第24話 愛し君
――闇に呑まれる。
サツキが身構えた瞬間、黒々とした怨嗟の波が目の前で止まった。
「……え?」
ぴしり、と視界に波紋が走る。以前に触れたことのある結界の気配。そんなはずはない。彼が今、ここにいるなんて。
そう思ったとき、後ろから肩に手がかけられた。サツキは驚いて振り返り、美しい男の顔を見上げた。
「――火垂様」
「気を確かに持て」
黄泉の主宰神はサツキの肩を握る手に力を込める。
彼の背後には巨大な白狼――真の姿を解放した白丸がいた。
「黄泉神様の命により参上いたしました。お力添え申し上げる」
「白丸! ありがとう……」
白丸が歩み寄り、鼻面を擦りつけてくる。それをそっと撫でてから、サツキは再び黄泉神を振り仰いだ。
「大丈夫ですか? お加減は……」
「案ずるな。なぜか、ふいに――目が覚めた」
そうか、と思い至る。黄泉神が倒れたのは、きっと彼の一部である火垂が奪われたため。火垂が闇から解放されたことで、再び目を覚ましたのだ。
サツキは肩にかけられた男の手を握り、目を閉じて唱えた。
「かけまくも畏き黄泉神、比良坂が涯てにおわす根の国が主――」
祝詞を捧げると、黄泉神の手が少しずつ温かくなってゆく。彼の黒髪に抱かれた星々がきらきらと輝き始めた。
大きく息をついてから、黄泉神は手を前へ掲げる。罅の入りかけていた結界が淡い光を放ち、強化された。
「さて、なんとか再び眠らせてさしあげねば」
うごめくイザナミの闇を見つめながら黄泉神が言う。長い指が印を組んだ。
「かけまくも畏き伊邪那美命。燎原が涯てにおわす黄泉津大神。諸々の怨み、穢れをば思し忘れ……」
サツキはハッとした。これは、イザナミを眠らせるための祝詞だ。夢の中で火垂に教わったものとは似て非なるもの。
それではいけないのだ。眠らせて解決を先送りにしても、怨嗟は溜まり溜まるばかり。いずれまた目覚め、さらなる災厄を引き起こすかもしれない。
サツキは黄泉神の腕に手を添え、そっと彼をとどめる。怪訝そうに向けられた黒い瞳を見返した。
「……いいえ。眠っていただくのではなく、怨みと孤独を祓い清めましょう。今度こそ、永遠に」
黄泉神はしばらくじっとサツキを見つめる。だがやがて小さく頷いた。
「いいだろう」
言うなり黄泉神は、右手の中指から小指を固く握り合わせ、人差し指と親指の先を合わせた。
「――天照す火よ」
詠唱と共に手首を捻る。すれば一瞬で目前に蒼い炎が広がった。
イザナミが震える声をこぼした。
「……おのれ」
炎が音もなく爆ぜる。次第次第に闇を押し返し、イザナミへと迫ってゆく。
サツキは右の手を伸ばし、黄泉神の左手と繋ぎ合わせた。残った手に榊の枝を握り、まっすぐに闇の奥を見据える。サツキの声にすかさず黄泉神が唱和した。
かけまくも畏き伊邪那美命
燎原が涯てにおわす黄泉津大神
聞こし召せ、諸々の怨み、穢れをば
恐み恐み祓え清め申す
サツキが榊の枝を振るうと、風が吹いた。蒼い炎が大きく煽られ、闇を照らし、その奥に身を潜めたイザナミを包む。
「……っ、これは……!」
「イザナミ様、そのお苦しみ、燎原が引き受けます」
サツキが言うと、天へ届くほどに炎が舞い踊る。怨嗟に粘る闇が少しずつ燃え始める。黒い灰が、煙が、どこまでも昇ってゆく。
青と黒にけぶる深淵の奥から、涙まじりの声が耳に届いた。
「わらわは――どうすればよい。わらわの怨みは数千年、数万年のものぞ。汝にこうして清めてもらおうとも、わらわには永久に傷が残るのだ――」
「大丈夫です。すべてお話しください。私が聞きます。ひとりぼっちにはしません。――私たち、今度こそ、きっとお友達になれます」
「そう……か」
ほう、と震える息の音が聞こえた。
視界が白い光に包まれた。
***
気づけば、真っ白な中に立ち尽くしていた。周囲を見回し、サツキは歩き始める。この白い闇のどこかに、捜しているひとがいる気がした。
どれほど歩いたろう。ふと、金色に輝く光の塊が見えた。袴の裾をたくし上げて駆け寄る。触れられるほどの距離に迫った光の塊は、小さく鼓動するように震えていた。
「……火垂」
そっと呼びかけ、手を伸ばす。触れた瞬間、光が小さくはじけ、懐かしい指先がサツキの手をとらえた。
「――サツキ。迎えに来てくれたのか」
目の前に立つ青年が、か細い声をこぼす。
真白い衣、星を抱く黒髪、黄泉神と瓜二つの顔――黄泉神が自分を愛してくれた証そのもの。
サツキは微笑み、彼の頬を優しく撫でた。すれば彼の黒い瞳が揺れた。
「どうして。私は、君にひどいことをしようと……」
「もういいの。――もう大丈夫だから」
サツキが言うと、火垂はまぶたを伏せた。
どこか泣きそうな顔をサツキはじっと見つめる。それから背伸びし、彼の顔を引き寄せて、何も言わずに口づけた。
火垂の目が潤む。美しい面に、ようやく安らぎの色が浮かんだ。
「ありがとう――サツキ。私はこれからも、ずっと君と共にいるよ」
やわらかな微笑みが、幾千の光の粒へと散った。
***
蒼い炎が揺らいでいる。いつしか燎原の只中に戻っていた。
きょろきょろと辺りを見回していると、ぐいと引き寄せられた。
サツキを乞い求めるように見つめるのは、星々を湛えた美しい男。その胸に手を当て、顔を覗き込む。
瞳の奥に、よく見知った輝きが戻っていた。
「火垂。――あなたなのね」
そう囁きかければ、男は黙ってサツキを抱きしめた。




