第16話 露姫
――露姫。
露姫、露姫、露姫。
黄泉神の口にした名が、耳の奥にこだまする。
言葉にできないさまざまの感傷が去来し入り乱れ、サツキの胸を詰まらせる。
なぜ。なぜだろうか。
初めて聞く名のはずなのに、そんな気がしないのは。
荒い息をつきながら、改めて周囲を見回した。白い手たちはいつの間にか姿を消していた。犬たちは暗がりで身を寄せ合い、丸い瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。
サツキは渇いた口で唾を呑み、かすれる声で呼びかけた。
「黒輔、白丸」
犬たちはびくりと顔を上げる。その表情を見るだけで、なぜかこちらも泣きそうになった。
だがぐっとこらえて二匹を見やり、サツキは問うた。
「教えて。あなたたちは――私の知らない何かを知ってるでしょう」
すれば、犬たちが大きく身を震わせた。
「露姫というのは、誰のことなの?」
しん、と辺りが静まり返る。白い手たちが点していった松明の、じり、と焦げゆく音だけが響く。
やがて黒輔と白丸が、今にも消え入りそうな声を発した。
「露姫様は……」
「先代にして初代の嬬巫女様にございます」
ずくり、とサツキの胸が痛んだ。
だがその感情をつかまえる前に、犬たちがじっと彼女を見やった。
「あなた様は――露姫様と瓜二つ」
「我らも初めてあなた様をお喚びしたとき、少なからず驚きました」
「……え」
呆気にとられるサツキの前で、犬たちは再び悲しげにうつむいた。
「しかし、そのようなはずはないのでございます」
「なぜなら露姫様は……露姫様は」
「その人は……どうなったの?」
サツキは問いかけた。ごく小さな声。だが犬たちの耳には届いたようだった。
彼らは耳の根元を深く、深く下げた。
「露姫様の魂は、燎原の彼方へと連れ去られてしまいました」
「つまりもう、いずこにもおられませぬ」
――燎原の彼方。
あの、どこまでも続く蒼い炎の向こう。
だがそう言われれば、当然の問いが浮かぶもの。
「連れ去ったって、誰が? 黄泉にいるのは私たちだけじゃないの?」
すれば、犬たちは再び身を震わせた。
澄んだ瞳に怯えの色が浮かぶ。永遠とも思われるような沈黙ののち、ようやくその口が開いた。
「……黄泉津大神様が」
「かけまくも畏き、伊邪那美命が」
その名を聞いたとたん、ずくり、と心の臓が痛んだ。
背筋に得も言われぬ寒気が走った。
「それって……」
火垂が夢で教えてくれた祝詞に出てきた名前ではないか。口にすることで『呼び寄せかねない』と白丸が言っていた、あの。
頭の中がちくちくとする。何かを思い出しそうで、思い出せない感覚。
犬たちがぽつり、ぽつりと語り始めた。
「イザナミ様は、神産みの女神であらせられます」
「伊邪那岐命の愛妻であられました」
「火の神をお産みになられたときに、火傷によって肉の身を失われ、黄泉へおいでになりました」
「遺されたイザナギ様はひどく悲しまれ、黄泉まで追ってこられました」
「しかし燎原の縁でイザナギ様の目に映ったのは、焼けて腐乱されたイザナミ様のお姿」
「イザナギ様は怯え、嫌悪され、現世へ逃げ帰ってしまわれたのでございます」
凄絶な物語に、サツキは返す言葉を失う。
犬たちは切なげな瞳でこちらを見やり、話し続けた。
「愛する夫君に捨てられたイザナミ様は怒り悲しまれ、遠き燎原の果てへお隠れになりました」
「以来、黄泉神様は、燎原で魂を清められるかたわら、日々イザナミ様を鎮めておいでなのです」
「そう、だったの? じゃあもしかして、朝の儀式を終えたあとに、黄泉神様が消えてしまうのは……」
黒輔がうなずいた。白丸が切なげに目を細めた。
「はい。燎原の只中に、イザナミ様を黄泉の主宰神としてお祀りする祭壇がございます。黄泉神様はそこへ通われ、日々イザナミ様をお鎮めするための手立てを講じておいでです」
「祭壇があるのは、我々がゆけるぎりぎりの位置。それよりもさらに奥へ、露姫様は連れ去られてしまいました」
「ですから、あの方が戻られることは決してないのでございます」
「……そのはず、なのでございます」
サツキの胸はおそろしい速さで鼓動していた。何かがどうしても引っかかった。
言いたいことがあるような気がして、けれどなぜか言葉にできない。
口を開けては、息だけを吐いてまた閉じる。それをただ繰り返した。
ふと、手を引かれて我に返った。
「露……姫」
ああ、黄泉神の手を握ったままだったのだ。脈打つような発熱は今も続いている。
美しい男は震える息を落とし、褥からゆっくりと身を起こす。サツキは慌てて彼に向き直った。
「黄泉神様、いけません。横になってください」
すれば黄泉神は何も言わず、サツキの手を持ち上げ、頬を寄せた。
切れ長の目の端から涙が伝い、サツキの手の甲にぽつりと落ちた。
雷がサツキの体を駆け抜けた。
手の甲から腕へ、頭へ、爪先へ。
両の目から熱い涙がこぼれる。閉じたまぶたの裏に光があふれる。
よみがえってくる。涸れた大地に緑の芽吹くように。
長く、長く溜め息をつく。
ゆっくりと犬たちの方を振り返った。
そして頬を伝う涙を拭くこともなく、サツキは言った。
「露姫は……私だわ」




