第17話 白き乙女
燎原の炎の只中に、乙女の姿があった。
白い単に小袖、袴をまとい、長い黒髪をゆるやかな風になびかせて、戸惑いがちに辺りを見回している。
彼女の足元を黒く汚れた魂たちが這う。黄泉では当たり前の光景だ。だがなぜか彼女だけは、怨みの穢れを帯びていなかった。
黄泉神はその姿を神楽殿から見下ろした。しばらく考えてから右の手を伸べる。
すれば白き乙女はふわりと宙に浮き、燎原から神楽殿へと引き上げられた。
改めて近くで見れば、その姿はうっすらと透けていた。彼女に肉体がないことの証左だった。
乙女はもう一度、背後の燎原を振り返り、そして黄泉神に目を戻した。
「――ここは黄泉の国ですか?」
「ああ」
黄泉神がうなずくと、乙女は切なげにまぶたを伏せた。
「そう。やっぱり私は死んだのね」
呟いてから、乙女は顔を上げる。小さな口元に人好きのする笑みが浮かんだ。
「美しいところですね。話に聞いていたのと全く違う」
「そうか。我が国を褒められるのも、悪い気はしないものだな」
その答えに乙女は軽くまばたいた。
「あなたが黄泉の主宰神でいらっしゃるの?」
問われた黄泉神は小さく笑んだ。
「まあ、事実上はな。――死せる魂を清め、次の世へと送り出す。それが私の役目だ」
「なら、私のことも送り出してくださる?」
黒に近い褐色の瞳が彼をじっと見上げた。
「やり残したことがたくさんあるんです。早くまた生まれ変わって……ああ、でも来世で必ず人間になれるわけではないのよね」
まぶたを伏せ、乙女は呟く。黄泉神は軽く首を傾げた。
「ずいぶんと急くな。お前はなぜ死んだのだ?」
すれば乙女は寂しげに笑んだ。
「疫病です。人々が治癒するようにそばで祈祷をしていたら――私も病を得て」
なるほど巫女か、と黄泉神は思う。
だが神に仕える存在であっても所詮は人間だ。怨嗟や呪詛と無縁の者の方が珍しい。この乙女の存在がこれほどに澄んでいることは、黄泉神にとって新鮮な驚きだった。
「怨めしくはないのか。その若さで病に斃れたことが」
黄泉神に問われ、乙女はかぶりを振った。
「いいえ。常にやれるだけのことをやってきましたから。苦しんでいる人を見ると、私も苦しくて……何かせずにはいられなくて。ずっとそればかりでした」
そこまで言ったところで乙女は口をつぐみ、燎原を振り返る。
さわ、と吹いた風が、また彼女の黒髪を揺らした。
「でも――そうですね。こうして死んだ以上、私にできることはなくなってしまったのが、悔しいといえば悔しいです」
「いや、そうでもない」
黄泉神が言うと、乙女が向き直った。彼の言葉の意味を推し量るように、丸い瞳がじっと見上げてくる。
そのまなざしに応えて、黄泉神は微笑んだ。
「私と契約しないか。私の巫女になってもらいたい」
「え?」
乙女はきょとんと目をしばたたいた。
いつしか黄泉神の眷属である犬たちも姿を現わし、彼の背後に物言わず控えていた。
犬たちの静かな賛同を感じ取りながら、彼は乙女の瞳を見返した。
「先ほども言ったとおり、私の役目は死者の魂を清めることだ。怨みや呪いを残したままの魂を次の生へと送り出してしまえば、その魂の持ち主が苦しむだけでなく、現世そのものにも災厄がもたらされかねない」
「……災厄」
乙女の表情に緊張が走った。澄んだ瞳が惑うようにさまよう。黒い髪に燎原の蒼い炎が美しく照り映えている。
黄泉神は小さく笑み、白い面をそっと覗き込んだ。
「大概のことは私一人でどうにかしているが、力が及ばないこともある。そういったときに助力してくれる者があれば、私としてもありがたいのだ」
「なるほど……」
乙女は口元に片手を添えて考え込んでいる。真剣な表情には、どこか得も言われぬ愛嬌があった。
「まさか死んだのち、神様にこのようなお声かけをいただくとは思いませんでした」
「ゆっくり決めてもらって構わないぞ。無論、断ったとて、お前に不利益はもたらさない」
「いえ、もう心は決まりました。あなたの巫女になりましょう」
ふっくらとした唇が微笑み、決然と告げる。黄泉神は目をしばたたいた。この乙女はどうやら見た目以上に豪胆なようだった。
犬たちが両隣で静かに尾を振っている。彼らもまた、初めての黄泉の巫女を受け入れたらしい。
黄泉神はそっと乙女の手を取った。彼が触れた瞬間、薄く透けた魂の身に、ふわりと血が通った。
「名前を聞かせてくれ」
「露と申します。露姫、と皆には呼ばれておりました」
「露姫か。儚げだな」
「露よりも、海だの川だのが似合うと言われてございます」
「ふふ、そうか」
露姫は首を傾げ、黄泉神の顔を見上げた。
「では、あなたのお名前は?」
意外な問いに彼は一瞬、虚を突かれた。
「……名といえる名はない。ただ『黄泉神』とのみ呼ばれている」
「そう、ですか」
露姫は眉を下げる。そのことの意味がよく分からず、彼は戸惑った。
「どうした? 何かまずいか」
「いえ、そういうわけではございません」
白き乙女の細い指が、そっと彼の手を握り返した。
「不束者ですが、よろしくお願い申し上げます。黄泉神様」




