第9話 停滞
いつも通りピピピという目覚ましの電子音が部屋に響く。それを止め、隣を見ると涙を流して眠っている玲羅の姿。一瞬驚くが、見なかったことにして立ち上がる。誰もが深い傷や苦悩を持って生きている、それに軽々しく踏み込む権利はだれも持っていない。彼女には彼女の事情がある、俺が知ろうとすべきでない事情が。
朝食買いに出かけるか。
虚ろな少女は中学校を卒業し、高校に入っても目に映る景色は空虚なものだった。けれど彼は、無理をしている少女に気付いた。少女は驚いた、今まで少女の頑張りに気付いたものは誰もいなかった。その場では「大丈夫」と取り繕って見せたけど、こんな風になってしまった自分を心配してくれたことがたまらなく嬉しかった。空虚だった心の中に嬉しさがこみあげてきた。そして少女が彼に恋をするにはそれで充分だった。
朝食を買って部屋に戻ると、玲羅は起きていて、真っ先に「何処に行っていた」と怒られた。確かに玲羅が俺を見張っているのを知りながら、勝手に居なくなったのは悪いと思うが、理不尽すぎるだろ。つか、俺が出て行ったのに気付けよ。それでも戦闘のプロか。
「それじゃ、学校行ってくるが、絶対に大人しくしていろよ」
「分かっている。もう何度も聞いたぞ」
何度言っても心配なんだよ、と心の中で叫ぶ。
「昼の分の飯は冷蔵庫の中に入ってるから、昼になったら勝手に食べろ。夕方には戻るから、くれぐれも騒ぎを起こすな」
「分かったと言っているだろう。さっさと行け」
そう言ってテレビをずっと見ている姿はまるっきり子供のそれで、不安しか覚えない。だからといって、何か出来ることがある訳でもないので、大きな心配事を抱えて学校へ向かう。
相変わらずの周りからの視線を受け流しながら、教室へ向かう。教室に着いたのは8時20分ごろで、クラスの人間ほとんど全員がそろっていた。もちろん、鋼、翔、介泉、他山の4人も、介泉の席の周りに集まっていた。
「遅かったね、渦閃」
「おせぇぞ渦閃」
近くに来た俺に、まず声を掛けてきたのは鋼と翔。
「いろいろ忙しかったんだよ、今日は」
おもに招かれざる居候のせいでな。
「おはよう」
「もう少しで遅刻よ。もっと早く来るようにしなさい」
続いて声を掛けてきた、出来た介泉と相変わらずな他山。
「おはよう。努力はする」
それぞれに言葉を返し、自分の席へと向かおうとするが。
「そういえば、昨日昼過ぎに街中を渦閃がうろついていった噂を聞いたんだけど本当かい?」
と、鋼が俺に聞いてきた。そんな話題を今振るんじゃねぇよ、鋼。他山が睨んでいるだろ。
「それは事実なのかしら、矢鳴君?」
予想通り他山が問い詰めてきた。
昼過ぎという時間かどうかは人にもよるだろうが、たぶん玲羅と一緒に寮に向かっている途中のことだろう。いきなり触れられたくない話題か。というか、ただ街中歩いただけなのに噂になっているのかよ。時間的に高校生がいるような時間じゃないこともあるんだろうが、十中八句玲羅が目立っていたせいだろうな。俺の悪評も少しはあるんだろうが。
「何かの間違いだろ、昼過ぎなら俺は自分の部屋で寝ていたからな」
「本当に?」
他山が疑いの眼差しを向けて確認してくる。
「本当だ。俺が嘘を言っているように見えるか?他山」
「えぇ、嘘を言っているようにしか見えないわ」
ただの皮肉なのか、それとも本気で言っているのかは分からんが、他山は鋭いからな。さて、どうやって誤魔化すか。
「心外だな。鋼、その噂を詳しく話してくれないか?」
「うん、確か。午後3時ごろ、悪名高いことで噂の不良が、うちの制服を着た美人と並んで歩いていたって言う話だったよ」
俺が尋ねると、鋼は笑いを堪えながら話した。
「おまえ、その「悪名高い不良」ってのが俺だと」
「みんなが言っていたんだよ。その不良は、きっと渦閃のことだってね」
ジト目で突っ込むが、笑って受け流す鋼。翔は笑いを噛み殺し、介泉は俺に向かって「そんなことないよ」と必死にフォローし、他山は呆れている。介泉、その必死さが逆に事実だと言っているようなものだからやめてくれ。
「生憎と俺じゃない。さっきの噂が何よりの証明だな」
「どうしてだい?」
俺以外が疑問符を浮かべる中、代表として鋼が聞いてくる。
「簡単だ。その不良はこの学校の女子と一緒にいたんだろ?俺には介泉と他山以外にこの学校の女子の知り合いなどいない。だから、お前ら二人が俺と一緒だった記憶がないなら、その噂の人物は俺ではない、ってことだ」
と決定的な反論を告げてやる。まあ少し強引ではあるが、この学校の生徒が直接あの現場を見たわけでもなければ、これで誤魔化せるだろう。あの時間、俺のようにサボっていた者以外、1年生から3年生まで全員授業中のはずだから、大丈夫だろう。
「まあ確かに俺らを除けば、悪名高い(・・・・)渦閃に近づこうとするモノ好きはいないわな」
笑ってんじゃねぇよ。後で覚えておけ、翔。
「そうね。3時頃なら私も理乃も授業に出ていたから、矢鳴君と一緒ではなかったわね。そもそも授業をサボって矢鳴君と一緒に居たいと思わないし。まあ、矢鳴君が女生徒の誰かを脅して無理やり連れまわした可能性は残っているけれど」
「真依ちゃん、矢鳴君はそんなことしないよ」
「冗談よ」
冗談を言っているような雰囲気ではまったくなかった。本気で言ってるねぇだろうなと睨むが
「そんなにじっと見つめないでくれるかしら。穢れるから」
絶対零度の言葉と共に、蔑みの視線が返ってきた。
「とにかく、噂の人物は渦閃じゃないとしたら誰なんだろうね。一緒に居た女生徒のことも気になるし。噂では、女優やモデルぐらい綺麗だった、って言うのに、学校じゃ全然話題にならないなんて」
鋼が逸れかけた話を元に戻す。
「別にどうでもいいだろ。どこの誰が誰と一緒に出歩いていようが、俺たちには関係ないことだ」
俺の言葉を最後に、もうすぐHRが始まると、それぞれが自分の席に戻って行った。今日も、睡眠の補給に時間を使うか。
目を覚ました時、時刻は12時を過ぎており、午前の授業はもう終わりといったところだ。現在、行われているのは古文の授業だ。教壇に立つのは腰の曲がった60を超えた老人の先生。皆から古ちゃんと親しみを込めた愛称で呼ばれている、古田宗次だ。性格は優しくて温厚、怒っているところを誰も見たことが無いらしい。ゆえに授業は、真面目な生徒だけが真剣に取り組み、残りは居眠りや携帯を操作しているといった比較的ゆるい授業となっている。
丁度いい時間だなと思いながら、授業終了のチャイムを待つ。5分もしないうちに授業終了のチャイムが鳴り、古田先生も「今日はここまで」と終了の合図を口にする。それと同時に席を立つ。よし、昼飯買いに行くか。
「起きなよ、翔」
俺が起きているので、翔を起こしに行く鋼。
「今日も購買に行ってくるのでしょ。さっさと3人で買いに行ってきなさい」
介泉の近くに移動しながら、当然のごとく命令をする他山。
まったく、いつも通りだな。こうしていると、一昨日のことも、昨日のことも、玲羅のことも、全部夢だったみたいに感じるな。玲羅はちゃんとおとなしくしているだろうか、考えるのは止そう。考えれば考えるほど不安になるだけだ。
「鋼、翔。さっさと済ませるぞ」と声を掛け、一昨日と同じく購買へ向かう。
5人で昼飯を食べながら、他愛もない話をし、昼休みの時間を消費していく。途中でまた、朝の話題で追及されたが、朝と同じような答えで誤魔化した。昼休みも終盤というころ他山が唐突に切り出した。
「そろそろ移動して、準備するべきね」
「次って移動教室だったか?なんの授業だ?」
「体育だよ、渦閃」
俺の質問に鋼がすぐさま答えを返してくる。
「そうか、次は桐生の授業か。なら急がないとな」
あいつの授業で遅行しようものなら、後で何をさせられるか分からん。
「それじゃあ、また後でね(・・・・・)」
「行きましょ、理乃」
と言い、去っていく介泉と他山。一般的には、体育といえば男女別で行われるものだろうが、うちの高校は珍しく男女合同だ。何でも成長率で成績をつけるから、男女差など関係ないとか。まあ教員削減という意味の方が大きいだろう。
「それじゃ、僕たちも行こうか」
鋼の言葉を合図に俺たちも更衣室に向かう。
着替えた俺たちが、今日の集合場所である体育館に着くと、一人の女教師がステージ上に立っており、ジャージ姿に着替えたクラスの全員がすでに集まっていた。
「よーし、いない奴はいないな?」
俺達で最後だと分かっているのか、俺達が体育館に入ると同時にステージ上に立つ女教師、桐生が叫んだ。誰も何も言わないことに満足そうにし、
「これからも、誰も欠席や遅刻するんじゃないぞ。私の評価が下がるからな」
などと、のたまわった。
「今日はバレーだ。男女混合でも、男女別でもいいから、その辺は君らで適当に決めてやっておきたまえ」
桐生 美月、体育の授業を受け持つ教師で、生徒の間では横暴で有名な教師だ。また、男子高校生にとって目の毒ともいえる身体の持ち主でもある。授業は、ほとんどが出席を取り、種目を告げるだけで、後はすべて生徒に任せるという放任状態。たまにおもいつきで、少年漫画のような熱血展開の対決をさせようとする。遅刻や欠席した生徒には、1週間自分の奴隷として雑務をやらせるなどの罰を与える。よくこの時代に、保護者から学校側に辞めさせるように要求が来ないと思うものだ。もしかしたら、きているのかもしれないが、学校側を丸めこむほどの何かがあるのだろう。
「今日も相変わらずだな、桐生先生」
「そうだな。相変わらず無茶苦茶な奴だ」
話しかけてきた翔に、本心からの言葉を返す。
「そうじゃなくて、相変わらずいい身体しているよなって」
「・・・」
バカに付き合うと脳が腐りそうだ。
その後は、体育の時間は鋼たちと適当に時間を潰し授業が終わるのを待ち、残りの午後の授業も適当にこなし、いつもの待ち伏せをかわして、帰宅を急ぐのだった。