第2話 燎原の宮
犬たちが尾を振りながら歩き出した。先ほど黄泉神が去っていったのと同じ方向へサツキを導くつもりらしい。
「ささ、こちらへ」
「どうぞおいでませ」
口々に呼ばれ、サツキは恐る恐る足を踏み出した。擦り切れかけた草鞋の音が岩の地面に響いた。
しばらく行くと、洞窟の出口が見えてきた。ぼんやりとした青い光が半円を描いている。あの青は何だろう、と思いながら歩みを進める。答えはすぐに出た。
「……わ」
洞窟の出口は切り立った崖へ続いていた。
頭上には一面の青い夜空。月はなく、けれど星々が銀の粉を撒いたように広がっている。
そして崖の下には、蒼白い平原。否――果てしなく燃え広がる、蒼い炎。
音もなく爆ぜ、風に吹かれる草のようにそよぎ、この世のものとは思えぬ色で燃えている。炎の平原は見渡す限り続き、やがて底なしの闇へと消えていく。
「黄泉の燎原にございます」
息を呑むサツキのそばで黒犬が静かに言った。
「あの炎で死者の魂を灼き、憂いや怨みを清めて来世へと送り出すのでございますよ」
白犬も足を止め、片割れから言葉を引き取った。
「あの燎原こそ黄泉神様のお力そのもの」
「しかし近頃はめっきり炎が弱くなってきてございます」
「……そうなの?」
黒犬がうなずいた。
「はい。炎が弱くなれば、魂の怨み哀しみを十分に灼き切ることができませぬ」
「清められずに輪廻へ戻った魂は、それだけで周りに害を及ぼしてしまいまする」
「出た先が現在のような厳しい世であればなおのこと」
厳しい世。
サツキは故郷の村を思う。その周りの村々を、ごくたまに訪れる都の大路を思う。
飢えも病も絶えない。婚礼よりも葬式が多い。皆が懸命に生きていることは確かだけれど、それを上回る苦しみが日々襲い来る。
――そこに、清められぬままの怨嗟が積もり積もったなら。
きっと恐ろしい事態になるだろうことは、まだ何が起こっているかを把握しきれていないサツキにも分かる。
犬たちが熱い目でサツキを見上げた。
「ゆえにこそ、嬬巫女様のお力添えが必要不可欠!」
「何とぞ何とぞ、我らの元で清めの祝詞を捧げてくださいませ」
「……分かった」
サツキが頷くと、犬たちは嬉しそうに顔を見合わせて尾を振った。
***
「こちらが嬬巫女様のご逗留先にございます」
岩を削り出した長い階段を下りた先。
犬たちが指し示す建物を見て、サツキは絶句した。
「何これ……お貴族様の御殿?」
都へ行ったときでさえ遠目にしか見たことのないような豪邸だ。
豪勢な門をくぐれば、村の粗末な家が数軒すっぽり入ってしまいそうな建物がいくつも並んでいる。いずれも磨き上げられた木でできていて、それらを繋ぐ回廊さえも星の灯りに艶めくようだ。回廊と建物に囲まれるようにして、立派な庭と池まで整えられている。池に張り出した小さな建物は何だろう。釣りでもしろというのだろうか。
白犬が、てん、と首を傾げた。
「オキゾクサマのゴテンというのは存じませぬが……こちらは黄泉の宮にございます。黄泉神様もこちらにお住まいです」
「嬬巫女様のおいでに合わせて、現世の最新流行式に調整いたしました」
「そう……なのね」
最新流行式と言われても、雨風しのげればという程度の家にしか暮らしてきたことがないので分からない。
怖気づけばよいのか、逆に全力で珍しがった方がいいのか、もはや当惑するほどの豪勢さだった。
そんなサツキの気持ちを知ってか知らずか、黒犬が尾を振った。
「嬬巫女様、まずはこちらへ。湯殿がございます。ゆるりとおくつろぎくださいませ」
***
まともな湯殿というものにサツキは初めて行き会った。
村では真冬でも身を切るような冷たい水で体を洗う。だがここには天然の温泉なるものがあるという。
屋敷の裏手、よい香りのする木でできた壁の内側、岩で囲われた浅い穴に、熱い湯が滾々と湧いている。
白犬がちょいちょいと爪先で湯をつつき、「あちち」と言いながら慌てて引っ込める。黒犬が得意げに胸を張った。
「黄泉の国自慢の湯殿でございまする。まずは先ほどのお部屋で衣をお脱ぎになり、掛け湯でお体を清め、続いてゆっくりとお浸かりくださいませ」
「そんなことしていいの?」
「もちろんでございます! あなたは我らが嬬巫女様なれば!」
「うん……」
嬬巫女、嬬巫女と言われても、サツキにはまだ状況が把握できていない。意味不明すぎて逆に肝が据わってきたような気もする。
「じゃあ、遠慮なく使わせてもらうね」
「はい! 我らはお外でお待ちしておりますので、何かございましたらすぐにお声かけを」
「分かった、ありがとう」
犬たちがぴょこぴょこと湯殿を出ていく。それを見送ってから、サツキは汚れた小袖を脱いで畳み、ほどいた襷で黒い髪を結い上げて、改めて湯気の立つ戸外へと踏み出した。
木の手桶で湯を汲み、恐る恐る触れてみる。熱いが、火傷をするような熱さではないように思った。そっと足元に湯をかけてみれば、なぜか指先で測ったよりもさらに熱く感じられたが、気持ちはよかった。たっぷり湯があるのをいいことに、何度も手桶に汲んでは全身にゆっくりとかけ、畑仕事でこびりついた土汚れを丁寧に落とした。
身を清め終わったところで、足先からゆっくりと湯に身を沈めてみた。肩まで浸かると、全身をめぐる温もりに溜め息がこぼれた。無意識に目を閉じて首を逸らし、まぶたを開ける。頭上に広がる満天の星空が湯気に煙り、夢でも見ているかのようだった。
(……なんか、すごいことになっちゃったな)
村のみんなは今頃どうしているだろう。心配されているに違いない。
せめてみんなにも、この温もりを分け与えてあげられたらいいのに。胸の奥がつんと痛んだ。
湯から上がると、汚れた小袖の隣に新しい衣が準備されていた。簡素な色柄のものではあったが、袖を通した瞬間、いつもの衣のがさつく繊維とは全く違う感触に驚愕させられた。鳥の羽根のように滑らかで、何も着ていないように軽い。貴人の衣装とはこういうものなのだろうか。慣れてはいけない気がした。
湯殿を出ると、犬たちがちょこんと座ってサツキを待っていた。愛らしいその姿に、口元が小さくほころんだ。
「ふたりとも、この小袖まで用意してくれたの? ありがとうね」
「無論にて!」
「当然にございます!」
子どものような声で犬たちは応える。そこでサツキは大切なことに気づいた。
「ねえ、あなたたちの名前は?」
すると犬たちはぴたりと動きを止め、互いを見つめ合った。丸い瞳が小さく揺れる。何かまずいことを尋ねただろうか、とサツキが思ったときだった。
犬たちが揃って姿勢を正し、こうべを垂れた。
「我が名は黒輔にございます」
「我が名は白丸にございます」
「これらは我らに与えられた大切な名につき」
「以後何とぞ、このようにお呼びくださいませ」
揃って顔を上げ、こちらを見つめる犬たち――黒輔と白丸の目は、至極真剣だった。
時にはしゃぎ、時に不仲の親を取り持とうとする子どものような振舞いは、いつしか影を潜めている。
なぜだろう、今の彼らの顔は、深い深い喪失を知る老爺のそれのように見えた。
「……分かった。黒輔、そして白丸ね」
サツキが言うと、犬たちはぱっと顔を輝かせ、大きく尾を振った。
「はい、黒輔にて!」
「白丸でする!」
「ではでは、お部屋へご案内いたしまする」
「ええ、お疲れでしょうから」
「どうぞごゆるりとお休みくださいませ!」
一瞬にして、先ほどまでのはしゃいだ犬たちに戻ってしまった。
ちぎれんばかりに尾を振り、黒輔と白丸は屋敷の方へ歩を進める。サツキは古い小袖を抱え、その後へと続いた。




