第19話 黄泉津大神
翌月、「火垂」の名を得た黄泉神と露姫は婚礼を挙げた。
犬たちに見守られるだけの静かな式だったが、誓いの盃を交わして正式に縁を結んでから、神の核と巫女の魂の共鳴はいっそう確かなものとなった。
これまでにはできなかったことも、二人であればできるようになるはずだという確信を彼は得た。
露姫の存在は、火垂にとって拠り所であり、当たり前だった孤独から自分を掬い上げてくれた、幸福の具現だった。
ある日、朝の清めを終えたあと、火垂は露姫を燎原の縁へと連れていった。
露姫を抱き上げて頭の中でまじないを唱え、銀の靄へと溶ける。次の瞬間には、二人揃って違う場所にいた。
そこは、見渡す限り蒼い炎に囲まれた、燎原の空白であった。黒い土の上には小さな祭壇が設けられており、磨き上げられた鏡と真新しい榊の枝が飾られていた。火垂は腰から下げていた容れ物から澄んだ水を銅の器に注ぎ、枝と鏡の前に置いた。
祭壇の先を見やれば、蒼い炎がいっそうの冷たさを帯びて揺らめき、塗り込めたような真黒い闇へと溶け消えていく。その闇の奥は、さながら底なしの穴でも広がっているかのように、いくら目を凝らしても見えなかった。
抱き下ろされた露姫がその光景をじっと見つめ、次いで問うように見上げてきた。
火垂は薄い微笑みを返し、静かに告げた。
「……ここに黄泉津大神をお祀り申し上げている」
「黄泉の主宰神としてのイザナミ様ですね?」
「ああ。お前ならば、彼女に何があったか知っているだろう?」
すれば露姫は頷き、祭壇をじっと見つめた。
「神産みの女神であらせられたけれど、火之迦具土神をお産みになられた際の火傷が元で亡くなられた。黄泉まで追ってこられた夫のイザナギ様に腐乱したお姿を見られてしまい、やがて黄泉比良坂で永遠の別れとなった」
「そうだ。以来、彼女はこの燎原の最奥、黄泉の深き淵に隠れておられる」
露姫がきゅっと口を引き結ぶ。丸い瞳が揺れた。
「……おつらいでしょうに」
そっと吐き出されたその一言に、彼女のあり方がにじみ出ていた。
火垂は露姫の肩をそっと抱き寄せ、改めて燎原の最奥を見やった。
「かの女神の抱く怨嗟はきわめて深く、並の儀式で清められるものではない。そも、黄泉の深淵に足を踏み入れた者が戻れる保証はないがゆえに、彼女にまみえることもほぼ不可能に近い」
ざわ、と風が吹く。生ぬるい――どこか饐えた臭いを伴うような風。燎原の奥から吹きつけ、彼らの髪を揺らしていく。
火垂は小さく息をついた。
「私に――我々にできるのは、せめて静かにお眠りいただけるように努めることのみだ。これまではお前に悪影響が及ぶことを恐れ、ここへは連れてこなかったが、今の我々は確固たる縁を結んでいる。新たに得た力を撚り合わせ、共に女神をお慰め申し上げよう」
「……分かりました」
露姫がふいに巫女の冠を脱ぎ、祭壇に置いた。そして両の手を合わせ、静かに祈り始めた。
女神に美しきものを捧げようというのだろう。確かにこれまでの祭壇はひどく殺風景だった。
彼女の意を汲んで火垂は微笑む。そして隣で手を合わせ、頭を垂れた。
面を上げた露姫が、榊の枝を祭壇から取り上げ、ゆっくりと舞い始めた。
ぬるい風に白い衣が揺れ、空気を涼やかに変えてゆく。火垂はそれを見つめながら、イザナミに捧げる祝詞を唱え始めた。
一通り聞いて覚えたのだろう、二度目からは露姫も唱和し始めた。二人の声は風に逆らい、燎原の炎の上を渡っていった。
***
ぞろり、と腐った肉が地を這う。
骨が見えるほど溶けた指先が伸べられ、力なく落ちていく。
乱れた黒髪の間から、黄色く濁った瞳が覗く。
それらすべてが闇の中。腐臭の漂う、ぬるい空気の淀む涯て。
これなるは黄泉の深淵、誰もたどり着けぬ底の底。
ここにおわすはかつての神産みの母、今や喪失と怨嗟の化身。
誰よりも愛した男に、美を失って捨てられた女。迎えに来てくれたはずの夫に、逃げ帰られて閉ざされた妻。
心を動かすは憎悪のみ。身を震わすは孤独のみ。
汚泥のような感情に溺れ、もう幾千幾万の夜を過ごしたろうか。
黄泉神の日々の祈りは聞こえているが、恋も知らぬ冷たい男に何が解ろう。
その耳にふと、聞き慣れぬ声が届いた。
やわらかく清らかな――若い女の、声。
かけまくも畏き伊邪那美命
燎原が涯てにおわす黄泉津大神
諸々の怨み、穢れをば、思し忘れ安らけく眠らせ給え
子守歌のような響き。そっと寄り添うような優しい音色。
目を凝らせば、歌い踊る女の姿が見える。美しい冠を脱いで祭壇に捧げ、簡素な巫女の衣だけをまとって舞う姿が。
ああ――あの娘ならば。
我が痛みを解するやも。同じように恋を知るやも。
あの娘がそばにいたならば。怨み、憎しみ、――幸福だったこと、とりとめもなく語り合えたならば。
そうであれば、どれほどよいだろう。
濁った瞳に涙が滲む。腐った血と混ざり、痩けた頬を伝い落ちていく。
友が欲しい――というのは、この女神にとって初めての願いだった。




