第4話 黄泉戸喫
牛車に乗せられて屋敷に戻ると、くう、と腹が鳴った。そういえばずっと何も食べていなかった。
黄泉の国にいても空腹にはなるんだな、と思う。死んではいない身だからだろうか。
居室で白い手に婚礼衣装を脱がされ、先ほどよりは簡素な(といってもサツキには十分豪奢な)単と小袖に着替えさせられた。
仕事を終えた手たちがどこかへ消えたのを見送り、庭に視線を移す。明けぬ夜空の下、あちらこちらに配された松明が煌々と光を放ち、美しく植えられた木々を照らし出していた。
ふと、暖かな色がサツキの目を引いた。すぐ近くの木に丸々とした枇杷が生っている。ここの季節が外と同じなら、今は初夏。確かにちょうど実り始める季節だ。
「……おいしそう」
食べてもいいだろうか。ひとつくらい、たぶん許される。
袴の裾を思いきりたくし上げ、小石の敷かれた庭に降りた。なるべく衣を引きずらないよう骨を折りつつ、木の根元にたどり着く。つま先立ちになって枇杷の実をひとつ捥いだ。
指で皮を剥くと、ふわり、とよい香りが漂う。一口かじろうとした――そのときだった。
「――何をしている!」
厳しい声にサツキは飛び上がる。危なく枇杷を落としかけた。
振り返れば黄泉神がこちらへ闊歩してくるところだった。
「よ、黄泉神様……ごめんなさい、お行儀悪かったですよね……」
サツキが恥じ入ると、黄泉神は形のよい眉をいっそうひそめた。
「違う」
「……え?」
当惑するサツキの足元に、どこから現れたのやら、白と黒の犬たちも駆け寄ってきた。
「嬬巫女様! 危のうございました」
「実に、危のうございました!」
危ない? 毒でもあるのだろうか。
思わずまじまじと手元の枇杷を見やる。黒輔が丸い目で懇願するように見上げてきた。
「嬬巫女様、黄泉戸喫はなりませぬ」
「ヨモツ……ヘグイ?」
聞き慣れぬ言葉に目をしばたたく。
犬たちは困ったように目を合わせる。黄泉神が深く溜め息をつき、サツキを睥睨した。
「お前はいずれ現世へ――生者の世へ帰る契約であろう。なれば黄泉の国の食物を一切口にしてはならぬ」
「どういう……ことですか?」
困惑するサツキに向かって犬たちが耳を下げた。
「黄泉の食物は、廚〔注:厨房〕から来たるもの、草木に生るもの問わず、いずれも死の力を帯びております」
「すなわち口にすれば最後、嬬巫女様は現世へ帰れなくなってしまうのでございます」
「そんな」
さっと背筋が寒くなる。思わず黄泉神の顔を見上げたが、そこに労わりに類する色はなかった。
「死にたくないのであれば覚えておけ。よいな」
冷たく言って黄泉神はきびすを返す。静かな足音が宮の奥へと去っていった。
それを茫然と見送ったサツキは、ふいに先ほどの儀式のことを思い出した。
「ねえ黒輔、白丸……私、婚礼でお酒を飲んでしまったんだけど」
つまり、黄泉の食物を口にしてはならぬ云々というのは、遅すぎる警告なのではないだろうか。
しかし白丸が安心させるように言った。
「あれは特別でございます。黄泉比良坂と現世のちょうど境にて醸した酒にございますれば」
「しかり。あなた様を生者と死者の境へ確かに留め置くため、必要な呪術でございました」
「そう、なんだ」
ひとまず胸を撫でおろす。だがそれはそれとして喫緊の問題があった。
「でも私……お腹空いちゃったんだんだよね」
サツキは頬を赤らめる。すると犬たちは大きく尾を振った。
「ご安心なさいませ。今、先ほどの者たちが食事の支度をしておりまする」
「えっ、でも黄泉のものは食べちゃいけないんじゃ」
「黄泉比良坂を上り切ったところに廚がございまする。そこで現世の食物、現世の竈を使ってこさえておりますゆえ、問題ござりませぬよ」
ずいぶんと手の込んだことをする。だが黄泉戸喫とやらは、一年花嫁の契約を結んだサツキにとって、それほどの禁忌であるということなのだろう。
「……比良坂からここまで運んでくる間、少しだけ冷めてしまいまするが……」
黒輔が申し訳なさそうに耳を下げる。その様子が愛らしくて、サツキは思わず笑った。
「大丈夫よ。私、何でも食べるから。気を遣わせてしまってごめんなさい」
「とんでもございませぬ!」
「我らが嬬巫女様のためならば!」
犬たちはぴっと姿勢を正す。その姿を愛らしく思いつつ、サツキは心の中で戸惑った。
自分は果たしてここまでしてもらう価値のある存在なのだろうか、と。
***
どこかへ消えていた白い手たちが食事を持って戻ってきた。
並べられた食べ物を見てサツキは目を回しそうになった。
こんもりと盛られた飯。美しい小皿に調味用の塩、酢、酒、醤。
貧しいサツキにはそれだけで十分なのに、さらにいくつもの菜が並んでいる。
「こちら右から、鯉の膾にございます。続いて蒸し鮑、海月、雉……」
膳の上のものを白丸が示していく。だが驚愕のあまり、何も耳に入らない。
「こ、これ、何人分? 黄泉神様も食べにくるの?」
「いえ、黄泉神様は基本的に食事をなさりませぬ」
「はい。神であらせられますがゆえに」
「え、えー……」
戸惑いの中、真っ先に思ったのは「村の皆に持ち帰りたい」ということだった。
こんな豪華な料理、誰一人として食べたことがないだろう。皆で分け合えたら――どれだけ幸せだろうか。
まなじりにほんの少し、涙がにじむ。犬たちはそれを見逃さなかった。
「つ、嬬巫女様!?」
「いかがなさりました? お気に召しませんか?」
「ううん、違うの。こんな御馳走、村の人たちに分けてあげられたら、皆どんなに喜ぶだろうって……そう思ったら、何だか寂しくなって」
目元を拭きながら笑顔を浮かべる。犬たちは、きゅう、と声を漏らして尾を下げた。
そのとき、ふとサツキの頭に考えが浮かんだ。
「そうだ。あなたたちも一緒に食べない?」
「我らも、でございますか?」
「うん。それとも、あなたたちは現世のものを食べちゃダメだったりする?」
犬たちは顔を見合わせる。そしてぶんぶんと尾を振り始めた。
「いえ……いえ!」
「ご相伴にあずかれるのであれば、我ら、望外の喜びにて!」
二対の丸い目がきらきらと輝いている。白丸はもはや涎を垂らしかけていた。
あまりに嬉しそうな姿にサツキも口元をほころばす。涙はいつしか引っ込んでいた。
***
犬たちと料理をつまんでいると、ふと白い手が現れた。
携えた小さな箱をサツキに渡し、手はすっと消えていった。
犬たちが覗き込む中、蓋を開けてみる。中に収められていたのは、様々な美しい形をした揚げ菓子だった。
「おお、これは……噂に聞く唐菓子とやら」
「燎原の匂いはいたしませぬ。しかし、うっすらと黄泉神様の匂いが。つまりはきっと主様からの贈り物にございましょう」
「……そう」
あの冷たい黄泉神と「贈り物」という言葉が結びつかず、サツキは戸惑う。何を考えているひとなのかさっぱり分からない。
単なる儀礼なのか、気まぐれなのか。あるいは、仮初とはいえ夫婦となった今、多少なりとも優しくしてくれるつもりがあるのだろうか。
ああ――何だろう? 胸を浸してゆくこの感覚は。
こんな贈り物をもらうなんて初めてなのに、なぜ懐かしいのだろう。
戸惑うサツキの前で、犬たちは丸い目を見合わせ、小さく尾を振った。




