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黄泉神の一年花嫁  作者: 佐斗ナサト


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第22話 最奥へ

 熱い涙がサツキの頬を伝う。

 握ったままの男の手を見つめ、その(おもて)を見やる。

 彼もまたはらはらと涙を流しながら、祈るようにまぶたを伏せていた。


黄泉神(よもつかみ)様――火垂(ほたる)様」


 彼の手を握り直し、サツキは囁いた。


「お休みください。あとは私に任せて」


 白い手たちが黄泉神(よもつかみ)の背を支え、そっと(しとね)に寝かす。

 サツキは彼の手の甲を優しく撫で、(ふすま)の上に横たえた。


 自分が露姫(つゆひめ)だったという事実は、すんなりとサツキの中に落ちた。

 黄泉神(よもつかみ)の涙に触れた瞬間、かつての生で経験したことが、知識が、今の自分(サツキ)の一部としてよみがえってきた。本来思い出すはずのない記憶が戻ってきたのは、神の力のゆえだろう。

 だが分からないこともある。それは犬たちに聞いてみるよりほかなかった。

 

黒輔(くろすけ)白丸(しろまる)。苦労をかけてごめんね」


 サツキが声をかけると、犬たちは人の子のように泣きながら駆け寄ってきた。


(つま)巫女(みこ)様」

「露姫様……サツキ様っ」


 二匹をまとめてぎゅっと抱きしめる。前世から自分を支えてくれた犬たちへの感謝の思いは、抱擁ひとつでは到底表せなかった。

 しばらく犬たちの頭や背を撫でてから、サツキは二匹から身を離し、問いかけた。


「教えてほしいことがあるの。火垂(ほたる)様は、ずっと露姫(わたし)のことを忘れておられたわよね。どうして?」

「それは――(あるじ)様が悲しみの中、露姫様を愛された記憶を切り離してしまわれたからでございます」

「その記憶がどこへ消えたかは、我らも存じませぬ」

「……」


 ああ、そうか、と思う。

 夢の中の『火垂』は――切り離されたその記憶。黄泉神(よもつかみ)の愛そのものだったのだ。


 ぽろり、とまた涙がこぼれる。

 切り捨てられた記憶(かれ)は、うつつとの狭間に留まり、ずっと露姫(サツキ)を求め、見守っていた。

 時の流れに耐えて待ち続けるのは、寂しかったろう。どれほど孤独だったろう。サツキが一年で再び去ると聞いて、どれほど絶望したのだろう。

 それでも自分を守ってくれた彼。黒い闇に呑み込まれて消えた彼。――おそらくは、イザナミのいる深淵へ引きずり込まれたのだ。彼が発していた黒い靄のようなもの、そして『自分はもうだめだ』という言葉を思えば、サツキの知らないところで侵食は始まっていたのかもしれなかった。

 ならば、今度は自分が助けに向かう。今ここにいる黄泉神(よもつかみ)のことを考えても、迷う理由はなかった。


「火垂様がお倒れになったのは、切り離した記憶に異変が起きたからよ。――私、ずっと夢に見ていたの」


 夢の中の『火垂』の話を手短に犬たちに伝える。

 すれば二匹は身を震わせて背筋を伸ばした。


「……イザナミ様が」

「やはり――怨霊が増えているのは。宮の空気に漂う、この腐臭は」

「ええ、間違いない。黄泉の主宰神が力を失いかけて、燎原(りょうげん)の炎が弱まって、空の時も止まってしまったのはおそらく、イザナミ様の孤独が限界を迎えたから。その怨みが燎原に侵食し始めているのよ」


 露姫だったころに出会ったイザナミを思い出す。一見おぞましいばかりの彼女は、その言葉によく耳を傾ければ、ただ寂しさと哀しみだけをにじませていた。

 おそらくはあのとき、永遠(とわ)に傍に置けたはずの露姫を失ったことで、いっそう孤独を深めたのだろう。人の魂であれ神であれ、清めなければ穢れが積もり、いずれ災厄をもたらす。神の溜め込んだ穢れならば、異界ひとつを揺るがしても不思議ではなかった。


 ちょうどそのときだった。

 脳髄を芯から震わす、声にならぬ声がしたのは。


 ――怨。

 ――怨。

 ――怨。怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨


「……っ!」


 顔を上げたサツキの目に映ったのは、ありうべからざる光景だった。

 松明の灯りに透ける御簾(みす)の向こう。清らかなるはずの南庭に、三体もの怨霊がうごめいている。

 白く腐った目でぎょろぎょろと周囲を見回し、サツキたちのいる寝殿へと近づいてくる。


 犬たちが身を寄せ合った。白い手たちも怯えるように引いてゆく。

 サツキは体の温度がざっと下がるのを感じた。黄泉神(よもつかみ)が臥せっている今、怨霊をどうにかできるのは――自分しかいない。

 決意を固め、サツキは立ち上がった。


「サツキ様っ!」


 白丸(しろまる)が声を上げるのを無視して御簾をはね上げた。(えん)の高欄ぎりぎりまで駆け寄り、印を組んで大きく息を吸った。


(あま)(つるぎ)――(あだ)災事(わざごと)、斬り捨てよ!」


 声を発した瞬間、何かが自分の背から前へと突き抜けてゆくように感じた。

 ――突風。苛烈な風が、寝殿の御簾という御簾を揺らす。刃となり、迫りくる怨霊たちに襲いかかる。

 斬。鋭い軌跡を描き、三体の霊が一度に断たれた。引き攣った叫びを残し、灰となって消えていった。


「……できた」


 とうとう自分の力で(つるぎ)の印を使うことができた。大切なひとたちを守ることができた。

 怨霊がここまで入り込んできたということは、今の燎原の様子は推して知るべしだろう。

 だが、この武器があれば――その深淵までたどり着けるかもしれない。


 小袖姿のままだった彼女に、白い手たちがすかさず巫女装束を持ってきた。

 (あか)(はかま)と白い(ひとえ)、そして千早(ちはや)に身を包み、長く黒い髪を後ろで軽く結ぶ。

 それから犬たちをまっすぐに見やった。


「私、イザナミ様の元へ行くわ。あの方をお鎮めして――ううん、清めてさしあげないと」

「……サツキ様、しかし」

「危ないのは分かってる。でも、こうしないと黄泉の国も、火垂様も元に戻らない」


 (しとね)に横たわる黄泉神(よもつかみ)を見やる。彼は再び意識を失い、蒼白い顔で眠っていた。

 身をかがめ、顔にかかった美しい髪をそっとよけてやってから、サツキは犬たちに向き直った。


「私が自力で燎原を越えることはできる? 火垂様がおっしゃるには、燎原の果てへ行ってはいけないのは、戻れる保証がないからだったはず。逆に言うなら、戻ることを考えなければ渡る方法があるんじゃないかしら」


 犬たちはじっと顔を見合わせた。沈黙が下りる。やがて黒輔が白丸の鼻をぺろりと舐め、そしてサツキを見上げた。


「よろしいでしょう。この黒輔、覚悟のうえお手伝いいたしまする」


 言って黒輔は目を閉じる。次の瞬間、黒輔の姿が、影の広がるように膨れ上がった。

 小さな前足が大きな鉤爪をそなえたものに変わり、鼻面が伸び、半分垂れていた耳が立つ。全身がしなやかな筋肉へと変化し、再び開いた目は黄金の色に輝く。

 大きな――天井に届きそうなほどに大きな黒い狼が、サツキの前に立っていた。


「我らが唯一の(つま)巫女(みこ)様――貴きサツキ様。あなたがため、我が真の姿を解放いたしました。どうぞ背にお乗りくださいませ。燎原の果てまで、我が脚が宙を駆けまする」


 低く響く声で黒輔は言う。サツキは驚きに目を見開いていたが、ゆっくりと歩み寄って、そのなめらかな鼻面を撫でた。


「……ありがとう。よろしくね、黒輔」


 すれば狼は目を閉じ、額をそっとサツキにすりつけた。

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