第7話 巫女修行
目覚めたときに見えたのは、自室の天井だった。
褥から起き上がって自分の手の甲を見る。温かな涙がぱたりと落ちた。
――君は道具ではないよ。
火垂の声が耳の奥に響く。ただの夢だとは思えなかった。
あのひとが何者なのかは分からない。なぜ自分によくしてくれたのかも分からない。
でも、自分を想う人は夢に出てくれるものだと聞いたことがある。彼の優しさに嘘はないのに違いなかった。
昨日までは失せかけていた気力が全身に溢れてくる。
頬や指の先がほかほかと熱くなってくるのを感じた。
「……よし!」
声に出して気合を入れ、衾〔注:上に掛ける寝具〕をはねのける。はねのけたあと、我に返って丁寧に畳んだ。
ともかく、今日から嬬巫女として新たに頑張ってゆくことにした。名実ともに道具として見られることがないように。
そう心に決めたサツキのところに白い手が現れる。巫女の衣に着替える時間だった。
***
朝の儀式を終えた黄泉神は、いつもどおり銀色の霧に撒かれて姿を消した。
それを見送ってから、サツキは足元の犬たちに視線を移した。
「ねえ黒輔、白丸。お願いがあるの」
犬たちは耳の根元をぴんと立たせ、姿勢を正した。
「はい、嬬巫女様!」
「何でございましょう?」
「あのね、巫女修行に付き合ってくれない?」
サツキが言うと、犬たちは揃ってきょとんと首を傾げた。
「巫女修行……?」
「……でございますか?」
「うん。いつもの祝詞を唱える以外にも、私にできることはあるはずだって思うの。ちゃんとやる気があります、ただぼんやり言われたことをしてるだけじゃありません! ってところ、黄泉神様に見せたくって」
両手を握り締めてサツキは訴える。犬たちは顔を見合わせた。
「なるほど……」
「左様でございますか」
「それならば思いつくこともございます」
「たとえば新たな祝詞を覚えていただくとか」
「それから歌舞音曲、梓弓の扱いも」
いろいろと出てくるものだ。サツキは改めて気力が湧いてくるのを感じた。
「お願い! それ全部、私に教えてちょうだい」
すると犬たちはもう一度顔を見合わせ、そして大きく尾を振った。
「かしこまりました、嬬巫女様」
「我らにできる限りのお手伝いをいたしまする!」
「……ありがとう!」
サツキが微笑むと、犬たちもまた嬉しそうな表情を浮かべた。
***
その日の午後(といっても外は夜のままだが)から、さっそく巫女修行が始まった。
サツキが暮らしているのは黄泉の宮の北の対である。その中の建具をいくつか動かし、広い空間を作った。灯台と灯篭の明かりの中、まずは舞の練習から始めることになった。
いくつもの鈴をまるで木の実のようにつけた棒を渡され、中央に立つ。部屋の端には白い手たちが鼓や琴を持って控えている。
心臓がとくとくと高鳴る。緊張も当然ながら感じている。けれど新しいことへの興奮がそれに勝っている。
黒輔と白丸が板間にちょこりと座った。
「では嬬巫女様、鈴を掲げて膝を折り、一礼を」
「こう?」
「そこから立ち上がり、下向きに弧を描くように鈴を一振り」
言われるままに次々と姿勢を変える。そのたびにしゃん、しゃんと涼しい鈴の音が鳴る。その音に耳を傾けていると、心がだんだんと凪いでいくような気がする。
何度か一連の動きを繰り返し、続いて手たちの爪弾く音楽に合わせて動いてみた。
初めての経験のはずだ。なのに不思議なほどしっくりとくる。自分は案外、舞に向いているのかもしれない。
「――お見事です、嬬巫女様!」
「さすがの腕前にござりまする!」
犬たちが尾をぶんぶんと振ってはしゃぐ。サツキは照れて笑みを浮かべた。
「えへへ……黒輔と白丸の教え方がうまいんだよ」
「いやいや」
「またまた」
犬たちも一緒になって照れる。白い手たちが控えめに拍手を送ってきた。
「舞を一通り覚えましたら、儀式で舞ってみてくださいませ」
「黄泉神様の神核との共鳴がいっそう高まるはずでする」
「分かった、頑張るね。もう一度舞ってみるから、見ていてくれる?」
「もちろんにございます!」
すう、と息を吸い、床に膝をついて鈴を掲げる。
楽の音に合わせて視線を上げたとき――別の目の存在に気づいた。
(……あ)
渡殿から向けられる伏し目がちなまなざし。長い睫毛に縁どられた、切れ長の黒い瞳。
どこまでも寡黙な、表情のない顔。けれど――こちらを揺るがず見つめている。
黄泉神を屋敷の中で見かけたのは、これでようやく二度目だった。
驚いたが、舞の最中だ。動揺を動きに出してはならない。じっと心を抑え、ただ教えられたとおりに舞い踊った。
楽の音が消えてゆく。最後の姿勢を解き、黄泉神の方を見やった。
彼は黙ったまま立っている。黒いまなざしがサツキのそれと絡み合った。
灯心が燃える音、風の音、聞こえるはずの音が何も聞こえなくなる。
遠くにいるのに、夜の色をした瞳に呑み込まれそうな心持ちがする。
どれだけ見つめ合っていただろう。
ふい、――と視線が逸らされた。そのまま黄泉神は歩き去ってゆく。
サツキは我知らず鈴を胸の前に抱えた。しゃん、と静かな音が鳴った。




