好きな女が僕を量産してた
羽黒イミから、死体を埋めるのを手伝ってほしいと電話がかかってきたのは、夜の十時を少し回ったころだった。
僕はちょうど、コンビニで買った冷凍パスタを電子レンジに入れたところだった。表示時間は五分三十秒。袋の端を少しだけ開けて、皿に移すのも面倒で、そのまま温めていた。
スマートフォンが鳴った。
画面に出た名前を見て、僕は少しだけ背筋を伸ばした。
「もしもし」
『もしもし』
イミの声は、いつも通りだった。大学時代から変わらない。
眠そうで、少し鼻にかかっていて、起きているのか寝言なのかわからない声。
『死体を山に埋めに行くのを手伝ってほしいんだけど』
電子レンジが、ぶうん、と低く鳴っていた。
「……ごめん。今、なんて?」
『死体を山に埋めに行くのを手伝ってほしいの』
「聞き間違いじゃなかった」
『うん』
「うんじゃないが」
僕はレンジの表示を見る。残り四分五十二秒。
今のところ、世界で一番まともなのはこのディスプレイだった。
「死体って何」
『死んでいる身体』
「辞書を引かせたいんじゃないんだよ」
『こんなこと、あなたにしか頼めないの』
「僕にも頼まないほうがいいよ」
『あなた以外が見たら、通報するでしょ』
「僕もしたいよ」
『でも、来てくれるでしょう』
温められている残り三分二十秒の冷凍パスタにはかわいそうなことに、僕はすっかり食欲がなくなっていた。
*
研究室は、大学から少し離れた古いビルの三階にあった。
表向きはバイオ系ベンチャーの小さな実験室ということになっている。実際には、イミがほとんど一人で使っている巣だった。
エレベーターは止まっていたので、階段を上った。
三階の廊下は薄暗く、蛍光灯が一本だけ不機嫌に瞬いている。突き当たりのドアの下から、白い光が漏れていた。
僕がインターホンを押す前に、ドアが開いた。
羽黒イミが立っていた。
小さい。
何度見ても、まずそう思う。
僕より頭ひとつ近く低い。肩幅も細い。なのに白衣だけがやけに大きく、袖は手の甲をほとんど隠していた。白衣の裾は膝のあたりまで落ちていて、本人というより白衣が歩いているように見える。
髪は切りっぱなしのボブで、少し乱れていた。目の下にはいつも通り隈がある。顔立ちは童顔寄りで、黙っていれば危なっかしい院生か、理科室に迷い込んだ中学生にも見えなくはない。
「来てくれた」
「来たくなかったよ。嬉しそうにするな」
イミはうなずいて、僕を中へ入れた。
研究室の中は、前に来た時より少しだけ片づいていた。
つまり、床に散らばった紙束が壁際に寄せられ、机の上のビーカーが一列に並び、よくわからない機械のケーブルが人の足に引っかからない程度にまとめられている、という意味だ。
消毒液の匂いがした。
その奥に、ブルーシートがあった。
僕は足を止めた。
ブルーシートは、床の中央に敷かれていた。中央が少しだけ盛り上がっている。狂言とかドッキリとか、死体は死体でも実験に使ったマウスの死体だったとか、そうであってほしいという期待が、ゼロに漸近していくのを感じた。
人の形をしている、とまでは言いたくない。でも、人の形だと理解できてしまう程度には、長く、重く、そこにあった。
「……誰なの」
殺し? 事故?
どっちもありそうで嫌だ。羽黒イミだし。
そんなわけで、二番目にしたくない質問の形に唇が動いた。
「見た方が早いと思う」
……知ってる顔なのかよ!
「見たくないものランキング、今すごい勢いで一位に躍り出たんだけど」
「でも、見ないと納得しないでしょう」
「見ても納得しない気がするな」
僕はブルーシートの端をつまんだ。めくった。
僕の顔だった。
「は?」
目は閉じていた。唇は少し開いていて、肌は不自然に白い。髪の長さも、頬の形も、眉の薄さも、僕と同じだった。僕より少し痩せてはいたかもしれない。
僕がいた。死んだ僕が、床に寝かされていた。
「な」
僕は立ち上がりかけて、膝が笑って失敗した。
「何これ」
「あなた」
「僕はここにいる。この世に一輪だけの花」
「そうね」
「じゃあこれは何」
「あなた(2)」
「スプレッドシートで管理してる?」
口が勝手に動いた。
脳が理解する前に、ツッコミだけが先に出た。人間、限界を超えると自我より先に習慣が喋るらしい。
僕はもう一度、死体を見た。言い逃れしようもなく僕だ。
いや、違う。待て。落ち着け。
これは作り物かもしれない。精巧な人形かもしれない。特殊メイクかもしれない。ドッキリかもしれない。僕が何かを吸わされたか、飲まされたかして、幻覚を見ているのかもしれない。
僕は自分の頬をつねった。痛い。
次に、死体の頬を見た。つねる勇気はなかった。
「これ、偽物だよな」
「本物よ」
「偽物って言ってほしかったんだけど」
「嘘はよくないわ」
「死体を用意しておいて倫理を局所的に発揮するな」
僕は息を吸った。
消毒液の匂いと、布の下にこもった、説明したくない匂い。
人形ではない。
僕の顔をした、人間の死体だ。他人の空似では済まない。化粧や整形でもない。双子でもない。僕にそんなものはいない。
「どうして僕の死体がある」
「作ったの」
しん、とした。
研究室の機械が、どこかで低く唸っていた。
僕はゆっくり彼女を見た。
「僕を?」
「うん」
「作った?」
「作りすぎちゃって。あなたを」
「おすそわけ感覚?」
「違うわ。最初は一人だけのつもりだったの」
「一人でもだいぶ駄目だろ」
「でも、あなたって難しくて」
「僕を料理みたいに言うな」
いや、ちょっと待て。今凄まじい情報が出てた。
「最初は一人だけって言った?」
「うん」
「じゃあ、今は?」
イミは少しだけ考えた。
「数え方によるわ」
「人間の数え方で答えろ」
「途中で止まったものを含める?」
「状況の最悪さを逐次投入で更新するな」
「見た方が早いと思う」
シャッ。
イミが近くに広がっていた蛇腹のパーテーションを操作して開いた。
すると、大量の僕がいた。
「ぎゃあ」
正確には、チープなSF映画に出てくるような大量の透明な円筒形の槽と、それに浮かんでいる僕がパーテーションの奥にいた。
もっと正確には、僕になりかけているものが。
「閉めて」
「でも数が知りたかったんでしょう?」
「閉めろって言ってるだろ!」
イミは瞬きをして、それから素直にパーテーションを閉めた。シャッ。
隠されたからといって、なくなったわけではない。
「たくさん作るなよ。せめて一つに済ませろよ」
異常なものを見せられすぎて妥協点が人倫の外に飛び出た。
「せめて三つは必要でしょう。保存用、布教用、観賞用」
「布教するな。いやそれ以外もするな。僕はフィギュアじゃないし限定品でも、いや限定品ではあるか」
「布教用は、あなたのよさを人に知ってもらうために」
「僕本人で足りてるだろ」
「あなた本人は、布教に向いてないもの」
「僕の人格を販促上の欠点みたいに言うな」
こいつは常に表情の変化が淡いので冗談なのか本気なのか僕ですら判別がつかない。大学時代に散々叱ったところ、ある程度は改善された。具体的には、僕の前以外では過激なことを言わないようになった。ステルス能力が上がっただけとも言う。
「それで、殺したの。事故なの」
ようやく、一番したくなかった質問に入れた。
「殺した、か。そうね。私が殺したようなものね……」
「“実はどうしようもない事情があって死なせてしまっただけで情状酌量の余地大いにあり”みたいな言い方してるけど、クローン作ってる時点で通らないよ」
「事故よ。より正確に言えば失敗」
「人の死因に使う言葉じゃない」
イミは白衣の袖を握ったまま、視線をブルーシートへ落とした。
「この子は、顔と記憶の定着はかなり安定していた。でも、循環器が弱かった。三日目までは話せたわ。四日目から熱が出て、五日目に意識が混濁して、六日目の朝に呼吸が止まった」
僕もブルーシートの方を見た。僕の顔をした死体。
顔と記憶の定着は安定していた、などと評された誰か。
「……話せた?」
悪寒のギアが一段階上がるのを感じた。
「あなたと同じようなこと」
ここで叫んで止めるべきだった。
「怒ったり、呆れたり、私の白衣の袖が長いって言ったり。それから、パスタを食べたいって」
レンジの中に置いてきた冷凍パスタのことを思い出した。何も食べずに来てよかったと思う。
「というわけで、山に行って、ちゃんと埋めたいの」
「ちゃんとの定義って?」
僕は頭を抱えた。情報量が多すぎる。
死体。僕の死体。友人が作った。少しの間生きて喋っていた。山に埋めたい。
普通の人生なら、一生に一つあるかないかの異常事態が、数珠つなぎで首に巻かれている。
地震と怪獣と貧乏神と台風に立て続けに襲われたような気分だ。
「ていうか、まず作るなよ」
「好きな人を作るのって、おかしい?」
「最悪の愛の告白するな。おかしいよ」
頭が痛い。逃げたい。逃げられない。
「警察に行こう」
「だめ、あなたの死体を見られる」
「僕も嫌だけど、嫌で済んだら法律はいらない」
死体遺棄。
殺人。いや、殺人なのか。傷害致死か。保護責任者遺棄致死か。証拠隠滅。監禁。人体実験。クローン規制。たぶん他にもいろいろ。
法律の方が多すぎて、どれから怒ればいいのかわからない。
「あなたが捕まるかもしれない」
「捕まるのはおまえだよ」
「生きている方のあなたも」
「僕が?」
「あなたもまとめて違法なクローンとして処分されるかも」
「いや、僕はクローンじゃ──」
言いかけて、凍りつく。ここからさらに最悪になるなんてことあるか?
「……僕は、オリジナルだよね?」
イミは黙った。
その沈黙は、今夜聞いたどの言葉よりも重かった。
「イミ」
「……山に行きましょう」
「答えろ」
イミは白衣の袖を握ったまま、僕を見上げた。
小さくて、眠そうで、泣きそうではなく、でもどこか覚悟した顔をしていた。
「あなたは、長持ちしているわ」
僕は笑った。笑うしかなかった。
*
イミは部屋の隅から折りたたみ式の台車を持ってきた。
小柄な身体で、がたがたと音を立てながら引っ張ってくる。白衣の裾が床をかすめ、袖が車輪に巻き込まれそうになる。
「袖。巻き込む」
僕は彼女の袖を少しまくった。細い手首が出た。冷えていた。
イミは僕を見上げる。
「ありがとう。助かったわ」
「おまえはそういうところが危なっかしいんだよ」
「心配してくれるの?」
イミは少しだけ笑って、僕は視線を逸らした。
二人でブルーシートの端を持った。
当然、死体は重かった。
「せーの」
イミの合図で、台車に乗せる。
死体の腕が、シートの中でずれた。
呼吸が乱れる。
「大丈夫? 気分が悪そう」
「自分の死体を台車に乗せて気分がいいやつがいたら、そいつを研究したほうがいいな」
「あなたも研究対象としてはかなり貴重よ」
「励ましがほしかったわけじゃない」
死体をシートで包み直し、ロープで固定する。
イミの手際が、いやに実務的だった。
「初めてじゃないんだろ。これ。ずっと一人で?」
「うん」
「馬鹿」
イミは手を止めた。
「馬鹿で済む?」
「済まない」
僕はロープを結びながらため息を吐いた。
「好きな人間を何度も作って、何度も死なせて、何度も一人で埋めに行くな」
「それ、もっと早く自分を頼れ、って言ってる?」
「そういう意味じゃない」
「今も、通報せずに、手伝ってくれてる」
「自分の存在を人質に取られたらそうなるよ」
「でもそれを知る前から、ここに来てくれた」
「せめて、話を訊く必要はあると思ったからね」
「あなたって昔から、そうやって逃げるのが得意」
死体を梱包する手が止まった。
「優しいふりをして、好きなことから逃げる。正しいふりをして、私を見捨てない理由を探す。怒ったふりをして、まだ隣にいようとする」
「……」
「今もそう。嬉しいでしょう。私に頼られて」
指先に血が通わなくなった。
この場に膝をついて、うなだれたくなった。
「オリジナルは」
その代わりに大きく息を吐いた。
「オリジナルの僕は、どうなった」
イミが息を吸いこむ音が聞こえた。
「死んだわ」
まあ、そうだろうな。
「いつ」
「一年前。事故で」
「僕はいつからいる」
「半年前から」
何も心当たりがなかった。
僕の記憶は、一年前より前にも続いている。学生時代も、イミと出会ったことも、彼女の研究室に入り浸っていたことも覚えている。
だけど、それは本当に僕の記憶なのか。
ただ移された記録なのか。
「つまりさ」
くらくらする。ずっと悪夢の中にいるような心地だ。
「好きだったから、僕がいなくなるのが嫌だったんだろ」
「うん」
「僕も好きだったから、おまえにこんなことしてほしくなかった」
イミの瞳が揺れた。
白衣の袖を握って、ただ、僕を見ていた。
「じゃあ、どうすればよかったの」
「そこで終わりにすればよかったんだよ」
僕は自分の胸を叩いた。
「死んだ人間の代わりを作ろうとするな」
「代わりじゃない。代わりにしたかったわけじゃない」
「じゃあ何だよ」
「続きにしたかったの」
僕は黙った。
「あなたの続きが見られないのが、嫌だった」
「……人を連載作品みたいに言うな」
「ごめんなさい。次回作にもご期待できなくて」
「でも、言いたいことはわかった」
わかったから、どうだと言うのだ。
*
搬入口のシャッターは、思ったより簡単に開いた。
夜の空気が入ってくる。
少し湿っていて、冷たかった。
イミの車は、ビルの裏に停まっていた。小さな軽ワゴンだった。後部座席が倒され、ブルーシートとスコップと黒い袋が積まれている。
「準備がよすぎる」
「急に頼むのは悪いと思って」
「その気遣い、人倫方面に発揮してほしかった」
二人で死体を車に乗せた。
重い。
無言になる。
死体を積む作業に、気の利いた会話はない。
途中で落としかけて、梱包が甘かったらしく、ちょっとずれて顔が見えるアクシデントもあった。最悪。
それにしても、我ながら地味な顔だ。
不細工とまでは言わないが、イミの隣に並ぶとオーラの差で負ける。
隣に並ぶどころか培養槽がずらっと並んでる。最最悪悪。
「こんな冴えない奴、何人も作るなよ……」
僕がつぶやくと、イミは前を向いたまま言った。
「じゃあ、美少女とかにしたらよかった?」
「それありなの!?」
つい食いついてしまって自己嫌悪した。
「ある程度は」
「人の肉体をアバターにするな」
「どっちかっていうと、形のいいきゅうりを作るのに似てるかも」
「農作物にもするな」
「あ、美少年にすることもできたわよ」
「禁忌を同時に何個踏み越えられるかの競技やってる?」
「大事なのは、見た目じゃなくて中身よ」
「身体の複製作ってるやつが言う台詞かよ」
「私は、あなたならわかるわ。あなたが私を叱ってくれるなら、それはあなたよ」
「このセリフだけ抜き出せば、すごく純粋なヒロインっぽいのに」
「純粋なつもりだけど? あなたを思う心は」
「純粋な酸素って毒だったな、そういえば」
「それにしてもアバターとは言いえて妙ね。お砂糖、する?」
「必要なのは盛り塩だろ」
お砂糖、というのは、仮想空間で知り合った相手と恋愛関係になることを指すスラングだ。死体を積んだ軽ワゴンの横で使う言葉ではない。
「そして、私はいわばママ……」
「アバターモデルの制作者もマッドサイエンティストと同じにはされたくないだろ」
イミは車の後部ドアをばたん、と音を立てて閉めた。
その中に、僕の死体がある。これから山に埋められる僕が。
僕は立ち上がり、助手席のドアを開けた。
「もうキャパが限界だから、たとえば僕の製造工程の話を急に始めたりしないように」
「じゃあ、何の話をすればいい?」
「天気とか」
「今夜は湿度が高いから、埋葬には少し不向きね」
「どこからでも死体の話に接続するじゃん」
イミは笑った。
僕も、少しだけ笑ってしまった。
最悪だった。
好きな女と深夜のドライブ。
荷台には、自分の死体。
これでときめく心臓があるなら、僕はやはりどこか作り損ないなのかもしれない。
イミが運転席に座り、エンジンをかけた。
車がゆっくり走り出す。
僕は窓の外、静かな夜の街を見た。
ガラスに、僕の顔が映っている。
その後ろに、イミの横顔が映っている。
そしてさらに後ろ、荷台の暗がりに、ブルーシートの輪郭が見えた。
僕が二人いる。
死んだ僕。まだ生きている僕。
車は街を抜けていく。
コンビニの明かりが遠ざかり、住宅街が途切れ、道の両側に黒い木々が増えていく。
僕は助手席で、膝の上に手を置いた。
自分の手だ。
たぶん。
半年しか使っていない手。
誰かの記憶を持たされ、誰かの形に作られ、誰かの続きを生きている手。
「イミ」
「何?」
「僕は、どれくらい生きる」
イミはしばらく何も言わなかった。
ワイパーが一度だけ動いた。雨は降っていない。フロントガラスについた夜露を払っただけだ。
「早い子は、数日。長い子で、一ヶ月くらい」
イミはハンドルを握る指に力を込めた。
運転席にいる姿、似合わないな。
「半年の僕は長持ちってわけか。最上級?」
「うん、でも」
「そこから先は、言わなくていい」
僕は窓の外を見た。暗い山道が近づいている。
「僕、死ぬのか」
さすがに、この先ずっと普通に生きていられる、なんて都合のいいことを考えられはしなかった。
すでに僕がいるのに、なぜさらにクローンを作ろうとしているのか、これまで出てきた情報を組み合わせれば簡単に推察がつく。
「いいえ。とっくに死んでた。私が先延ばししただけ」
イミは前を向いたまま言った。
僕は笑おうとして、失敗した。
「わかってるなら、受け入れたらどうだ」
「仙厓和尚のエピソード、知ってる?」
「高僧が死にとうない、って言ったやつか」
当時にしては長く生きた、しかも僧が、それでも今際の際に生への執着を捨てきれなかった。それを最初に知った時、恐ろしい、と思った。高僧ですらそうなら、自分たちだって、死に際にはそう感じてしまうのだろう。
「死に抵抗するって、悪いことかしら」
「人の生を勝手に延長するなって言ってんの」
「あなたはどう?」
「……何が」
「延長したいとは思わない?」
適切な答えを探すために少し時間を費やした。
「延命って言うならさ、子供を残すのも、そうなんじゃないか」
そして、うまく見つけられなかったので話題をそらした。
「子供?」
「自分の遺伝子とか、考え方とか、癖とか、そういうものを世界に残す。自分が死んでも、何かが続くようにする。広い意味では、あれも自分の延長だろ」
「ミームの保存ね」
「人間はみんな、少しずつ自分を延長したがってる。子供だったり、作品だったり、誰かの記憶だったり」
「なら、私はそんなに変?」
「変だよ。子供と本人は違うから」
「そうね。私はあなたがよかったもの」
噛み合ってるようでまったく噛み合ってない会話だなと思った。
「まあ、僕ら二人の間には、子供を作れないわけだけど」
「為せば成るわよ。理論上は可能」
「為すな」
車は山道に入った。
ヘッドライトが、濡れたアスファルトと、左右の木々を白く照らす。
「死んだら、どこに行くのかしらね」
イミがぽつりと言った。
今が哲学的な状況すぎるから、哲学的な問いも出るというものか。助手席に僕、荷台に僕、運転席に僕を作った女。この状況にソクラテスの問答法はどこまで通用するのか。
「なんもない無なんじゃない?」
「それって、さみしくないかしら」
「科学者らしくもない回答だね」
「むしろロマンチストなのよ、科学者って」
イミは前を向いたまま言った。
「だから大真面目に、宇宙の果てや死後の世界を探求しようとするの」
未来では、死後の世界も科学的に解明されるのだろうか。そこまで僕は生きていなさそうだが。
「あなたは、死んだらどうなってほしい?」
イミが質問を微妙に変えたので、僕は少し真面目に考えた。
今まで、死はだいたい他人事で、葬式は面倒で、墓参りは暑くて、幽霊はいたら怖いからいなくていいと思っていた。今は自分の死が後ろの荷台で揺れている。形を成した問いかけそのものだ。
「輪廻転生、かな」
口にしてから、自分でも少し意外だった。
「どうして?」
「なんとなく。さっきの子供の話じゃないけど、完全に無になるよりは、どこかに続いてほしいっていうか……そうしたら」
僕は窓の外を見た。木々の影が、顔の上を流れていく。
「来世で、君に会えたりするかもしれないし」
言ってから、恥ずかしくなった。
でも、今言えそうなことは全部言っておきたかった。
何も言えなくなってしまった僕が今まさに荷台に転がってるから。
「来世でも、私に会いたいのね」
「言質取ったぞ、みたいな言い方しなかった? 今」
さすがにこのオーバーテクノロジー女でも来世を操ることはできないはずだ。そう思いたい。
車は山の奥へ進んで、舗装の途切れた道の手前で止まった。
街外れの、誰のものともわからない雑木林だった。夜の木々は黒く、枝の隙間から空が少しだけ見える。月は細く、頼りなかった。
イミがエンジンを切ると、途端に、車内が静かになった。
静かすぎて、後ろに積んだブルーシートの存在が大きくなる。
イミと僕はシートベルトを外し、後部座席の方を見た。
ブルーシートに包まれた僕がいる。
少し前まで生きていたらしい僕が。
いつか僕もこうなる。
いや、たぶん、すでに何度もこうなっている。
オリジナルの僕が死んで、前の僕たちが死んで、今の僕がここにいる。
未来を見ているようで、そこには過去があった。
「降ろすわ」
「うん」
僕たちは車を降りた。
夜の空気は冷たかった。湿った土と、草と、遠くの水の匂いがした。僕はスコップを一本持った。イミは懐中電灯と、もう一本のスコップを持つ。
白衣の裾が暗がりで揺れた。
「白衣、脱げよ」
「どうして」
「山で死体を埋めるのに白衣は目立つし、裾が汚れるし、邪魔だろ」
「落ち着くの」
「こんな状況で白衣を精神安定剤にしようとするな」
いや、こんな状況だからか。僕はため息をついた。
イミは少し考えてから、白衣の前をぎゅっと合わせた。脱ぐ様子は見られない。
白衣は大きすぎて、袖も裾も、身体に合っていない。
それなのに、彼女には奇妙に似合っていた。
好奇心旺盛で、危なっかしくて、頼りなくて、思いついたことはなんでもやってしまう。やれてしまう。そんな彼女を象徴するコスチュームと言えた。
「それに、あなた、白衣を着ている私が好きでしょう」
そうですけど。
「少しでも、あなたが好きな私をあなたの網膜に焼き付けておきたくて」
「嬉しいはずなのに全然喜べない不思議な台詞だ」
なんでだろうな。実際に記憶を強制的に焼き付けられてるからかな。
スコップを土に突き立てる。
湿った土が、重い音を立てた。
墓穴を掘る、って慣用句を考えた人はこんな状況まで想定してないと思うが、今の僕以上にふさわしい状況もあるまい。
掘る。
掘る。
夜の山で、自分の死体を埋める穴を掘る。
これ以上悪い青春イベントがあるなら教えてほしい。いや、知りたくない。世の中には知らなくていいものが多すぎる。
本当のことを言うと、僕は電話を受けた最初少しだけときめいていた。好きな女の犯罪の片棒を担ぐというシチュエーションに。そのときめきの罰がこれなのかもしれない。重すぎる。
イミも隣で掘っていた。
彼女は体力がない。
すぐに息が上がる。
白衣の袖をまくっても、すぐに落ちてくる。スコップを握る手は小さく、土に負けそうだった。
「ところで気づいたんだけど、ここ、前にも掘った形跡あるね」
「……」
「え、他の僕もこの奥深くに埋まってるわけ」
「……」
「顔色が悪いな」
キレのあるふざけた返事がこないと逆に心配になるというのも困った話だ。
「僕ばかりにこだわるなよ」
スコップを土に突き立てながら、僕は言った。
「オリジナルの僕は死んだ。今の僕も、たぶん長くない。クローンを作り続けるにも無理があるだろ。他に目を向けろよ。人間なんて、僕以外にもいくらでもいるだろ」
イミのスコップが止まった。
「健全に生きろ。僕がいなくても、ちゃんと」
「健全に」
イミはその言葉を、初めて聞く外来語みたいに繰り返した。
「あなた、私がそれをできると思ってるの?」
「できるだろ」
「どうして?」
「どうしてって」
「あなた以外の人は、私の話を最後まで聞かなかったわ」
イミはスコップの柄を握ったまま、穴の底を見ていた。
「だから私は、あなたがいない世界でどうやって人間と話せばいいのか、よくわからない」
「僕を社会性の補助輪として使うな」
「使ってたのね」
「自覚しろよ」
「あなたもしてなかったでしょう?」
「どういう……」
「あなたは、私があなたとしか仲良くできなかったことを、ずっと見ないふりしてた」
イミの声は淡々としていた。
「……それは」
「あなたって、逃げるのが得意」
スコップを握る手に力が入った。
湿った土が、刃先にまとわりついている。
「僕が悪いって言いたいのか」
「いいえ。あなたが健全に生きろって言うのは、正しいわ。私にはそれができないだけ」
僕は何も言えないまま、また土を掘った。
さっきより、スコップが重かった。
この作業は何も楽にならない。
「本当はわかってるの」
イミが、白衣の袖で汗を拭いながら、ぽつぽつと口にし始める。
「わかってる。あなたが同じじゃないことも、死んだ人は戻らないことも、勝手に続きの命を作ってはいけないことも、全部わかってる」
「なら」
「でも、あの日、あなたは言ったの」
「何を」
「死にたくないって」
小さなうめき声のような音がした。僕の喉から。
「事故の後、少しだけ意識が戻った。ほんの少しだけ。病院で。私は隣にいた」
「……」
「あなたは、私の袖を掴んだ。白衣の袖。今みたいに、長すぎるって笑ってた袖」
イミは自分の袖を握った。
「それで言ったの。死にたくないって」
仙厓和尚のエピソードを引用するまでもなかった。
すでに答え合わせが、済んでいた。
僕は、今際の際になったら、死にたくない、と言ってしまうのだ。
指から力が抜けて、スコップを取り落としそうになる。
「違うだろ」
「……」
「死にたくないって言った人間を、勝手に別の身体で続けるなよ」
イミは答えなかった。
間違ったことを言っているつもりはなかった。
「その時の僕が死にたくなかったことと、今の僕が作られていいことは、別だ」
でも、これが正しいのだと自分に言い聞かせる声でもあった。
「僕が今、死にたくないと思うことと、おまえが次の僕を作っていいことも、別だ」
イミの顔が、くしゃりと歪んだ。
「あなたは、死にたくないのね」
息を吸うと、墓のように冷たい空気が肺を満たすのを感じる。
「死にたくないよ」
うなだれた。
「死にたくない。ずっと君のそばにいたいよ。でも、駄目なんだよ。僕が好きなら、やめてくれ」
そして、そう、吐き出すように言った。
多分この台詞は、オリジナルの僕だったときに言うべきだったんだろうな。
「うん、わかった」
イミは小さく頷いた。その体が、普段よりも余計に小さく見えた。
「もう、こんなことはしない」
穴にブルーシートを降ろす時、顔はもう見えなかった。
湿った土をかけると、ブルーシートの上で鈍い音を立てた。
自分の過去を埋めているのか、未来を埋めているのか、もうわからなかった。
*
帰りの車内で、イミと僕はほとんど喋らなかった。
街に戻る頃には、空が少し白み始めていた。
「結局、促成栽培すると、どうしても寿命が短くなっちゃうのよね」
研究室で、装置に薬液を流し、培養途中のクローンを処分しながらイミは言った。
「だから人を農作物みたいに」
「ありがとう、止めてくれて。こんなの、間違ってるってわかってたけど、止められなかった」
「感動的な台詞だけど、前段があるから台無し」
僕は笑った。
笑う体力も、もうあまり残っていなかった。
急に身体が重くなって、手足の動きが鈍くなる。
ひどく眠い。
ただの眠気ではないことは直感的にわかった。
「横になって」
僕は研究室の奥の簡易ベッドに横になると、イミが毛布をかけた。
ひんやりとした白衣の袖が、僕の頬に触れた。
消毒液の匂い。白衣の匂い。夜明け前の冷えた空気。
「僕のこと、好きだった?」
自分でも、なぜ聞いたのかわからなかった。
イミは少しだけ黙って、それから言った。
「好きよ」
「……どの僕を? オリジナルを? 前の僕を?」
「どれも好き」
「節操がない」
「でも、みんな違ったから」
イミの声が揺れた。
「みんな、少しずつ違った。目の開け方も、怒り方も、好きなパスタソースも、私を見る時の沈黙も。だから、同じにはできなかった」
「……」
「でも、みんなあなたであってほしかった」
「重すぎる」
「うん」
「好きになる相手、間違えたな」
「私が?」
「僕が」
イミが息を止めた気配がした。
僕は目を閉じたまま、少し笑った。
「好きだよ」
言うと、少し楽になった。
「君のことがずっと好きだった」
今だって怖い。
死にたくない。離れたくない。消えたくない。
誰かを好きって口にすることは、死にたくないってことと同じなのかもしれない。
恋と死は、人を詩人にするらしい。
「……うん」
イミの手が、僕の手を握った。
慣れ親しんだ、小さくて冷たい手。
僕はそれを握り返そうとしたけど、うまく力が入らなかった。
視界が暗くなっていく。
眠る時とは違う。
落ちる、という感じに近かった。
怖い。
でも死にたくないとは言わずに、僕は、最後の力で、彼女の手を握った。
「おやすみ」
と、これで終われば美しかったんだろうけど。
次に目を覚ましたとき、僕は泣いていた。
いや、泣こうとしたわけではなかった。
勝手に泣いていた。
(いやなんで目が覚めてんだよ。終われよ。詩人になり損だろ)
僕はそうツッコミを入れたかったが、どうもそれどころではない。
肺が空気をうまく使えず、喉が勝手に震え、口から情けない声が漏れていた。視界はぼやけている。輪郭が溶けている。光が強い。天井が白い。何かが頬に触れている。
身体が思い通りに動かなかった。
動いてはいる。手足がばたついている。
指を曲げようとしても、意味のない開閉になる。首を動かそうとしても、頼りなく揺れるだけだ。身体の中心が、どこにあるのかわからない。
怖い。
何だこれ。
声を出そうとした。
イミ、と。
おい、と。
ふざけるな、と。
だが口から出たのは、泣き声だった。
「ああ」
声がした。
よく知っている声だった。
眠そうで、少し鼻にかかっていて、起きているのか寝言なのかわからない声。
「起きたのね」
視界の上に、顔が現れた。
羽黒イミだった。
目の下に隈があって、髪は少し乱れてて、ダボダボの白衣を着ている。その袖は相変わらず長い。
表情だけは、今まで見たことがないくらい穏やかだった。
彼女が僕を抱き上げた。
抱き上げられた。え? あの小柄で非力なイミの腕に? 軽々と?
おかしい。いや、おかしいことしかないが。
僕は見上げる。イミの顔が大きい。
天井が遠い。白衣の襟元が近い。
腕の中が温かい。
最悪の答えが脳内で弾き出されていた。
確かに、輪廻転生したいって言ったけど。
やめろって、状況の最悪さを逐次更新するのは!
おまえ。
おまえ。
お ま え ~~~!!!!!
「うあ」
叫ぼうとして出た声は、それだけだった。
イミは目を細めた。
「まだ喋るのは無理よ」
無理よ、じゃない。
僕は必死に手を伸ばそうとした。
だが、手は小さく、短く、力がない。白衣の胸元を叩いたつもりが、ただ袖をくしゃっと掴んだだけだった。
イミはそれを見て、少し笑った。
「袖、好きね」
違う。長すぎるんだよ。直せよ。
イミは僕を抱いたまま、椅子に座った。
部屋は白かったが、研究室ではなかった。
清潔で、静かで、窓には柔らかいカーテンがかかっている。棚には小さな服と、哺乳瓶と、タオルと、見慣れない育児用品が整然と並んでいた。
イミの部屋にしては、異様なほど整っていた。
「促成栽培はやめたの。手間暇はかかるけど、そのほうがずっと長生きするはずだから」
僕は嵐のごとく暴れ回ってこの部屋のすべてを破壊し尽くした。
実際には、赤ん坊がむずがっているだけだった。
イミは慌てず、僕を抱き直した。
その腕の中が安定しているのが、余計に腹立たしかった。
「ふふ。ママって呼んでいいのよ」
うるせえバーカ!
【おわり】




