広陵の戦陣に吹く風
風の音が乾いていた――という記憶が、まず真っ先に思い起こされた。雨季までまだ多少の月日を要する季節のことである。なだらかな広陵に馬を立たせて、馬上、前方にかすむ城砦を項洵は、懐かしむように目を細めて眺めた。
材質を玄武岩の硬度に頼んで城壁の土台を築き、そこから上はすべからく煉瓦造りである。城壁の周囲を囲む堀も深く幅広で、張り出し櫓や鋭角な反撃塔など、かつて難攻をもって知られた面影を今に残している。
当時、この城には1200人の住民が生活していた。胡丙という城だ。交通の要所として多くの人間や物が行き交う物流の交差点であり、そのために衢地として戦略上重要視されてきた。ただし、いまでは廃城とされている。つい20年ほど昔のことだ。
項洵が激戦の地となった胡丙を棄てたのだ。
いまなお、項洵は折につけては、胡丙で巡り会わされた戦いの記憶に沈み込む。齢を60に差しかかろうかという時分に、時々、背筋を言葉にし難いほどの寒気が、ざわりと撫でていくのだ。それはすべて、戦場で感じるはずの感覚であるはずだった。
――朕の戦いは、まだ終わってはいないのだ。
そう項洵が考えてしまうほど、過去のいくさの体験が血の一滴にまで染み込んでしまっている。なかでもやはり胡丙には忘れられない思い出がある。
胡丙は、当時の形そのものを保っている。もはや人間はどこの区画にも住んではいないのに、見やる項洵の視界に、武装した軍兵の隊列が浮かび上がる。槍をたて、牙旗をはためかせ、犇く人馬の集団と――数十年に及んだ項洵の征服戦争において、もっとも彼を苦しめ、窮地に追いやり、そして何よりも、戦士として、人間として、支配者として、王者として成長させた男の変わらぬ鋭い視線が、老いた項洵の全身を射抜いて天へと突き刺さっていった。
――――
それは若かりしころの項洵が、征服戦争に明け暮れていたころの話だ。凬王朝は諸邑への拘束力を失う一方で、各地の邑を治める諸王侯たちも、独立して自領を保全ないし拡大させていくようになっていた。
とどのつまり、戦乱の気風が漂う時代になっていたのだ。それでも凬王朝は各邑を束ねる影響力まで失ったわけでもなく、反乱を起こした邑を鎮圧するなどして時代の流れと戦っていた。
項洵は、もとを辿れば翌邑の有力な軍人一族の項家当主であった。翌邑を預かる翌陳の性分は怠惰なもので、色事に溺れては政を省みず、戦乱の匂いを感じずにずっと凬朝の官僚へ賄賂を贈って邑王の地位にしがみついていた。言わずもがな賄賂の出処は民の血税である。
王を諌めたがために失脚した項洵は、ついに反乱の旗を掲げて翌一族を滅ぼし、自ら新王となって項邑を興した。邑の改変は明確な王朝への反逆行為であり、これに激怒した凬需帝が項邑鎮圧の軍令を発した。この戦いは結果として項邑軍の勝利として帰結し、完全な独立を達した項洵は隣国へと攻め入ることで、版図を徐々に北へと延ばしていった。
項洵は、まさしく群雄が割拠する戦乱に、綺羅星の如く瞬いた風雲児であった。
項軍の行くところ敵の屍は累々としたもので、旭日の勢いは飛ぶ鳥までもを落とすほどだった。なかでも戦車と騎馬を駆使して中原の原野を縦横無尽に駆け巡り、3ヶ邑を支配していた鈺殷の治める鈺邑を、大小の戦い合わせ2年かけて降伏させてからは、征服王項洵の名声は大陸全土に轟き、勇ある王は吠え、脆弱な王など明日は我が身と縮こまっては肝を冷やす有様であった。
項洵もまた有頂天となり、勢いづいた項軍はその規模を大きく膨らませた。人材もますます充実した。当代に勇将と名高き楽白、豈邑にその人ありと謳われた名将馬源、そして深謀機略に長けた張縛や朴周矩を軍師に迎え、彼の者の歩む道には智略冴え勇猛奔る将軍たちの活躍が、まるで太古の英雄たちが織り成した伝説のように燦然と光輝いていた。
彼らはいつか、20万とも30万ともする項軍を率い、その頂点に君臨する項洵をもって一時代を築こうとしていた。
そのような折、列強国であった豊邑を征服するために、項洵は何度となく豊邑へと軍を進めては、その都度勝利と敗退を繰り返した。項軍はその勢いによせて征服を試みたが、豊邑の将軍たちも、兵たちも、言っては馬さえも強かった。
このままでは埒が明かないと考えた参謀らは、謀略によって豊邑内部で内紛を誘発させ、すでに国としての体裁を保てないほどに弱体化するところまで成功させた。あとは、一呑みに平らげるばかりである。
そのために項洵は、胡丙を攻略することと決めた。胡丙を抑えてしまえば豊邑全土への派兵が容易となる。騎馬、戦車などを合わせて、総軍12万もの大軍団を項洵は編成した。
隊は甲・乙・丙の主力3軍に、これとは別にしてさらに破甲・破乙・破丙の後備を付け、項洵は胡丙の東7里の場所に3万の本営を構えた。雨季の前、空気が乾いている。
対して胡丙の戦力は、精々が5千人ばかりであろう。それらは篭城の構えを見せている。すでに援軍の望みも薄いということを彼らも承知しているであろうが、端から戦いになるはずもない圧倒的なまでの戦力差に、項軍の将兵は得意気であった。
「これでは戦さにもなりませぬな」
と、項洵の配下の将軍陽覇惇が、嘲笑を胡丙に立てこもる敵の軍団へ向けた。どう考えても、それこそ天地がひっくり返っても、この戦いの結末は見えすぎていた。その考えを驕りと呼ぶには、あまりにも可哀相というものか。誰もがそう思って不思議ではない。
ただし、笑っているものは多くても、数人は眉を寄せていた。全軍を統括する項洵王も、やはり、油断ならぬ気配を滲ませていた。
――笑えるものか。
項洵の気持ちを知るものは、あまりいない。わかる者はみな、一様に固く表情を変えない。
「王よ」と、彼の帷幄にあって頭脳とも呼べる張縛将軍が、こちらも難しい顔つきで項洵へと身体を向けた。
「いよいよ、この時を迎えてしまいましたな」
「うむ・・・・・・。いずれはとも思っていたが、いざその時が来てしまうと、心臓を鷲掴みにされてしまったかのようだ」
「羌文清の軍勢は、この期に及んで、意気盛んであると聞いております」
張縛の言葉に、瞳を閉じた項洵が、乱れがちになりそうな呼気を抑え付けるように、するすると吐き出した。「さすがだ」と、感嘆の声を上げる。敵将であり胡丙を守る羌文清への惜しみない賛嘆に、武将の一人が気に食わないとばかりに進み出た。
「項洵王、なにをご心配になられまするか。こちらは12万、向こうはたかだか5千というではありませぬか。この可飛めにお任せあれ。手も足も出させずに、華麗なまでの勝利を、王に!」
その激しく自信に満ちた言葉に、多くの武将たちが賛同の声を上げた。次々に一番手の指名をもとめる武将たちが頭をたれてきた。この一戦を豊邑攻略の事実上の決戦と位置づける武将は多く、やはり先鋒を駆ける大手柄を誰もが欲していた。普段は危険な役目ということもあってここまで勝気に出ないのだが、勝ち戦であることが幸いし、また災いしている。
たしかに、勝ち戦であることに変わりはない。項洵も負ける気はしていない。逆に、これで負けることのほうが難しいことであるし、勝てるように打てるだけの策も講じてきた。必勝は期してある。負けはない。
だが、そうであるが故に、逸る武将たちへ向ける視線も穏やかなものではないのだ。
項洵は深いため息をついて、黙っている武将たちの顔色を見比べた。彼らの表情にたいした違いは見受けられない。彼らだけが、項洵の気持ちを察していた。
「王は油断しておられぬだけだ。そなたらは、いささか油断がすぎている」
武将の一人が諌めると、高ぶっている武将たちは「なんの!」と叫びを上げた。気概に満ち々々ている。
「戦さとは勢いでござろう」
「たしかにそうだ。だが貴官らは羌文清という男の戦いを知るまい」
「知っているとも。蟻の寡勢で獅子の群れに挑もうとしている、匹夫の将である。怖れることはない」
「やはり、わかってはおらぬ」
嘆息した武将の言葉を引き継ぐように、項洵が重い口を開いた。
「やつめを侮ると、この戦さは終わりだ。我らの負けとなってな」
「王よ、弱気は戦場では禁物ですぞ」
「私はやつに殺されかけたことがある」
すっぱりと項洵が言い切った。勇んでいた武将たちが目を丸くする。
彼ら勇むものと黙るものの違いは、ひとえに、譜代か外様かの違いであった。そして同時に、譜代の将軍たちは羌文清という男と戦ったことがあり、外様の半数は戦ったことがなかった。
外様は、快進撃を続ける項洵しか知らない。譜代は項軍が連勝の波に乗るより以前から、項洵とともに死線をくぐってきた。だから彼ら譜代の指揮官たちは、項洵とともにそろって羌文清に殺されかけた経験がある。
当時を思い出したのか、項洵の顔面に苦味が増していく。
「晋邑の援軍として戦った、白洞原であったな。私がまだ隣国を抑えたばかりの頃だ」
「まさか・・・・・・。王の強さは、我らがよくわかっております。王は兵馬の駆け引きに通じ、知恵もあり、大将の器をお持ちではありませぬか」
「そうだな。私もそう思っていた。あの当時でも私は戦いに勝ち、近隣の者たちも私を褒め称えた。その私が、やつの――羌文清を相手にして哀れにも逃げ帰ってきたのだ」
思いだして項洵の全身が総毛立つ。なお薄れ行かない恐怖感を味わわされた。項洵にとって、おそらく人生で最初の挫折と呼べる戦いには、譜代の将軍たちも従軍し、多くが命を落としていった。ここにいる譜代の将軍たちは、その中でも特に生き残れた者たちだ。彼らも、羌文清の武威を忘れたことなどなかった。
版図を広げてゆけば、いずれは豊邑とぶつかることになったはずだ。必ず倒さねばならない相手であったが、項洵は可能なかぎり、豊邑と事を構えないようにしてきた。外交に全力を注ぎ、豊邑の注文にはなんども応えてきた。貢いでも来た。黄金を何万貫謙譲したかわからない。
豊邑へ伸ばした謀略の手もそうであった。豊邑王清の愚昧なること、南邑に知らぬ者はなかった。いかに羌文清が恐ろしい男であっても、主があまりにも脆弱すぎた。たしかに人も者も充実した強国であった。しかし綻びの目を見つけ出すことも、そこから解れさせることも、実は容易なことであったのだ。
逆を言えば、羌文清さえ避ければ勝てる相手であり、さらにまた逆意をそこに乗せて語ると、羌文清一人と真正面からばっぷり四つに組んで戦えば、僅かに遅れを取っただけで、天下に聞こえた項軍も木の葉を散らすが如く、鎧袖一触蹴散らされたかもしれない。
そのもっともな例を項洵たちは身をもって思い知らされたのが、極めて危機的状況へと追い込まれた白洞源での戦いであった。
「羌文清は10分の1の戦力差をものの見事に覆してみせた」
「それゆえ、王は慎重であらせられるのだ。羌文清を相手に兵の数など、どれほどの助けにもならぬことを、何より王がもっともよく心得おる。貴官らも、そう心得られよ」
張縛が鋭く叱責すると、その戦い以降になって項洵に従うようになった武将たちは、一様のもと口を閉ざしてしまった。項洵の強さを良く知る彼らは、項洵を負かした羌文清に、言い知れぬ不気味さを感じているようだった。
――それでいい。
羌文清という傑出した指揮官を相手に、油断が何よりも危険な大敵なのだ。もしもわずかな綻びでさえ生じた途端、優れた洞察力をもつ羌文清のことだ、すぐさま突いてくるに違いなかった。そうなった瞬間に天下に聞こえた項軍は跡形もなく瓦解するしかないであろう。
過度に怯えられても困るが、今回に限っては、慎重なくらいが丁度よい。その上で下級武将らが勇気を漲らせて勇戦したなら、これで負けることはない。
日が中天へと昇りかかろうかという頃に、両軍の戦気は一気に高まっていった。というのも、突如として胡丙の城門が開かれ、敵の騎馬が出撃してきたからだ。瓶の水が火にかけられ沸点を越えたように、あるいは人体に見立てた全軍に熱い血液が流れるように、項軍の陣営はにわかに活気付いた。
胡丙の軍は、正面に陣を敷いていた乙軍への電撃的な奇襲を成功させ、追撃を許さない速度と引き際の鮮やかさで再び城門の向こうへと姿を消した。
慎重さから堅く警戒していた項軍は、瓦解こそしなかったが、羌文清という男への評価はますます固まったに違いない。
本営へも続々と乙軍襲撃の報が知らせられ、項洵はぐっと喉を鳴らした。ついに来たという強烈な、それでいて静かな実感がこみ上げてきた。
胡丙を見渡せる場所へ足を運んだ項洵が、この戦いのために持ってきた刀を従者より受け取ると、すらりと軽やかに鞘から引き抜いた。
よく磨かれた刀身に視線を落とす。この刀は、10年も昔に羌文清と戦ったときに使っていた刀だ。刃こぼれ曲がっていた刀を、いつか雪辱を晴らすという想いをこめて鍛えなおし、大切にしてきた。
この刀を抜くとき、それは、羌文清と再び戦うときだ。長年抱き続けてきた想いを、項洵はこの一戦で成就させるつもりだ。
刀には、鍛えなおすときに、装飾こそ変えなかったが刀身に名文を彫らせてある。顔を上げて胡丙を見つめながら、項洵の口は雪辱の銘を諳んじた。
「大士を覆滅し万里を独行す」
その銘こそは、自身をここまで畏れさせる羌文清へおくる最大限の賛辞であり、挑戦状であった。翌日に項洵は全軍に本格的な攻撃を指示するが、いまはまだ静かに、乾いた天風の音に身をゆだねるばかりであった。
――――
古い記憶をめぐる旅から潮が引くように現実へと戻ってきた項洵の鼓膜は、やはり、懐かしい風の音に震えている。
胡丙は、あの頃の形そのままで、平野に佇んでいる。もう誰も住んではいない、自分が滅ぼした豊邑にあって大いに栄えた大都市の成れの果てには、かすかに花の香りが漂っていることであろう。
羌文清が好んだという蘭の花を、彼を慕うかつての住民たちが沢山植えていった。それが今でも、種を落とし、実を結んで、花を咲かしている。雨嬉を迎えればさらに色鮮やかな花弁を花開かせるのだ。
項洵は知っていた。他地へと移り住んだ住民が、雨季の時期に蘭の花を摘みに胡丙へと帰ってきていることを。彼らは数十年が経った現在でも羌文清とともに生きた時代を懐かしみ、最期まで勇敢に抵抗した彼の御霊を慰めようとしているのだ。
それを禁じたことが項洵には一度もなかった。項洵もまた思うのだ。羌文清と出会い、屈辱を味わわなければ、今の自分も、自分の国も、自分の時代もついには訪れず、英傑たちを下して一大帝国を築くことさえ適わなかったのではないかと。
思えば思うほど、彼らが羌文清を慕う気持ちを弾圧できなくなってくる。なぜなら項洵もまた、敵であったはずの男に、心のどこかでは惚れていたからに他ならないだろう。しかし項洵が皇帝であり、皇位を譲った今になっても、羌文清の魂に花を手向けるわけにはいかない。たとえ胸のうちで百万の想いを巡らせたとして、しかし敵同士であった以上、それは出来ないししてもならない。
だから手向けの花を摘みに来た彼らを見逃してやること、それが生涯で最大の強敵であった男へ贈れる、唯一せめてもの手向けであると自分に言い聞かせながら、すでに何十年と経過した。
羌文清の墓が城内の片隅にひっそりと立てられている。項洵は一度も拝したことがない。
馬を進めようとして、また動きを止める。やめようと思った。いまさら墓前にて語る舌はなく、言葉もない。馬首を返し、なだらかな丘の下方で休憩を取っていた供連れのもとへと向かう。途中、一人だけ項洵について丘を上ってきていた張縛と顔をあわせた。まだ項洵よりわずかに若いが、やはり年老いた老人となっている。
「なにか見えましたかな」
張縛の問いかけに、白い毛髪を揺らせながら首を横に振る。遠い昔の幻が見えたが、何も見えなかったと応えたのは、もう過去を引きずることに疲れてしまったからかもしれない。
乱世を収めて太平を呼んで、すでに10年が経っている。もう戦さの世は昔の出来事になり、しかし項洵の身体にはいまだに戦いの余熱が渦巻いて、燻っている。
戦さをしすぎて、戦さが忘れられなくなってしまったかのようだ。平和の時代に今ひとつの物足りなさを感じるようになってきた。これでは何のために戦ってきたのか、わかったものではない。
項洵は、年老いてまた迷っている。迷うたびに、項洵はなんども羌文清のことを思い出し、彼から学んできた様々なことを糧として戦ってきた。胡丙を訪れたのも、この期に及んで羌文清から何かを学ぼうとしたためだ。覇者らしからぬ考えであるとは、項洵自身も思う。
だが、羌文清はなにも教えてはくれなかった。それを項洵は、いまこそ羌文清の影を追い続けることをやめて、乗り越えるべき時なのだと受け止めた。
――天下の戦さを終わらせたのだ。次は私の戦さを終わらせねばな。
そのための戦いをこれから行う。これは最後の戦いの旅路に立ち寄っただけの場所なのだと思いなおし、自分に従ってきた者たちを丘の上から見下ろす。
張縛を初め、勇将として世に聞こえた楽白や、王弁、子才来、祐首洸など古くから項洵に従い各地で戦ってきた老臣たちが、この旅についてきている。彼らはすでに家督を子孫らに譲り隠居の身であるが、同じくして戦さを忘れられない連中であった。持て余した熱の行き先を見出すために、彼らも最後の戦いに挑むのであろう。
各々の魂に刻まれた戦場にて。
項洵が、打ち棄てられた胡丙の城門前に、羌文清と彼の軍団を幻と見たように。
項洵の馬が丘を下りる。張縛も後に続く。
「朕が巡る戦場は、そなた達とともに駆けた戦場である。ここから先はそなた達が行き先を決めるが良かろう。朕はその決めたところに従う」
「・・・・・・ご存念は、もはやおありではありませぬか」
「ないと言えれば楽というものか。だが、引きずらぬ。朕は朕の闘いに勝つための決意と、導を見出した」
「されば、某は最後に巡るといたしましょう」
「よいのか」
項洵が尋ねると、深いしわを刻み込んだ顔をくしゃりと歪めて張縛が笑った。
「ずっと陣の後ろで指図してきましたので、戦場にそれほどの思い入れがありませぬ。ただ一つあるとするならば、某の策を見破りし蔵把将軍の散ったという不波坂の戦場跡を一目見とうございまする」
「よし、ではかくいたせ」
「御意に」
頬を緩めて張縛が首肯する。遠謀を事として来た項洵の美徳は、古今に例を見ないくらいに部下をよく思うところであると張縛はずっと昔から考えてきた。大陸を席巻し、一代で大帝国を築き上げた先帝の御心には、厳しさの中にも慈しむ気持ちがある。
馬の背に揺られながら、項洵が浮雲を見上げた。考え事をするときの癖は、齢を重ねても仕草そのままで、何を思い巡らせているのか簡単にうかがい知ることは出来ない。
ただし、全身から立ち上る覇気の衰えぬことまさに若かりし頃と寸分違わず、張縛をして身の芯に溶鉄を流し込まれたような錯覚がした。
項武帝(項洵)は老いて益々盛んなりけりと、市井の人々はいまでも口にするほど、やることなすことに精気を滾らせた。でなければ、このような旅路を始めようとも思わなかったであろう。
項洵は、ただ過去を思った。思えば身体の熱は消えるどころかさらに燃え盛るようだが、それが堪らなく心地よくもあった。忘れた激しさに身を焦がした日々さえ忘れて安穏と生きることを夢見たが、どうやら自分たちはいささか人を切りすぎてしまったようだ。
夢の戦さを終わらせたとき、そのときにこそようやく、戦塵にまみれた魂は牙をなくし、太平の世を謳歌できるのだ。
「死ぬ前に一度でも、心落ち着けたいものだ」
蒼穹を仰ぎ見、天下泰平への密かなる願いを、項洵は言葉にした。それこそが、それのみをもって、今生最後の願いとした。
時に、項陸12年――乾いた日の一幕であった。
終