桜の下で ――With you forever――
未だ咲く気配のない桜。
それも仕方のない話だ。一月といえば雪だって降る季節。桜よりも雪の花の方が似合う季節である。
一年生はようやく慣れた学校の生活に張り詰めていた気が緩み始め、三年生は最後の追い込みに鬼気迫る面持ちで机にしがみついている。
僕達二年生はと言えば、来年に絶望を感じながら去年に戻りたいものだと軽口を叩きあっている。
受験という物の形が見え始め、しかしながらなかなか実感がわかない、そんな浮遊感が気持ち悪くもあり、心地よくもある。
そんなふらふらとした時間の中、放課後の予定を決めている友人たちのずっと後ろに見える学校で一番大きな桜の木の下に佇む少女を見つけた。
少女はいつも桜の下にいた。
とはいっても休み時間や授業中に見ているわけではないので朝と昼、放課後はいつもいる、といった方が正しいだろう。
今時珍しい艶やかな黒髪が風になびく姿に僕は心を奪われていた。
伏せ気味の顔はよく見えないが悲しげで、どうしても彼女に声をかけたいと思ってしまった。
彼女はいったい誰なのだろう。
彼女は何をしているのだろう。
変わらぬ毎日に辟易していた僕にとって、彼女は非日常の扉に見えた。
「こんにちは」
ある日の放課後、友人たちと別れた僕は勇気を振り絞って彼女に声をかけた。
彼女はゆっくりと顔をあげ僕を見ると、首をかしげる。
「私に、御用ですか?」
その声はずっと想像していたよりもきれいで、鈴のように軽やかな声だった。
「どうしてここにいつも立っているのですか?」
「見て、らしたんですね。貴方はこの桜の下に何が埋まっていると思いますか?」
彼女は僕が見ていたことを知ると恥ずかしそうに笑い、そしてまた自分の足元を見た。
その様子が寂しそうで、今にも消えそうで、僕はごくりと息を飲む
「何が、埋まっているんですか?」
「ふふ、もしかして私が埋まっていると思ってらっしゃるのではありませんか?」
クスクスとまるで僕をからかうように笑う彼女につい恥ずかしくなって顔をそらしてしまう。
そんな僕に彼女はまた少し笑い、軽く足で地面をけって見せる。
「この下には祖母の大切なものが埋まっているんです。タイムカプセルって、知っているかしら?」
「ああ、それなら分かります。貴女のお婆さんのタイムカプセルが、ここに?」
「ええ、埋めた場所の上に桜の根が張ってしまって、しかもこんなに地面が硬くなってしまったから掘り起こすのも一苦労なの」
「そうですね」
彼女の言うとおり、この桜は告白の名所になることもあり地面は踏み固められている。
「祖母はもう年だからこんな地面掘り起こせないの。だから、私がなんとかしなくちゃいけないんだけど」
そういって困ったように笑う彼女の微笑みに、僕は心を奪われていた。
彼女に声をかけた日から僕の日常は大きな変化を見せた。
朝学校につくと桜の下で桜を見上げる彼女に声をかける。
彼女は僕を見て微笑んでおはようと返してくれるのだ。
「今日も寒いですね」
「そうね。まだ一月ですもの。二月になればもっと寒くなるわ」
彼女はそう言って空を見上げる。
彼女につられるように空を見上げれば灰色の空が広がっている。朝の天気予報では雪が降るかもしれないと言っていた事を思い出してぶるりと震える。
「僕は寒いのが苦手なのでこの季節は困ります」
「ふふ、私は冬が好きよ?夏の方が嫌になるわ」
汗をかくのは嫌いなのと彼女は笑う。浮世離れした印象を受けたが汗のことを気にする様子が普通の同世代の女の子であることを思い出させる。
たわいない話を軽くかわして教室に向かう。彼女はもう少し外にいるとそこに留まっていた。
「早いですね」
「ええ、実は私、ホームルームを自主休講しているの。だって退屈なんですもの」
そういって悪戯っぽく笑う彼女に僕は苦笑を返す。
「駄目ですよ、ちゃんと出ないと。明日の予定が分からなくなりませんか?」
「友達に教えてもらうもの、平気よ。あら、もしかして私に友達がいないと思ってたのかしら?」
そう言われて僕の中で彼女の周りに他人がいる様子が思い描けないことに気付いた。
そう告げればひどいわねと彼女は笑う。
「きっと、桜の所為ですよ」
「あら、植物の所為にするのね」
「花の咲いていない桜がとても淋しくて、儚くて、貴女にも同じ印象を抱いてしまったのでしょう」
「詩人ね。じゃあ貴方からそんな印象が消えるように、次の休みにデートでもいかがかしら」
僕の言葉に彼女は笑い、そうして提案をくれた。
思ってもいない、そして嬉しい提案だった。よく見れば彼女の頬は少し赤く染まっており、それがまた嬉しいと感じる。
それは彼女と初めて学校以外で会う約束だった。
彼女と会う前夜はなかなか寝付けなかった。
彼女と花の咲いていない桜の結びつきは強く、僕の中の彼女はいつも桜の下で儚げに笑っている。
私服の彼女などイメージできなかった。
「あら、似合わないかしら」
彼女が恥ずかしそうに僕から顔をそらして少し乱れたスカートを整える。
その姿を見て僕はようやく金縛りのような感覚から解き放たれる。
落ち着いた色のワンピースを着た彼女はとても美しく大人びていて、桜の下にいた彼女よりも現実感が増していた。
「とても、似合ってます」
「ありがとう。何も言ってくれないから心配だったのよ」
頬を染めて少し拗ねたように付け加える彼女に僕はきれいすぎて固まっていたんですと素直に告白する。
それを聞いた彼女はとてもうれしそうに笑った。
「どこにいきますか?」
「とくに行きたいところはないの。でも、そうね、海を見たいわ」
近くの海はそれほど離れておらず、僕達は彼女が見たいと言った海を見に行くことにした。
2人で電車に乗ってしばらく揺られると家が途切れ少し暗い冬の海が一面に広がった。
少しドキドキしながら駅を出て海岸へ向かう。
どうして海というものは季節によって違う印象を受けるのだろうか。
「桜も一緒でしょう?物にはいつも側面があるの。それに気付くか気付かないか、それだけよ」
呟いた彼女の横顔は冬の海のように冷たく見えて、すこしぞっとしてしまった。
それと同時に愛おしくなってしまった僕は彼女に触れかけた手を慌てて引き戻した。
彼女を一目見た時、桜のように儚い人だと思った。
彼女と声を交わした時なんて無邪気な人だと思った。
彼女と一緒にいるうちに僕は彼女に恋をした。
「ねえ、最初に会った時に私が話したこと、覚えているかしら」
彼女に尋ねられて僕は頷く。
「タイムカプセルのことですよね」
「そう。そろそろ春休みでしょう?だから私、それを掘ろうと思うの」
彼女の言葉に僕は彼女を見つめて何も言えなくなった。
彼女はそんな僕の眼を見つめて笑う。
「春休みは人も少ないでしょう?迷惑になりにくいと思ったの。どうかしら?」
「いい考えだと思います。いつ、実行されるのですか?」
「夜に。貴方は止めるかしら?」
まるで悪戯を仕掛けるような笑みを向けられて、僕は首を横に振る。
「いえ、僕も手伝いたいと申し出るつもりでした」
僕は当たり前のことを言ったつもりだった。彼女もありがとうといつものようにすべてを分かっていたような笑みを返してくれると思っていた。
しかし彼女は驚いたような眼をして、そして僕に聞き返す。
「本当にいいの?」
「夜の学校に惹かれたんです」
それは嘘ではなかった。僕は夜の学校と桜の木とそこに佇む彼女。
それはとても綺麗だろうから。
夜はとても冷える。
僕と彼女は夜の校門前に待ち合せることにした。
早めに校門前に向かうと気が急いていたのか彼女はすでにそこに立っていた。
「来てくれたのね」
「約束しましたから」
彼女の困ったような笑顔に僕はそう返す。
夜の学校は思ったよりも冷たく重い空気を宿していて今更ながらに緊張し始めた僕の手のひらは汗でぬれていた。
校門は空いていないので乗り越えることになり僕が乗り越えて彼女に手を貸そうと上を向こうとすれば彼女の焦った声が降ってきた。
「う、上を見ないでね」
「は、はい!」
彼女が制服できていたのを忘れて上を見かけた僕は慌てて下を向く。
一瞬見てしまった足は白く、月の光を映して妖艶な輝きを放っていた。
桜の下で彼女は持ってきていた紙と地面を照らし合わせて掘るべき場所を探す。
「ここを掘ればいいはずだわ」
彼女はそう言ってスカートのまま土を掘り始める。
「僕が掘ります。その、スカートが汚れてしまうから」
「あら、ありがとう」
彼女は僕の言葉にはにかみながら僕にスコップを渡してくれる。
土は踏み固められていて硬く、中々掘るのが大変だった。
それでも彼女の期待する瞳に後押されて僕は必死に掘り続ける。
彼女のためなのか、自分のためなのか、むしろなぜ掘っているのか、それすら分からなくなりながら掘り続ける。
必死に掘って、掘って、掘って、掘って、掘って――
硬いものにスコップの先が当たる。
スコップで掘るのをやめて丁寧に手で土をかきわけた。
「これって……」
「ありがとう、優しいのね」
不意に上から降ってきた彼女の声に穴の中から彼女を見上げる。
優しく微笑む彼女は月の光を背中に受けてとても綺麗で、それでいてどこか冷たく見えた。
その笑顔をぼんやりと見つめながら僕はぼんやりと考える。
何故こんなに深く穴を掘っていたのだろう。
僕が掘りあてたものは何だというのだろう。
「今度は貴方の番。ありがとう、嬉しかったわ」
そう言って彼女はもう一本のスコップで土を救い、ゆっくりと土を穴にかぶせていく。
土を穴にかぶせて
ああ、僕はこのまま
彼女の笑顔を
全て本当のことを言っていた
月の光は美しくも冷たくて
足が動かなくなっていく
彼女は僕に
何と綺麗なのだろう
大切なものをくれた
次は僕の
――――それでも僕は彼女を愛おしいと思った。
変わらない毎日。変わらない日常。
人は心の中で普通ではないことを望むもの。
私も、その中の一人。
「ああ、退屈だなあ」
ぼんやりと呟きながら学校を出る。委員会の仕事が思ったより長引いてしまい、友達も帰ってしまったために一人きりだ。
ふと、学校で一番大きな桜の気に目をやるとそこに佇む少年を見つけた。
すれ違う人の顔さえ分からなくなる時間。
ようやく蕾をつけた桜の下の少年。
それはまるで私を日常から非日常へ導く存在のように思えて、つい声をかけてしまう。
「あの、どうかされましたか?」
彼は私を見て微笑んだ。
優しげなそれは親しげな笑みにも見えて、彼と私は出会うことがきめられていたかのように思える。
だからきっと、私が桜の下に佇む彼を見つけたのは必然のなのだ。
「この下に、何が埋まっていると思う?」
「え、ええっと……まさか死体?」
友達に聞かされた怖い話を思い出して体を震わせると彼はクスクスと楽しそうに笑う。
まるで悪戯が成功した子供のような無邪気な様子に見とれていた私はようやくからかわれたことに気付いて顔を赤く染める。
「か、からかわないでください!」
「ごめんね、からかうつもりはなかったんだ」
クスクスと笑いながら、彼は愛おしそうに土の下に視線を落とした。
「この下に、僕の恋した人からの贈り物があるんです」
――了――