなかったけれど。今このときに、この意地の為なら、戦える気がする。
「なぁ、雪花。俺はバカだし、きっと何の役にも立たないと思うけど。覚悟、決めたから。こんな情けないことはもうこれっきりにしてみせるし、せめて、俺や雪花や美紀や陣のことぐらいは守れるぐらいは強くなる。……だから、最後まで一緒にいてくれないか。この事件がどんな風に回っていくのかは分からないけれど、一緒に、いろいろ考えていきたいんだ」
吐き出すようにまくし立てる。
雪花は一瞬驚いたような顔をした後、挑戦的な笑みを浮かべてうなずいた。
「うん、最後まで一緒にいるよ。あなたの足りないところは私が支えてみせるし、私だって、もっとやれることあるはずだから。見届けよう、この顛末を」
それがいったい、いつなのかは分からないけれど、どうやら俺たちが単なるガキでいられる期間は終わってしまったらしい。
現実から逸らし、傷を嘗めあって過ごすだけではいられなくなっている。だから、弱いなりににも現実と戦おうと思う。
それはきっと、甘くはないだろう。苦難に満ちて、一人ではたやすく挫けてしまうような困難に満ちている。
だけど、それが所謂人生というやつなのだろうし、何よりも、俺の隣にはこんなにも頼もしい相棒がついている。
だからきっと負けはしないと、今は強くそう思う。
「――ねえ、ところでさ」
ふと、雪花がそう声をかけてくる。
その表情は至って平静であったが、どうにもその目が笑っていそうなのが気になるところだ。
ソファーの対面に座っている雪花は、どことなく身を乗り出してくる。
「今の言葉って、なんだか愛の言葉みたいだと思わない?」
――――こいつ、実は性格悪いだろう!
その言葉は、全く別な感じに胸の中に突き刺さったのだった。