第20話 別離
何度目かに露姫を伴ってイザナミの祭壇を訪れたときだった。露姫が舞を捧げている最中、ふいに地がぐらりと揺れた。
黄泉の国に地震はない。ここはただ時が緩やかに過ぎゆくのみの場所、天変地異は決して起こり得ない。そのはずだ。
明らかな異常事態に、火垂は露姫の肩を強く抱き寄せる。露姫もまた驚愕して辺りを見回した。
――禍々しい気が迫ってくる。
血と泥の混ざったような、腐臭の漂うような気。
燎原の蒼い炎の彼方、底の見えぬ闇から朱い光が差し始めた。夕日が落ちるのを逆回しにしたかのごとく、着々と広がってゆく。
その光を背に、やがて巨大な影が現れた。
「火垂様、あれは?」
「分からぬ……退くぞ」
だが、間に合わなかった。
黒い影が押し寄せてくる。音を忘れた嵐雲のように。
そして一瞬にして、二人を呑み込んだ。
影に呑まれて分かった。これは、うごめく数多の手でできている。
手は四方八方より伸びて露姫をつかみ、火垂の腕から引き離した。
「……っ、露姫!」
「火垂様!」
奪われまいと手を伸ばす。しかし届かない。真黒い手また手に覆い隠され、愛しい人が遠ざかっていく。
――意識が、続かない。器の力が奪われてゆく。
ああ、守れない。そんなことは許されないのに。露姫、露姫、我が嬬よ――
***
次に目を開けたとき、視界を埋めていたのは蒼い炎だった。その向こうには、動かぬ星空が広がっていた。
自分が燎原の只中に倒れていることに気づき、火垂は飛び起きた。
「露姫? ――露姫!」
彼女の気配はどこにもない。朱い光も、黒い影も、あったはずの祭壇も――何もかも、跡形もない。
どこへ行った? 心の底では、答えを知っている。だが受け入れたくない。受け入れられない。
疼痛を訴える脚で立ち上がる。炎をかき分け、器の皮膚を灼きながら、懸命に歩いて捜し回った。
「露姫。どこだ、露姫……!!」
かくして彼は三日三晩、燎原をさまよい、愛しいひとを捜し続けた――いつしか夜のまま動かなくなった空の下、それほど長く捜していたとさえ分からぬままに。
やがて四日目の朝、同じく二人を捜索していた犬たちに発見され、黄泉の宮に連れ帰られた。
***
力尽きて褥に横たわる彼のそばに、犬たちが沈痛な面持ちで座る。
黒輔がしばらく迷うようにした末、小さな声で言った。
「主様、浄化を待つ魂が増え続けておりまする」
「怨霊になりつつあるものも見受けられまする」
白丸が言葉を継ぐ。彼は顔を歪めながら身を起こした。
「……分かっている」
彼が露姫を捜していた間も、死者は次々と黄泉へやってきている。それらを速やかに清めて来世へ送り出すこと、それだけが彼の役割にして存在意義。そのはずだったのだ。
だが――今は。
己に心が、意識が存在する意味は、畢竟、神としての役目のためではなかったのだと思えてならない。
彼の意を察したように、犬たちが再び口を開いた。
「露姫様は――黄泉の深淵へと連れ去られてしまわれたのです」
「もう、戻られることは……」
「言うなッ!」
主の大声に、犬たちはびくりと身を震わせる。
その姿を見て、彼の中に罪悪感が湧き起こった。
「――悪かった。お前たちは当然のことを言ったまでだ」
「いえ……」
「我らこそ、主様に差し出た口を……」
犬たちは耳の根元を下げ、身を寄せ合っている。
苦い味が彼の口中を満たす。今の己は、世辞にも神とはいえなかった。
愛しい、愛しい、恋しい。
彼女の声を、香りを、笑顔を思うだけで、喪失に胸が締めつけられる。悲しみの淵へと心が押しやられ、嘆きを知らなかった瞳から涙がこぼれそうになる。
この苦痛、この絶望。抱えたままでは、自分は二度と元のようには動けまい。
だが、神としての務めをこなさなければ、黄泉だけでなく現世にも災厄が及ぶ。――彼女の愛した世界が、滅亡へと向かう。
そのようなことは、決して許されない。
「役目を果たすことこそが我が定め――ならば」
彼は己の胸に手を当て、強く押し込んだ。手首まで埋まり、鮮血が流れ出る。
狼狽する犬たちの目の前で、胸の奥から引き出されたのは、金色の光の球。夜の虫のように明滅し、薄暗い宮を照らし出す。
彼の荒い息だけが室内に響く。犬たちは戦慄した。
「主様、それは……」
彼らには理解できた。
あれは、露姫への愛。露姫の記憶。
それを神としての核から切り離すこと――その意味は。
「これで、役目に支障は出ぬ――私は、黄泉の主宰神――黄泉神、だ」
言って彼は、掌の上の愛を握りつぶす。
光の球は幾百の粒となって飛び散り、消えた。
「……あるじ、さま」
「そんな……」
犬たちはきつく身を寄せ合う。見開かれた瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。
そんな二匹の顔を、黄泉神はただ無感情に見やった。
***
どこか遠い場所。生と死、夢とうつつの狭間。
ゆるやかな風の吹く場所。金の光を放つ虫たちの舞い踊る、静かな湿地。
そこに白い青年の姿がある。
平たい大岩に腰かけて、彼はただ星空を見やる。
恋しい、恋しい、愛しい。
喪われたひとの魂のありかを、彼だけが感じている。




