第5話 清めの儀
「あれ……」
サツキは目をこすりつつ褥から起き上がった。
なんだか不思議な夢を見た気がする。現世でも黄泉の宮でもない、不思議な場所にいた気がする。
湿った空気、そよぐ風。そこで何か美しいものを見ていたような気がするのだが。
「……思い出せないや」
でも――なぜだろう。ひどく懐かしかった、ような。
黄泉に来てから何度か、そんなわけのわからない感傷に襲われている気がする。
ぼんやりしていると、御簾の向こうからかわいらしい声がかかった。
「嬬巫女様」
「お目覚めでございますか」
「黒輔、白丸」
膝立ちでにじり寄って御簾を上げると、犬たちが簀子縁にちょこんと座っていた。
「おはよう」
星空の下でこう言うのは慣れないが、とりあえず挨拶をする。犬たちは嬉しそうに尾を振った。
「おはようございまする」
「よくお眠りになられましたか?」
「うん、ありがとうね」
言ってからサツキは首を傾げた。
「今日は確か、清めの儀式をするのよね?」
「左様にございます」
「朝餉が済みましたらお支度をば」
「うん、分かった。よろしくね」
初めての儀式の日。つまりは今日から黄泉神の巫女としての役目が始まるのだ。
何をすればいいのかまだよく分かっていないが、言われたことは何でもやるつもりだった。なにせ自分の村の――否、この世の命運がかかっているのだから。
動かぬ夜空を見上げ、小さく息を吸う。手をぎゅっと握ると、薄く汗がにじんでいるのが分かった。
***
朝食後、白い手たちに再び衣を着つけられた。緋色の袴は昨日と同じだが、今度は小袖の上に巫女らしい衣を重ねられた。炎に似た文様の入った白い衣で、前を赤い紐で結ぶ形になっている。白い手たちは物言わないが、どうやらこれが巫女としての正装らしかった。
髪を美しく結われ、金の冠をかぶせられ、白い紙の飾りのついた榊の枝を持たされる。待っていた黒輔と白丸に儀式の手順を教えられてから、昨日の牛車に乗って出発した。
牛の鈴がちりちりと鳴る中、黄泉の宮がゆるやかに遠ざかってゆく。
物見窓から行く先を見やると、燎原の蒼い炎が遠くに揺らめいていた。
***
燎原の神楽殿では黄泉神が待っていた。初めて会ったときと同じ、黒い袍と袴をまとった姿である。
隣に立ったサツキを、切れ長の瞳がじっと見つめる。どうしていいか分からず、サツキも眉根を寄せて黄泉神を見返した。
何かが聞こえてきたのはそのときだった。
――怨。
――怨。
――怨、怨、怨。
ただの声、ではない。この声は「音」になりきれていない。空気を震わすことなく魂に囁きかける、積もり積もった怨恨の声。
燎原を見やれば、炎の中に何かがうごめいている。薄暗くぼんやりと光る、いくつものかたまりが。
「死者の魂だ」
ごく静かな声に、サツキは黄泉神を見上げた。
「……あれが?」
「燎原の炎が弱まっている状態では、まとった怨みや呪詛を灼き切れぬ。ゆえにこそお前が力を振るえ。よいな」
力と言われても、と思う。
巫女としての仕事は先ほど教わったばかりだし、果たして自分にそのような力があるものか、未だに納得がいっていないというのに。
だが。
――怨、怨、怨、怨、怨。
――――怨。
喉を塞ぐような霊魂の声。死にながらにして生きた苦しみ。生きずして死に落とされた嘆き。あれが現世にあふれかえるなど、考えたくもない。
止めねばならない。清めねばならない。自分しかいないのならば、自分で引き受けたからには、自分がやるしかないのだ。
サツキは必死に呼吸を整え、前を向いた。
りん、――と、どこからともなく鈴の音が鳴った。
黄泉神が両手の親指と人差し指、そして小指の先を合わせ、額の前に掲げる。
一瞬、燎原の炎が動きを止めた。
今だ、と理解した。
サツキはぐっと榊の枝を握り、黒輔と白丸に教わった祝詞を唱え始めた。
かけまくも畏き黄泉神
比良坂が涯てにおわす根の国が主
現世より来たる魂の
諸々の禍事、怨み、穢れ有らんをば
燎原の炎にて清め給えと
申すことを聞し召せと
恐み恐み申す
最後の言葉と共に、与えられた榊の枝を大きく振った。
その刹那、自分の心の臓がひとつ、大きく鼓動するのを感じた。
否、自分だけではない。目に見えない、けれど力強い何かが、重なり合うように震えたのが分かった。
――黄泉神様と縁を結んでいただき、神核とあなた様の魂とを共鳴させることで、神としての力を増幅させるのが嬬巫女様の役目にございます。
犬たちの言葉を思い起こす。つまりは、と気づく。
今の感覚が、神核との共鳴だろうか。
そう思った瞬間、燎原の炎が勢いを増した。色が蒼々と鮮やかになり、神楽殿の上に届きそうなほどに燃え上がる。
底でうごめく魂を覆う黒い穢れを燃やし尽くし、灰のように吐き出してゆく。
「わーっ! 主様! 嬬巫女様!」
「お見事にございます!」
神楽殿の下で犬たちのはしゃぐ声が聞こえた。
いつしか額に汗が浮かんでいた。玉となって流れ落ち、目にじわりと沁みる。
隣の黄泉神は両の手で次々と印を組み、燃え盛る炎を操っていた。真白い色に浄化された魂がひとつ、またひとつと星空へ昇ってゆく。サツキは榊の枝を握り締めたまま、心の臓が肋を叩くのを感じながら、じっとそれを見守っていた。
やがて蒼い炎の底に魂の姿がなくなった。清めるべきものが清められたのだ。
サツキはほっと安堵の息をつく。だが黄泉神はにこりともしなかった。
「明日も同じ時刻に来い」
それだけ言って、彼は神楽殿の階段を下りてゆく。昨日と同じように黒い霧となって消えた。
(……何よ、やっぱり冷たいひと)
サツキは憮然と霧の名残を見やる。犬たちが顔を見合わせ、尾を下げた。




