第3話 錯綜
人気のない暗闇の中で少女の凛とした声が響く。「はい、準備はできています」少女の他に人の姿は無いが、誰かと会話しているようだ。
『前回話しておいたが、例の地区の担当者が消えた、君にはその地区の新たな担当者として向ってもらう』
「はい」
『初任務で、前任の担当者が5人も消えている地区では些か荷が重い役目だと思うが、史上最高の能力を持った君ならやってくれると信じている』
「必ずやり遂げて見せます」
『相手が【原初】の可能性もある充分に気をつけてくれ。人類の未来の為に』
その言葉が合図であるかのごとく、少女の前に直径2mぐらいの光の渦が現れる。少女は迷うことなくその渦に入っていった。
時刻は20時を過ぎたくらい、あれからコンビニで弁当を買って、俺のお気に入りの場所でもあるとある廃ビルで寝て過ごしていた。5月とはいえ、夜はまだ冷えることもあるが、使わなくなった毛布をここに置いていたため、冷えることも無い。また、前に居た奴の名残かボロボロのソファが残っていたおかげ、硬いコンクリートで体を痛めることも無い。ここに来たのが5時頃だったから3時間ほど寝たことになるのか。買っておいた弁当を食べながら、「電子レンジもあればなぁ」等とぜいたくなことを考えていると、人の声が聞こえた。この辺りは廃ビルが並んでおり、不良グループのたまり場として使われることもある、1階が封鎖されているこのビルを除いて。今渦閃がいるのも3階である。
(なんだ、またどっかのバカが騒いでんのか?)
一旦箸を置き、様子を見に非常階段に出るが辺りは暗くてよく分からない。仕方なく2階に下り、このビルに入るためのルートであるコンクリートから鉄骨が突き出している場所へ向かう。1階が封鎖されているこのビルに入るためには、鉄骨を利用して2階から入るのだ。鉄骨を利用して路地に下りる。すると今度は、東のほうから「ギャー」という悲鳴を聞き取ることができた。
(グループ同士の抗争か?それとも仲間割れか?どっちにしろ、あの叫び声だ、骨の1,2本折るような真似してるのか)
慎重に進んだ先にあったのはありふれた廃ビルの入り口、だがその奥に見えた光景は想像を絶するものだった。辺りには何人もの人間の死体散らばり、そのどれもが全身をバラバラにされ、内臓を引きずりだされて転がっていた。そして今も、巨大な狼が口元と爪、体を血に染め、先ほどまで生きていただろう、血だまりが広がる死体の内臓を食べている光景がそこにはあった。辺りには濃密な血のにおいが満ち、思わずむせ返ってしまいそうだ。俺は恐怖で震える脚を無理やりにでも動かそうとし、ガチガチと音を立てそうになる歯を何とか静め、出来るだけ音をたてないように、後ろを向いて歩き出そうとした。そのとき、今までしていた血肉を貪る音がしなくなった。瞬間、その意味を理解することなく、本能によって全力で走りだした。
(回想終了。つまり今俺が死にかけているのは、寮の前で俺を待ち伏せしていた馬鹿共のせいだ。全部あの馬鹿共が悪い。死ぬ間際だってのに責任転嫁の何が悪い、こんなことでもしなきゃやってられるか。考えろ、考えろ、何か無いのか)
脚を止めればやられる。その本能に従い、あの状況に遭遇してから5分、全力で走り続けているが限界は近い。夢だと信じたいが、感じるもの全てがこれは現実だと告げている。どうしたらこの状況を解決できる。何か打つ手はないのか。思考がぐるぐる回る。そんな中、視界の先にとらえたのは1本の鉄パイプ。
(糞が。どうせダメだっていうのなら、分の悪い賭けでものってやる)
鉄パイプを拾い、近くの廃ビルに駆け込む。
(これで素手よりはまだましだ。あいつをぶっ倒して生き残ってやる!)
廃ビルの開けたスペースに、数秒遅れてあの狼が飛び込んでくる。全身の震えを何とか気合いで抑え込み、正面の狼を見据え5mの距離で対峙する。一方狼は、渦閃の様子を観察するように見ているが、その眼に宿るのは紛れもない殺気。口からよだれを垂らし、爪からは血を滴らせ、いまにも襲いかかってきそうである。その対峙している時間は数秒だったか。渦閃には無限の様に感じられ、精神が疲弊する直前、渦閃は走りだした。
(先手必勝。注意すべきはあの爪)
鉄パイプを下段に構え、一直線に走る。狼は待ち受けるかのように動かない。距離が2mまで縮まり、鉄パイプの間合いに入る。そして、まさに鉄パイプを振るおうとした瞬間、狼の右腕がほぼ真横に振るわれる。その速度は人が刀を振るうのと同等、普通なら一般人に躱ことができるようなものではない。だが、爪だけに集中しそれ以外を無視することで爪のわずか動きへの反応と、極限の状態ゆえの感覚の鋭敏化がそれを奇跡的に可能にした。上体をしゃがむ様に沈め、狼の爪に衣服を切り裂かれながらも紙一重でかわし、「フッ」短く息を吐き出しながら反撃の鉄パイプを下段から顎めがけて振り上げる。顎への一撃によって脳が揺れ、狼は倒れる。
……はずだった。
しかし現実は、無残にも空を切り裂いた鉄パイプと、距離を10m程空け少し驚く狼の姿だった。そう、鉄パイプが当たる直前、狼は、右腕を振りぬき重心が前に傾いた状態から、咄嗟に脚力だけで後ろへ10m近く跳んで見せたのだ。
「そんな。マジ、かよ」
勝利を確信した一撃、そのためにそれが失敗したという絶望は大きかった。そして、この状況において呆然とする時間など当然の様に許されない。
「なっ、しまっ
渦閃が呆然としていた1秒に満たない時間で、狼は10mもの距離を詰め、渦閃の目の前に立ち、渦閃が気付いた時には、今まさに右腕を振りおろそうとしていた。渦閃が死を覚悟し、目を閉じたが、いつまでも爪に体を切り裂かれる感覚はやってこなかった。おそるおそる目を開くと、漆黒のローブに身を包んだ何者かが狼の爪を刀で受け止めていた。
渦閃を無視して、漆黒のローブに身を包んだ何者かと狼の戦闘が始まった。だが、それは戦闘というには程遠い一方的なものだった。漆黒のローブに荷を包んだ何者かは狼の爪を全て紙一重でかわし、手に持った鈍く輝く刃を赤く染めていく。
(なん、なんだ。いったいどうなってやがる)
突然の状況に思考が追い付かず、またもや呆然としてしまったが、徐々に状況を理解し始める。
(女?それに着けているのは、軍が用いるようなアーマーか?いや、そもそもあいつは人間か?)
刀を持った、アーマーを着けていても男ではないと分かるほどの細い腕。たまに見えるローブの中は、実用重視であろう頑丈そうな漆黒のアーマー。そして、そのアーマーをつけていながら狼と同等、それ以上の速さで戦闘を行うさまは人間の限界を超えていた。
まだ思考が混乱する中で、体を動かすのは生存本能だった。廃ビルの入り口付近で戦闘が行われているため、渦閃は本来ならガラスが張られ窓だったばしょから外へ飛び出した。後ろから聞こえる狼の叫び声に恐怖し、途中何度も転びそうになりながらも、廃ビル群から人気のある街の中心地に向かって走った。
(いいのか、あの女一人に任せて。いいに決まってる、俺がいたって何になる。そもそも圧倒的だっただろうが。だからっていいのか、全部押しつけて。何かやれることはあったんじゃねぇのか。くそ、やめろ。こんな時まで善人面しようとすんじゃねぇ)
渦閃は立ち止まり、力のままに横にあった壁を殴りつける。「ドン」という音に周りにいた人々の注目が一瞬集まるが、周りの人々は何事もなかったように先程までの行動に戻ってゆく。
少年は深い苦悩を抱えたまま、そこに立ち尽くす。