最終話 五月の空
黄泉の宮に昼の光が降り注いでいる。
ずっと夜のままで凍りついていた空の時は、いつしか元通りに巡るようになった。
きらきらと光る庭の池のそばを、黒白二匹の犬が走り回っている。毬を追いかけているのだ。
その様子を見ようとしたサツキが釣殿へ続く廊に踏み出すと、明るい声が飛んできた。
「嬬巫女様ー!」
「サツキ様ー!」
かわいらしいはしゃぎぶりに手を振って返す。
ふと背後から衣擦れの音が聞こえ、すらりとした長身の女が隣に立った。
「元気のよいことよ。幼子のようよな」
「イザナミ様」
美しい女だ。かつては腐肉と骨を朽ちかけた衣に包んでいた女神が、今はあでやかな袿をまとい、本来の輝きを放っている。
顔の右半分を包帯で隠しているのは、消えぬ心の傷が具現化しているためだ。それでいて本来の温かな性質を取り戻した彼女は今、穏やかに笑っている。
「近頃の黄泉は平和なものだな。どうだ? せっかくの昼下がり、女同士でゆっくりと話すというのは」
「ふふ、ありがとうございます。喜んで」
怨みを浄化されたイザナミは、いつのまにか黄泉の宮にいた。彼女がやってきたことで、静かだった宮は少し賑やかになった。
サツキとしても、こうして友達になったことで、彼女の孤独を癒せているのならば嬉しかった。二人で釣殿へ向かおうとしたとき、後ろから声がかかった。
「私も混ぜてはもらえないか」
その優しい声に、ふわり、と胸の中が温かくなる。サツキは絡まる袴の裾をつまみ、ぱっと振り返った。
「火垂様!」
夢の『火垂』とひとつになり、完全なる形に戻った黄泉神が、サツキと目を合わせて微笑む。
イザナミが不満げに口を尖らせた。
「黄泉神よ。女の集まりに図々しいとは思わんのか? のう、サツキ」
「そうおっしゃらず。比良坂と現世の境の廚で作らせた唐菓子をお持ちいたしました」
言って黄泉神は、手に持っていた箱を開ける。
その中には美しい形に捩じられた揚げ菓子がたくさん詰まっていた。
「ほう? 甘味とな! よかろう、許してつかわす」
そう、女神様は案外と甘いものがお好きなのだ。イザナミは嬉しそうに箱を受け取り、先んじて釣殿へと歩いていった。
それを見送ってから、サツキは黄泉神に視線を戻した。
「火垂様」
「ん?」
黄泉神は首を傾げる。昼の陽を浴びて、揺れた黒髪に星々が光る。
サツキは彼の顔をじっと見つめ、小さく微笑んだ。
「もう私の食べるものに気を遣ってくださらなくてもいいんですよ。ずっとあなたのおそばにいると決めたんだもの」
一年限りの契約は、もう存在しない。永久の契りに変わったから。
故郷は恋しいが、サツキは決めたのだ。自分の力が続く限り、愛しいひとのそばにいて、黄泉から現世を守る手助けをするのだと。
黄泉神は切なげに目を細め、サツキの頬に触れた。
「お前は故郷の者たちを――現世を愛しているだろう。自由に里帰りをしてほしいのだ」
ああ――優しいひとだ。
ひとりきりで黄泉を背負い。魂たちと現世の安寧のために尽くし。愛のために愛さえ切り離し。
そういったひとだからこそ、自分も共にありたいのだ。
「じゃあそのときは、火垂様も一緒に来てくださいね」
サツキはにっこりと微笑み、黄泉神の顔を見上げる。
彼はあっけにとられたような表情を浮かべたが、やがて口元を柔らかくほころばせた。
「……お前の願いとあらば、叶えよう」
***
どこまでも続く、雲ひとつない蒼天。爽やかな風がそよぎ、緑にきらめく葉を揺らす。
田植え歌が響く。歴史に残らぬ人々が衣を襷がけにし、泥に稲を植えてゆく。
現世の庶民の暮らしは厳しい。これから先も、そう楽になることはない。
それでも今、このときだけは――五月の空の下、すべてが安らかだった。
〈黄泉神の一年花嫁 完〉
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