音が消えたあと
最初にそれが来たのは、音が消えた瞬間だった。
イヤホンのコードがポケットの中で引っかかって、ほんの一瞬だけ、音楽が途切れた。
それだけのことだったはずなのに、世界のほうが先に止まった。
歩いていた人が、足を浮かせたまま静止している。自転車の車輪も、回転の途中で固まっている。風に揺れていたはずのビニール袋が、空中に貼りついたみたいに動かない。何かの見間違いだと思った。
そう思おうとした瞬間、遅れて、音が戻ってきた。ざわざわとした街の音。タイヤの擦れる音。誰かの笑い声。全部が、何事もなかったみたいに続いていた。俺はその場に立ち尽くした。
今のは、ただの——。
そこで言葉が途切れた。ただの、なんだ。発作。そう言えばいいのに、口の中でうまく形にならなかった。昔から、似たようなことはあった。急に、世界から置いていかれるみたいな感覚。広大な宇宙の中で、ひとりだけ取り残されるような、あの感じ。でも、それはいつも“感覚”だけだった。現実が変わることはなかった。
——今までは。
信号が青に変わる。人の流れが動き出す。何もおかしくない。誰も気づいていない。それでも、さっきの光景が頭から離れなかった。
試すみたいに、もう一度イヤホンのプラグを抜く。音が、切れる。同時に。世界が、止まる。
音を流し続けていれば、ここには来ないのかもしれない。そう思った。
でも、それが答えじゃないことも、なぜか分かっていた。今度ははっきり見えた。目の前で歩いていた女の髪が、風に持ち上がったまま固定されている。横断歩道の白線の上で、靴底がわずかに浮いたままの男。誰かの手から滑り落ちかけているスマートフォンが、空中で止まっている。俺だけが動ける。喉の奥が乾いて、うまく息が吸えない。これは、発作じゃない。そう思った瞬間、急に怖くなった。発作じゃないなら、なんなんだ。
俺は恐る恐る、一歩だけ前に出た。靴の裏が、アスファルトに触れる音がやけに大きく響く。それ以外の音は、何もない。完全な無音だった。さっきまで確かにあったはずの世界が、音ごと、どこかに持っていかれてしまったみたいだった。試しに、止まっている人の前で手を振ってみる。反応はない。当たり前だ。止まっているんだから。分かっているのに、背中に冷たいものが走る。
もし、このまま音楽を戻さなかったら。
もし、この状態が続いたままだったら。
——この世界は、どうなる。
いや。違う。どうなる、じゃない。俺は、その続きを知っている気がした。もっと前に。もっと昔に。似たような景色を、見たことがある。発作の中で。
あの、どうしようもなく息が詰まる瞬間に、最後に見えていた景色と、今、目の前にある光景が、どこかで重なっていた。思い出したくないのに、浮かんでくる。
あのとき、世界は——
再びイヤホンを付ける。同時に、全部が動き出す。風が吹く。誰かが笑う。信号の電子音が鳴る。何もなかったみたいに、世界が再開する。俺だけが、その中で取り残されたまま立っていた。これがもし、本当に発作じゃないとしたら。じゃあ、今まで俺が見ていた“あれ”は、なんだったんだ。
——あれは全部、予告だったんじゃないか。
そんな考えが、頭から離れなくなった。
家に帰るまでの記憶が、ほとんど残っていない。気づいたときには、部屋の床に座り込んでいた。靴も脱がないまま、壁に背中を預けている。イヤホンは、まだ耳に入ったままだった。音楽は流れている。さっきと同じ曲だ。再生時間を見て、少しだけ安心する。ちゃんと、時間は進んでいる。
——進んでいる、はずだ。
俺はゆっくりとイヤホンを外した。音が消える。反射的に、目を閉じた。怖かった。さっきと同じことが起きるのが、分かっていたから。数秒、何も起きない。おそるおそる目を開ける。部屋は、そのままだった。カーテンは揺れていない。時計の秒針も動いていない。世界は、ちゃんと止まっていた。さっきよりも静かだった。外の音が一切入ってこない分、余計に。自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
俺は立ち上がって、窓に近づいた。カーテンの隙間から外を見る。道路を走っていた車が、交差点の手前で止まっている。歩行者も、信号を待ったまま固まっている。遠くの看板の光も、点滅の途中で止まっていた。完全に、同じだ。外でも、同じことが起きている。俺はゆっくりと息を吐いた。試す。そう思った。怖いとかじゃなくて、確認したかった。
これは本当に、自分の中の問題なのか。それとも、外側で起きている現象なのか。テーブルの上にあったペンを手に取る。軽く放り投げる。ペンは、空中で止まらなかった。普通に落ちて、床に転がる。俺はその音を聞いて、少しだけ落ち着く。自分は、ちゃんと動いている物も、動く。止まっているのは、世界のほうだ。
——おかしいだろ。
口の中で、そう呟いた。そのまま、玄関に向かう。ドアノブに手をかける。一瞬、迷った。この状態で外に出るべきじゃない気がした。でも、もう止まらなかった。ドアを開ける。廊下も、同じだった。電気の明かりが、少しだけちらついたまま固定されている。隣の部屋のドアが、開きかけの角度で止まっている。静かすぎる。自分の足音だけが響く。一歩、一歩、ゆっくりと階段を下りる。外に出る。夜の空気は、冷たさだけを残して止まっていた。風がない。匂いも動かない。
世界が“固定されている”というより、“抜き取られている”感じがした。俺は道路の真ん中まで歩いていった。止まったままの車の前に立つ。運転席には、男が座っている。ハンドルに手をかけたまま、少しだけ前を見ている。その顔に、表情はない。
いや、正確には——変わる途中で止まっている。何かを見て、反応しかけた瞬間。その“途中”だけが切り取られている。背筋が寒くなった。この人たちは、死んでいるわけじゃない。ただ、“止まっている”だけだ。時間ごと。
そのとき、ふと、違和感に気づいた。この光景。どこかで見たことがある。もっと、暗い場所で。もっと、息が詰まるような状況で。
——思い出しかけて、やめた。
思い出したくなかった。でも、もう遅かった。頭の奥から、じわじわと浮かび上がってくる。昔の発作。あのとき、最後に見えていた景色。人がいなくなって、音が消えて、自分だけが取り残されるあの感覚。あれと、同じだ。違うのは、ひとつだけ。あのときは、“何もなかった”。ただ、空っぽだった。でも今は、違う。世界は、ある。ただ、動いていないだけだ。俺はその場で立ち尽くした。胸の奥がざわつく。もし、これが同じものだとしたら。あの発作の“続き”が、ここにあるとしたら。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。反射的に取り出す。画面には、通知が表示されていた。
——止まっていない。
いや、違う。通知は来ているのに、時間が進んでいない。表示されている時刻が、さっきから変わっていない。それなのに、通知だけが増えていく。意味が分からない。震える指で、メッセージを開く。差出人は、知らない番号だった。本文は、一行だけ。
『もうすぐだね』
心臓が、強く跳ねた。意味が分からない。でも、分かる気がした。
“もうすぐ”。何が。その答えを、俺は知っている。いや、知ってしまっている。あの発作の中で、何度も見た。最後に、必ず辿り着く景色。思い出すな。そう思った。思い出したら、終わる気がした。でも、止められない。視界の奥で、何かが重なっていく。今の世界と、記憶の中の光景が、少しずつ一致していく。位置が、合っていく。空気の重さが、似てくる。音のなさが、同じになる。
——違う。
これから、同じになるんだ。そう気づいた瞬間、全身の力が抜けた。まだ起きていない。でも、起きる。この先で。もう一度、スマホが震える。新しいメッセージ。
『見たことあるでしょ』
俺は、画面から目を離せなかった。誰だ。誰が送ってきている。問いかけても、返事はない。代わりに、次の通知が表示される。
『あれが最後だよ』
呼吸が浅くなる。視界が揺れる。でも、倒れない。これは、発作じゃない。はっきり分かる。これは、もっと現実だ。現実のほうが、こっちに寄ってきている。俺はゆっくりと顔を上げた。止まったままの世界。
でも、その奥で。ほんのわずかに、何かが動いた気がした。気のせいじゃない。確かに、動いた。俺以外で。止まっているはずの中で。その方向を、ゆっくりと見る。
遠く。交差点の向こう側。誰かが、立っている。こっちを見ている。そして、わずかに。笑った。
交差点の向こうに立っていたそれは、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。周囲は止まったままなのに、そいつだけが自然に動いている。足音はしない。無音の中で、ただ距離だけが縮まっていく。
男だった。年齢は、自分と同じくらいに見える。目が合う。そいつは、少しだけ口元を緩めた。
「その顔、もう途中まで来てるな」
声が聞こえた瞬間、喉の奥がひきつった。
音が、ある。完全な無音のはずの中で、そいつの声だけが届く。
「……誰だよ」
自分の声は、かすれていた。
「こっち側の人間だよ」
軽く言って、男は立ち止まる。
「お前も、もう来てる」
「これ、何なんだよ」
周囲を指す。止まった車。固まった人間。音のない夜。
「見たまんまだろ、止まってる」
「そうじゃなくて」
苛立ちが混じる。
「なんで俺だけ動ける」
男は少し考えるように視線を落としてから、言った。
「動けてるんじゃない。まだ、終わってないだけだ」
「終わるって……何が」
「時間」
短く、そう答える。心臓が一度、大きく跳ねた。
「お前、発作があるだろ」
図星だった。言い返せない。
「あれ、途中まで来てたんだろ」
男は足元を軽く指で叩く。
「途中までな」
頭の奥で、何かが引っかかる。嫌な形で、記憶が浮かび上がりそうになる。
「……あれは、ただの」
発作、と言いかけて、止まる。違う。もう、それで片付けられない。
「ただの、じゃないよ」
男が言った。
「先に触れてただけだ」
息が止まる。
「何を」
「終わり」
簡単に言う。あまりにも、簡単に。
「音があるうちは、まだ普通だ」
男は続ける。
「音が消えると、こっちに近づく」
周囲を見渡す。
「完全に消えたら、」
そして、少しだけ間を置いてから、
「戻らなくなる」
と付け足した。背中に冷たいものが走る。
スマホが震えた。反射的に取り出す。画面には、またあの番号。
『すぐそこだよ』
息が浅くなる。
「なあ」
男がスマホを覗き込む。
「それ、来てるんだろ」
「……知ってんのか」
「俺も来てた」
あっさりと言う。
「同じだよ。内容も」
じゃあ、これは——
「誰が送ってる」
「さあな」
男は肩をすくめる。
「でもまあ、俺らみたいなやつにしか来ない」
「これ、止められないのか」
思わず聞いていた。男は少しだけ考えて、
「無理だ」
「もう始まってる」
その一言で、全部が確定した気がした。逃げ場がない。どこに行っても、同じ場所に繋がっている。
「じゃあ、どうすればいい」
声が震える。男は、ほんの少しだけ真面目な顔になった。
「選ぶしかない」
「何を」
「どこまで行くか」
理解が、遅れてやってくる。
「最後まで行けば、完全に止まる」
「途中で止まれば?」
「こうなる」
男は自分を指さした。
「動ける。でも、完全じゃない」
「戻るって選択は?」
聞いてみる。男は、少しだけ笑った。
「戻れてるなら、今ここにいないだろ」
言葉を失う。その通りだった。スマホが、また震える。
『思い出して』
画面に表示される。頭の奥がざわつく。思い出したくない記憶が、無理やり引きずり出される。あの発作。一番、強かったやつ。夜だった。部屋の中で、ひとりだった。
急に、音が遠くなって。呼吸が浅くなって。世界が、薄くなっていく感じ。そのとき、最後に見えた景色。
——誰もいない。
——音がない。
——自分だけが、取り残されている。
今と、同じだ。違うのは。あのときは、そこで終わった。でも今は、その“先”がある。続いている。
あのとき、見ていたのは——
ここじゃない。この先だ。その理解が、遅れて身体に落ちてくる。膝が少しだけ震えた。
「思い出したか」
男が言う。頷けない。でも、否定もできない。
「じゃあ分かるだろ」
男は静かに言った。
「もう決まってる」
何が。と言いかけて、やめる。分かっている。決まっているのは、未来だ。自分が行き着く場所。避けられない終わり。
それでも。
「……選べるって言っただろ」
絞り出すように言う。男は頷く。
「行き方はな」
ポケットの中で、イヤホンのコードに触れる。これを戻せば、音が戻る。世界はまた動く。
でも。それは、ただの延長だ。終わりが少し先に伸びるだけで、消えるわけじゃない。どこにいても、同じ場所に繋がっている。
ここで、止まる理由は、ない。
「……どうやって行く」
男に聞く。男は、少しだけ目を細めた。
「簡単だ」
そして、耳を指さす。
「止めればいい」
分かりきった答えだった。でも、その重さが違う。
ポケットの中で、イヤホンのコードを指でなぞる。音が戻れば、世界はまた動き出す。
それも分かっていた。ただ、すぐには動かない気がした。ほんの一瞬だけ、ズレる。その一瞬で、何かが起きるかもしれなかった。
それでも、手を止めなかった。
完全な無音が戻る。世界は、すでに止まっている。ここから、さらに進むだけだ。怖くないわけじゃない。むしろ、ずっと怖い。でも、それ以上に。納得していた。
これが自分の見ていたものなら、これは自分の続きだ。誰かに押し付けられた終わりじゃない。最初から、自分の中にあったものだ。
「行くのか」
男が聞く。頷く。
「そうか」
それだけ言って、男は少しだけ後ろに下がった。道を空けるみたいに。俺は一歩、前に出る。空気が、さらに薄くなる。
音は、もう完全にない。戻る、という選択肢だけが、きれいに消えていた。身体の輪郭が、曖昧になる。足の感覚が、少しずつ消えていく。ここが、最後だ。
もう動けないはずなのに、意識だけが残っていた。
ポケットの中で、わずかに振動があった。
意識を向けると、暗かったはずの画面が、ひとりでに灯る。メッセージの画面が開いている。宛先は空欄で、本文もない。何もしていないはずなのに。文字が、ゆっくりと浮かび上がる。見覚えのある言葉だった。どこで見たのかは思い出せない。でも、確かに知っている。
それは、自分に届いたものと、同じだった。これを送れば、どこかの誰かに届く。同じものを見る誰かに。同じ場所まで来る誰かに。そうなることだけが、はっきりと分かっていた。
一瞬だけ、止まる。迷いなのかどうかも分からない。その感覚だけが、かすかに残る。
次の瞬間。
送信された。
その瞬間。
すべてが、完全に止まった。
【終わり】




