プロローグ
・・・・・・目蓋の裏に、淡い日の光を感じた。
柔らかい光、どうやら時刻は既に夕方へとさしかかっているようだった。
ずいぶんと長い間眠っていたらしい。下敷きにしていた腕が、イヤな疼痛を発している。
頭を起こし、鈍い痛みに顔をしかめながら眼下の景色を眺める。
どこまでも、蒼。
暗い、濃紺の色で染められた大海が果てしなく広がっていた。
ただ一つ、今にも水平線の向こう側に落ちようとしている夕日だけが、蒼一色の世界をオレンジ色に塗り替えている。
いつもの通り、見慣れた光景。
生まれたときから、この景色だけは変わらない。どんなトコロに行こうと、まるでこの世界にはこの景色しか存在してないのだといわんばかりに。
まぁ、それもある意味では間違ってはいないのだろうか。ここは海で染められた世界で海に飲み込まれた世界なのだから。
「あぁ、面倒くさい」
俺は、穏やかで変わらないこの世界が好きだった。
例え日々に刺激は少なくても、のんびりと過ぎていく日常が。
だというのに、今は変わらないということにただ焦り、苛立ちすら感じている。
故に、こぼれ落ちた言葉だった。
「だからって、日々のお勤めをさぼるのはいけないことだと思うけどなあ、私」
ふと、背後から聞こえたのは慣れ親しんだ少女の声。夕日に照らされ、背後から薄く伸びた影が見慣れたシルエットを創る。
首を後ろにひねると、口元に苦笑を浮かべた少女が立っていた。
小柄な体格、燃えるような色をした真っ赤な腰まである長髪、幼い顔立ちと、それに見合わぬ大人びた表情。俺の幼なじみ、名前は李 雪花。
中国と日本人のハーフらしいのだが、今となってはそんな情報はどれだけ正確なのかわかったものじゃ無い。
人間がその版図としているのは、二千平方キロメートル四方の巨大な潜水艦五つのみ。
この世界の中ではいくつもの人種が混ざり合い、国際色豊かというよりは、むしろ混沌とした様を見せている。俺や雪花も、もはや何人なのかと聞かれても首をひねるような有様だ。
最も、そもそも自分の血を誇るような、所属する『国』などもはや存在しないのだが。
「……あー、さぼってるわけじゃ無いぞ。これはだな、自主的で高度な判断による休養とかそういうモノであって――」
「言い訳しない。何だって伊月はこうも悪ぶれようともしないのかな、白い目で見られるのは伊月だけじゃ無くて、私とか美紀さんも何だよ?」
溜息とともに、俺の隣に腰を下ろす雪花。
ともに見つめるのはとおい、とおい海の果て。
その際限なき水平線を、睨み付けるように雪花は目を細める。
「お兄さん、やっぱり帰ってこないって」
「……そっか」
2週間前。俺の兄、十川 陣は失踪した。
理由は分からない。
そんな素振りがあったのかと聞かれれば、微妙なところだと思う。
普段通りではなかった。何かがおかしかったとは思う。
けれど、それはこんな事になってから思い返してみて初めて、ああ、そういえば――と思い当たる程度のものだ。
「誘拐って線もなさそうで、たいした理由も思い当たらず、何か悩んでいた風でもない。ほんと、こんなことする人だったかなぁ。お兄さん」
「さあな、兄貴のことだからそのうちひょっこり戻ってくるかもしれないぞ。『心配かけてごめんね――』なんつってさ」
「あはは、まあその辺つかみ所のない人だったしね。もっとも、ほんとにそんな態度で戻ってきたなら、顔面ぶん殴ってやるんだけど」
二人して笑い合う。
ほんの少しの期待と、胸を塞ぐ不安を押し隠して。
日はいよいよ完全に落ちようとしている。
ここは、海に覆われた世界。
濃紺から漆黒へと色を変えたその水面は、そこの亡い闇のように見えた。
とりあえず、プロローグだけ。
一章で世界観の説明などがなされると思うので、現時点で説明不足でもご容赦を。