第23話 怨嗟の底
狼の姿に変じた黒輔の背に座り、燎原の上空を駆けてゆく。
眼下に広がる蒼い炎の底には、おびただしい数の怨霊がうごめいていた。中には炎を突破し、黒輔とサツキに手を伸ばす者もいる。それらはすべてサツキの風が斬り伏せた。
宮には白い手たちの力を借りて、簡易的な結界を張ってある。一日かそこらならぎりぎりもつはずだった。
すでに見えなくなった宮のあたりを振り返る。それから前へと視線を転じれば、すべてを呑み込むような闇がある。
黒輔が静かに言った。
「もうすぐにございます。深淵が見えてまいりました」
「ありがとう、黒輔。手前で降ろしてちょうだい」
サツキが言うと、黒輔は軽く視線をよこしてきた。
「何をおっしゃる。この黒輔、最後までお供する覚悟にて」
黒輔の首を撫でながらサツキは微笑んだ。
「白丸のところに帰ってあげないと寂しがるでしょう」
「それでも嬬巫女様の御ためならば。それは白丸も同じ思いにございましょう」
深淵が近づいてきた。
闇の底からどう、と重い風が吹く。腐った臭気が鼻孔に忍び入る。
黒輔が低い声を発した。
「――参りまするぞ」
言うなり、黒き狼は大きく宙を跳躍し、目前の闇に飛び込んだ。
肌に触れる空気が一瞬にして変わった。粘るような感触。鼻をつく強烈な腐臭。
落ちていく。まといつく闇の中を、どこまでも。
だが、永遠とも思える時間ののち、黒輔の大きな足が濡れた地面に着地した。
ほの朱い灯りの中、女が振り返った。
黄ばんで落ちくぼんだ目。絡まった黒髪、こけた頬。乱れた衣の裾がぞろりと動く。
黄泉の最奥に棲まう女神は、サツキの姿を見て、口の端を吊り上げるように微笑んだ。
「……露姫よ。戻ってきたのだな、わらわの元へ」
「今の私はサツキです、イザナミ様」
すればイザナミは笑みを浮かべたまま、サツキの方へ膝行寄ってきた。
「名など些末なことよ。実に愛い子よなあ。わらわのためにここまで来たのであろう?」
黒輔が唸る。サツキはそれを遮り、前に出た。
「もう逃がさぬぞ。何時いつまでも、ここにおるがよい」
「恐れながら、それはできかねます」
サツキは袴に挟んでいた榊の枝を手に取った。
そのとたん、イザナミの髪が生きた蛇のようにうねり、領域を満たすほどに広がった。
「二度にもわたって――何を言うか」
怨みの声が空間を震わす。空気の粘る感覚が、壁となってサツキに迫ってきた。
とっさに榊の枝を構えて振るう。罅の入るような音がして、眼前で気配が砕けた。
次の瞬間、じゅく、と足元が崩れた。体が沈み始め、腐れた臭いがいっそう強まる。もがけばもがくほど、どろどろしたものに吸い込まれていく。
「……っ!」
「嬬巫女様!」
何かにぐいと引かれた。黒輔だ。鋭い牙の生えそろった口で襟をくわえられ、汚泥から引き上げられる。大きな狼はそのまま宙へと跳び上がり、離れたところに降り立った。
「……ありがとう、黒輔」
「何の。――次が来ますぞ、我が背へ!」
「うん!」
急いで黒輔の背にまたがる。再び間一髪、迫り来る腐敗を逃れた。
イザナミの声がびりびりと空気を震わせた。
「おのれ――小賢しい真似ばかりしおって! 汝の魂をわらわに渡すのだ!」
「そうはいきません。あなたの怨み、あなたの孤独、どうか清めさせてくださいませ!」
叫んだとき、ふと嫌な気配がした。黒輔の首にしがみつき、後ろへ飛び退く。
一拍遅れて、黒い靄をまとった風の刃がサツキのいた場所を裂いた。まともに受けていれば真っ二つに斬られていただろう。
震える息をつき、視線を上げる。上空の闇の中に、イザナミではない何者かの影があった。
薄汚れた白い衣。消えかけた星々の光を抱く黒髪。黒い靄に繋がれたかのごとく、宙に浮いている誰か。
力を失った黒い目でじっとこちらを見つめる――あの、姿は。
「……火垂!」
イザナミに取り込まれた彼は、消えたわけではなかったのだ。安堵したのもつかの間、彼の白く長い指が剣の印を組んだ。
唇が音もなく動き、再び風の刃が襲い来る。黒輔が大きく飛びのくのを見て、イザナミが哄笑した。
「っははははは――! 思い知るがよい。男神の愛など、羽根のように軽いものなのだ!」
「イザナミ様……あのひとを操っておられるのですか」
サツキが問うと、イザナミは目を三日月の形に歪めた。
「わらわはただ深淵へとあの者を招いたのみ。穢れに満たされ、汝らを敵と見なすようになったことまでは――さて、わらわの仕業と言えるかどうか」
女神の口の端が吊り上がる。ざわ、と闇が揺れる。
「所詮、この程度のものよ。男神など、すぐに汝を傷つける。そしていずれは汝を忘れるのだ、露姫」
「……忘、れる……」
傷つけるつもりで放たれたのだろうその言葉にしかし、頭の隅で何かが声を上げた。
思い出すべきことがある。こんなときのために誰かが――そう、目の前の愛しいひとが、伝えてくれたことがなかったか。
しばらく遠くを見つめたあのひとが、優しく教えてくれた『特別な祝詞』は。
サツキは大きく息を吸った。
「……かけまくも畏き伊邪那美命。燎原が涯てにおわす黄泉津大神。聞こし召せ、諸々の怨み、穢れをば、恐み恐み祓え清め申す――!」
ごう、と風が吹いた。地を覆う腐敗を飛び散らせ、怨嗟の女神を巻くように吹きつける。
風の只中にとらわれ、イザナミがひるんだ。その顔に浮かんだ不安の色は――本来の穏やかな彼女を思わせた。
その隙を逃さず、サツキは榊の枝を大きく振る。そして火垂を見上げ、叫ぶように唱えた。
「かけまくも畏き黄泉神、聞こし召せ! 諸々の怨み、穢れをば、恐み恐み祓え清め申す!」
知っている祝詞を組み合わせて唱えたのは、とっさの判断だった。火垂を覆っている黒い靄を払い去ろうとして、最初に浮かんだ考えだった。
彼はイザナミの言うとおり、本当にサツキのことを忘れたのかもしれない。こちらを攻撃しているのは、ことによると自らの意思なのかもしれない。
それでも、確かなことがある。穢れにとらわれた火垂を放っておくことはできない。彼に愛されようと、忘れられようと――彼を愛した者として、このまま捨て置くことだけは、絶対にしたくない。
ほんの一瞬――蒼い光が閃いた。
炎だ。燎原の炎。それが何もない闇の只中に現れた。
(……これだ)
手ごたえを感じ、同じ祝詞を唱える。もっと大きく榊の枝を振る。
今度現れた燎原の炎は、さらに大きく燃え上がった。燃え上がり――火垂を包み込んだ。
彼を覆いつくす穢れの靄を、蒼い炎が焼いていく。長い時間がかかったか、それとも一瞬だったか、サツキにはよく分からなかった。
ふらり、と火垂の姿が揺れる。彼を宙に繋いでいた黒いものが消え、糸が切れたかのごとく、真っ逆さまに落ちていく。
黒輔が大きく跳び、彼を背で受け止めた。だがサツキが抱きしめようとした瞬間、彼の姿は幾千の金の灯りとなって消えた。
空を掻いた手を見つめ、サツキはしばし茫然とした。
地が揺れたのはそのときだった。
はっと前を見やれば、イザナミを捕らえていた風の檻が力尽きて消えていた。
女神の目が底光りする。血の混じった涙がまなじりから滴り落ちる。
「――お、のれぇぇぇぇぇぇ!!」
轟音とともに、闇がサツキたちを覆った。
***
黄泉の宮に取り残された白丸は、簀子縁に座り、女主人と相棒の消えた夜空をじっと見つめていた。
サツキのことも黒輔のことも心配でたまらず、小さく溜め息をつく。
背後から声が聞こえたのはそのときだった。
「白丸……我が嬬は、どこだ」
驚いて振り返れば、蒼い顔をした黄泉神が褥から身を起こしていた。
白丸は慌てて主にかけよった。
「いけませぬ、黄泉神様!」
「どこへ……行った」
肩で息をしながら、黄泉神は問いを重ねる。
白丸は震えて目を伏せた。
「……黄泉の深淵へ。イザナミ様の元へ向かわれました」
しん、と場が静まり返る。その沈黙を破り、衣擦れの音が響いた。黄泉神が立ち上がったのだ。
「――私も行かねば」
「主様、しかし……お加減がよろしくないのに!」
白丸は主の前に回り込んで止めようとする。
黄泉神はよろめいて柱に縋り、それでもなお前へと歩を進めた。
美しい顔が苦痛に歪む。薄い唇から必死の声がこぼれ出た。
「自らが鎮めかねていた神に、ただ独りで立ち向かわせるなど――黄泉神の名にも、夫の名にも、恥じることだ……っ」
「黄泉神様……」
白丸の目に涙がにじんだ。ずっと嬬巫女に冷淡だった主人が、かつての愛情深さの片鱗を見せている。そのことが彼にはとても切なく――そして嬉しかった。
かちかちと爪の音を立てながら、主の元へ歩み寄る。黄泉神は膝をついて、白丸の顔を覗き込んだ。
「頼む。私をお前の背に乗せてくれ。我が嬬巫女の元へ行かねばならぬ。私の持てる力を――貸さねばならぬのだ」
主の白い面を、白丸はじっと見つめる。
そして深々と頭を下げた。
「――畏まりました」




