第8話 夢の祝詞
光の球が爆ぜるように、蛍の群れが飛び立つ。澄んだ水が揺れ、きめ細かい泥が足を捕らえる。
ふわりと吹いた風に煽られる髪を押さえながら、サツキはまばたいた。
「――ここは」
十日前に見た夢の場所ではないか。
草がそよぎ蛍が舞う湿地、頭上には紺色の夜空。自分は眠りについたときのままの白い小袖姿。
すべてがあのときと同じ。ならば、また彼に会えるのではないだろうか。
そう思ったとき、背後から優しい声がした。
「ほら。また会えた」
「火垂!」
ぱっと笑顔を浮かべてサツキは振り返る。薄白い袍と袴に身を包んだ青年が微笑んでいた。
サツキが小袖の裾をからげて駆け寄ると、火垂は軽く首を傾げて目を細めた。
「よい顔をしているね。何かあった?」
「ううん、何も……また会えたのが嬉しくて」
自分で言っておいて、率直すぎる言葉に少し照れる。つい目を逸らすと、くす、と小さな笑い声が聞こえた。
「それだけじゃない。何か大きなことがあったね。聞かせてほしいな」
言われて思い出す。そういえば火垂に夢で会ってから、大きな変化があったではないか。
サツキは両の手を合わせて火垂の顔を見上げた。
「ええとね……舞の練習を始めたの。おかげで最近は毎日、張り合いがあって」
すると火垂はとても嬉しそうに目を細めた。
「舞か、いいね。ひとつ見せてくれないか」
「えっ? でも、まだまだ練習が足りないし、恥ずかしいよ」
「いいんだ。君が舞うのを見たい」
ね、と言い聞かせるように顔を覗き込まれる。とく、と心臓が鳴った。
思わず目を逸らし、明滅する虫たちを追う。それから視線を戻すと、火垂はまだ微笑んでこちらを見ていた。
「……分かった。だめなところとか、何か気づいたら教えてね」
サツキが言うと、火垂は頷く。手を引かれ、以前に二人で座った大岩へと導かれた。大岩の上は平らで、今見ればちょっとした舞台のようになっている。
火垂がサツキの腰を支えて持ち上げ、岩の舞台に立たせた。さらに泥で汚れた足を袍の袖で拭いてくれる。サツキが恐縮してもお構いなしで、涼しい顔をしていた。
彼は数歩、泥の中を下がり、サツキを見上げた。
「さあ、舞っておくれ」
「……うん」
サツキは小さく頷いた。なるべく手先をきれいに伸ばし、犬たちに教わったとおりに舞い始めた。
奉納の鈴はないが、あるつもりで掲げ、膝を折って一礼する。そして立ち上がり、下向きに弧を描くように手を動かした。
そのとき金色の灯りが、ふい、と手元に寄ってきた。ひとつ、ふたつ、みっつ、あっという間に数が増える。棒に飾られたいくつもの鈴のように、蛍がサツキに集い、舞を彩る。
驚いたが、嫌な感じがしたわけではなかった。そのまま止まらずに、集う光の中を舞い続けた。
最後にもう一度、礼をする。その瞬間、きらめく虫たちはぱっと飛び去っていった。
「――天女のようだ」
こちらを見るまなざしに、どきりと心臓が跳ねた。
懐かしいものを見るようなのは――ひどく愛おしげに見えるのは、気のせいだろうか。
頬が染まるのを見せないよう、サツキはわざと視線を逸らした。
「……ありがとう。でも、天女なんかじゃないから」
「天女だよ。私の天女」
言いながら火垂は歩み寄り、岩に腰を下ろして微笑む。
サツキはますます顔が熱くなるのを感じた。
「えっと……その、巫女修行、頑張ろうと思って。私は道具じゃないって、火垂は前に言ってくれたでしょ。そのことをちゃんと行動で証明したいの」
照れをごまかすように言葉を並び立てる。火垂は優しい目でその様子を見ていたが、やがて口元を小さく持ち上げた。
「じゃあ、そんなサツキに特別な祝詞を教えてあげよう」
「新しい祝詞? 教えて!」
話題が自分への褒めから外れたことにほっとしつつ、サツキは勢い込んで応える。
すれば火垂はしばらく遠くを見つめ、それから静かに口を開いた。
「――かけまくも畏き伊邪那美命、燎原が涯てにおわす黄泉津大神、聞こし召せ、諸々の怨み、穢れをば、恐み恐み祓え清め申す」
不思議な声色だった。
今までのただ優しいだけの火垂とはどこか違うものが秘められているような。
けれど、その違和感はすぐにどこかへ飛んでいく。一度聞いただけでは祝詞を覚えられなかったからだ。
「かけまくも畏き……、え? えっと?」
聞き慣れない名前にサツキは目をしばたたいた。火垂はゆっくりと同じ祝詞を繰り返してくれた。
穏やかな声を追いかけて何度も復唱する。そうしているうちに、何とか記憶に刻み込むことができた。
ふと火垂が顔を上げた。
「……ああ、もう朝か」
サツキもその視線を追う。遠くの地平線に紫と朱の色が混ざり合っているのが見えた。黄泉の国に朝は来ないのだが、この夢の空間はそういうわけではないらしい。
「また会える?」
サツキが尋ねると、火垂は目を細めた。
「きっとね」
数え切れない蛍がやわらかな風に踊った。
***
「嬬巫女様!」
「おはようございまする!」
「……おはよう」
犬たちの声がする。白い手たちが灯台に火を入れていく。
サツキはゆっくりと褥から起き上がった。火垂に教わった祝詞がまだ頭の中で響いている。
「かけまくもかしこき、いざなみのみこと……」
思わずぽつりと呟く。とたん、その場の全員が動きを止めた。
「……嬬巫女様?」
「どこでそれを?」
こちらを見つめる犬たちの瞳が揺れている。白い手たちはただ凍りついている。
何かまずかっただろうか。サツキは狼狽して口走った。
「う……ううん、夢に出てきて、つい」
しん、と周囲が静まり返る。ややあって黒輔が溜め息をついた。
「そうでございましたか」
白丸がサツキに歩み寄り、手の甲に鼻先で軽く触れた。
「なぜ夢に出てきたのかは分かりかねますが、あまり口にされぬ方がよろしいかもしれませぬ。――呼び寄せかねませぬから」
「……う、うん」
何を『呼び寄せる』のだろうか。全く分からない。
だが、あえて尋ねる勇気は湧いてこなかった。




