第6話 火垂
サツキが黄泉の国に呼ばれて、いつしか一カ月半が過ぎた。
外はとこしえに夜のまま、動きもしない星空だけが広がっているせいで時間の感覚を失いそうだが、こっそり柱に刻んでいる印の数からすれば一カ月半で間違いないらしい。
日々は今のところつつがない、と言っていいようには思う。毎朝燎原で儀式を行い、死者の魂を清めては輪廻へ送り出している。
だが、それだけなのだ。
それ以外、何も起こっていない。
朝の儀式が終われば、サツキは牛車で黄泉の宮へ返される。そして翌朝まで、何もない時間が過ぎていく。現世では朝から晩まで働いていたサツキには、今もって慣れないことだ。
黄泉神も黄泉神で、儀式後にはどこかへ文字通り消えてしまう。屋敷の中で出会ったことは黄泉戸喫をしかけて叱られたときの一度しかない。では肝心の儀式のときはそれなりに応対してくれるかと思えば、ほとんど目も合わせてくれないのだ。
契約とはいえ、形の上だけでも夫婦ということになっている相手である。これほど冷たくされてはさすがに堪えてくる。犬たちは日々サツキに寄り添い、励まそうとしてくれるが、どこかの時点でもはや申し訳なくなってしまった。
――自分はただの道具なのだろうか、と思う。
自分の村が守られるならそれでもよいはずなのに、傷ついてしまうのはなぜだろう。胸がつきりと痛むのは、榊の枝を振る手から力が失せてしまうのはなぜだろう。
一生懸命に気を遣ってくれる犬たちにも、物言わぬ白い手たちにも、この話はできない。
当然ながら黄泉神本人にも言えるはずはなかった。
***
――ふわり。
閉じたまぶたの前を何かが通り過ぎた。
サツキはゆっくりと目を開け、辺りを見回した。
「……ここは?」
自分は確か、いつもと同じ、独りぼっちの部屋で眠りについたはずだ。
だが、ここは自分の部屋ではない。否、部屋ですらない。
藍色の夜空の下、吸い込む空気は湿っている。寝間着にしている薄い小袖が肌に貼りつくようだ。
一歩踏み出せば、裸足の指の間から水が浸み出し、足裏がなめらかな泥に沈む。
やさしい風が吹き、膝まで届こうという丈の草をさやさやと揺らす。その草の間を漂うのは、温かな金色を帯びた、数え切れぬほどの小さな灯り。
真夜中の湿原。
蛍の飛び交う静かな水辺だった。
「どういうこと……?」
ひとりごちて周囲を見渡す。夢だと断じるには、頬を撫でる風や濡れた小袖の裾の感触に、あまりに現実味がありすぎた。
冷えた泥から足を持ち上げ、もう一歩を踏み出した――そのときだった。
「よくたどり着けたね」
背後から突然に声がして、サツキは跳び上がった。泥に足を取られて転びかけたところを、しなやかな腕が抱き留めた。
こちらを見つめる切れ長の黒い瞳が、そっと細められる。完璧な線を描く口元が、やわらかな笑みへとほころぶ。
薄白い袍と袴をまとった美しい青年。どこまでも優しげで、温かな気配。
――顔かたちはあろうことか、あの黄泉神に瓜二つだというのに。
黄泉神と同じ顔をした青年は、サツキを抱き寄せるようにして立たせ、小首をかしげて顔を覗き込んできた。その瞳に見つめられたとたん、心の臓がどきりと跳ねた。頬がじわじわと熱くなる。戸惑いに駆られてサツキは視線を逸らした。
「ええと……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
青年は夜咲く花がほころぶように笑う。白い指先を伸べ、乱れたサツキの髪を持ち上げてそっと耳にかけてくれた。
また鼓動が高鳴る。ほの甘い水のような、どこか懐かしい香りが鼻をくすぐった。
「あの……お会いしたことが?」
サツキが尋ねると、青年は謎めいた微笑みを浮かべた。
「さて。私は遠い昔から、ずっと君を見ていたけれど」
「えっ、そうなんですか?」
ますます当惑を深めるサツキを見て、青年は口元に手を当てる。堪え切れなかったかのように、くすくすと小さな笑いがこぼれた。
「まあ、君が困るのも無理はない。ちゃんとしよう。――よかったら、名前を聞かせて」
「……サツキ、です」
答えた瞬間、青年の真黒い瞳がゆるやかに揺れた。
「サツキ。五月か。初夏の風、そよぐ緑の葉。こちらの方がよほど君に合っている。今度はよい名をもらったね」
今度は?
引っかかる言葉遣いにサツキはまばたく。だが青年にじっと見つめられると、なぜか疑念が身の内深くへ沈んでゆく。
「……あなたは?」
問いかけたサツキの声はかすかに震えた。
黄泉神に似た青年は、どこか寂しげに首を傾げる。白い手が左の胸に当てられる。ややあって薄い唇が開いた。
「火垂。私のことは、火垂と呼んでほしい」
ざわ、と風が吹く。二人の髪が煽られる。
青く広がる夜空の下、数多の蛍が光の嵐のように舞い上がる。
「……火垂」
幻のような情景の中、口にした名は不思議なほどに馴染んだ。
青年は今度こそ心から嬉しそうに微笑んだ。
***
少し離れたところにあった岩の上に二人で腰を下ろした。そのままどちらからともなく見つめ合う。
長い睫毛に縁どられた火垂の瞳。そのまなざしを受け止めると、どうしてか体がぽかぽかとしてくる。こんな感覚は初めてだった。
……おかしなものだ。氷のように冷たい黄泉神と全く同じ顔なのに。
黄泉神のことを思った瞬間、心が沈んだ。我知らず火垂から視線を逸らしてしまう。
白く美しい、それでも大きな手が、そっとサツキの甲に重ねられた。
「どうしたんだい、サツキ」
穏やかに囁きかけられる。絹のようになめらかで温かな声に、胸の奥がまた震える。
ほとんど意識もしないうちに、言葉が口からこぼれ出していた。
「私……ある人と約束をしていて。言われたとおりに頑張っているんだけれど、向こうはずっと冷たくて」
「そうか」
短くて、それでいて包み込むような返事。そっと手の甲を撫でる指。
目元が熱くなる。泣くつもりはない。必死に涙を押し込めて、できるだけ普通に声を発した。
「あの人は、私のことを――道具ぐらいにしか思っていないんじゃないかな、って」
ふい、と目の前を蛍が通り過ぎる。静かな風が湿原の草を揺らして遊ぶ。
握られた手を掬い上げられた。顔を起こすと、火垂が微笑んでいた。
「大丈夫。君は道具ではないよ」
「……そうかな」
「そうとも。心配しなくていい」
夜闇のように黒い瞳が細められる。
闇のようで――それでいて、このうえなく愛おしいものを見るような、やわらかい光が宿っている。
「君は本当によく頑張っているよ。私が見ている」
――ああ。その言葉が欲しかったのだ、と思う。
そう言われるだけで、明日もまた立ち上がれるような気がする。
不思議だ。一度として会ったこともなかった人のはずなのに。
「……ありがとう」
サツキが礼を言うと火垂はうなずく。
「『あいつ』は見ていないとしても、私が見ていれば同じことだ」
「え?」
きょとんとするサツキの手に、火垂は一瞬、頬を寄せた。
どきり、と何度目かに心臓が跳ねた。
「朝が来る。もうお帰り」
ふいに言って火垂は立ち上がる。続いてサツキを立たせ、握った手をやさしく離した。
湿原を舞う幾百の蛍が集まってくる。長身の火垂を囲んで集い、金色の光の中へ取り込んでいく。
「待って」
サツキは思わず声を上げる。
光の向こうで火垂が微笑むのが見えた。
黄泉神が笑えば――あんな顔になるのだろうか。
「大丈夫。また会えるよ」
その声を最後に、周囲がとっぷりと闇に包まれた。




