第14話 妄執
「……やっと、会えた」
震える声に、ゆっくりとまぶたを開けた。
夜の空、甘い水の香り、白い光の舞う湿原。
サツキは大きく平たい岩の上に横たわり、微笑む火垂に見下ろされていた。彼の膝を枕にしていたことに気づき、慌てて起き上がる。大きく優しい手にそっと背を支えられた。
ああ、彼が夢に出てきたのはいつぶりだろうか。
黄泉の魂が荒ぶり始めてから、すでに一月以上が経っていた。状況は変わらないどころか、少しずつ悪化している。燎原を這う魂たちは次々に怨霊化し、清めの儀式は長引くばかり。神楽殿に侵入してのける怨霊も増えつつあった。サツキは黄泉神と共に霊を鎮めることにただただ必死だった。一生懸命に働き、消耗しきり、夜が来れば夢すら見ない深い眠りについていたのだ。
こちらを見つめる火垂の黒い瞳が、潤んで揺れた。
「もう二度と会えないかと思ってしまったよ」
哀しい三日月のように弧を描く唇から、寂しげな声がこぼれた。
サツキは座り直し、黒い珠のような瞳を覗き込んだ。
「火垂、ごめんね」
さわ、と風が吹く。目覚めている間の狂騒など嘘であるかのように、二人の髪を穏やかに揺らしていく。
「私も会いたかったけど、必ずあなたの夢を見られるわけじゃないの。最近は何の夢も見ない時の方が多くて」
「分かっているよ。私たちが繋がりえていることは、幸福な幻のようなものだ」
火垂は切なげに微笑み、サツキに手を差し伸べた。
「幻でなければどれほどよいか。本当ならどこへもやりたくないよ」
すべらかな手がサツキの頬にふれる。優しく撫で、包み込む。
「もしも君が、ずっと私のそばにいてくれるなら……どれほど幸せか」
ずきり、と胸の奥が痛んだ。なぜだろう――呼吸が止まりそうなほどの切なさが、体の底から湧き上がってくる。
思わず、私も、と答えそうになった。
けれど現実がよぎり、思いとどまった。
「……そうはいかないの、火垂」
声を絞り出す。火垂の瞳がまた揺れた。
けれど出てきた言葉をなかったことにはできなかった。
「だって、夢は必ず醒めるでしょう? それに私、あと二月半で現世に帰らなくちゃいけないもの」
ふつり。
周囲の蛍がふいに光るのをやめた。
こちらを見る火垂の目は、塗り込めた夜闇のようだった。
「――何だって?」
「帰らなきゃいけないの。一年間の契約が終わるから。だから、その前にしっかり御役目を果たして……」
火垂の手が小さく震え始めた。サツキの頬から滑り落ちていく。思わず握りしめると、すがるように握り返された。
「君は、戻ってきてくれたんじゃなかったのかい?」
「……何の話?」
『戻ってくる』。頭の中で何かがちかちかと明滅する。むず痒い、落ち着かない感覚。
だがその正体にたどり着くより先に、火垂がサツキの手を振り払った。
「あいつもどうかしている。契約? 手放すのか? 君を?」
大きく溜め息をつき、火垂は立ち上がる。かぶりを振りながら近くを歩き回り始めた。
サツキは固唾を呑んだ。彼の背中から一瞬、黒い靄のようなものが立って見えたからだ。
何かよからぬものが彼に憑いているような――そんな気配だった。
蛍たちが再び薄く光りだす。その明かりの中で火垂はふいに腰を折り、何かを摘む。
サツキの元に戻ってきた火垂は、左の手をすっと差し出した。
「……食べるかい? サツキ」
「え?」
彼の手のひらの上には、薄い朱色の木の実が数個のせられていた。
「木苺、好きだったろう?」
「好き……だけど」
そんなこと、いつ彼に教えただろう。それに、好きな食べ物をくれるにしても、いささか唐突に過ぎはしないか。
だが戸惑いなど無視するかのように、彼は木苺を一個つまみ、サツキの口元へと近づけた。
「口を開けて」
ざわ、と心が波立った。何かが危険を告げていた。
「……待って、火垂」
脳裏に響いたのは、黄泉神の声だった。
――お前はいずれ現世へ帰る契約であろう。
――なれば黄泉の国の食物を一切口にしてはならぬ。
ああ、そうだ。言われたではないか。
「食べたら私、帰れなくなってしまうんじゃないの?」
火垂の背から、黒い靄が再び、ざわりと立ち上がった。
彼のこぼした密やかな声は、寒くなるほどの孤独をにじませていた。
「そうだよ」
長い指が木苺の実を押しつけてくる。表面の小さな棘が唇を刺す。
「君を二度と失わないで済むならば――私は、いっそ」
「……っ、だめ!」
サツキは夢中で火垂を遮った。
唇と彼の指の間に手をねじ込み、木苺を握りつぶす。小さな果実はサツキの手の中で潰れて、流れる血のように指を濡らした。
火垂が我に返ったように目を見開く。黒い靄が薄れていく。
彼は何かを言おうとして口を開き、また閉じる。よろよろと数歩後じさり、湿地の泥の中に膝をついた。
黒い瞳は今にも泣き出しそうに濡れている。長い睫毛が震え、絶え入りそうな声が耳に届いた。
「嫌だ。行かないでくれ」
何も言うことができず、サツキは火垂を見つめる。
彼の頬をとうとう一筋の涙が伝った。
「お願いだ、サツキ――私の■■■■」
ざわ、と湿原中の蛍が飛び上がった。点滅しながら狂ったように宙を舞う。
火垂の言葉の最後は、その羽音でかき消され、聞き取れなかった。
ふと、火垂が振り返った。
そして吐息混じりの震え声を発した。
「ああ――朝が」
見やれば、地平線が朱色に染まり始めていた。刻一刻と、その色は濃く、禍々しくなっていく。
火垂が振り返った。その表情は何ゆえか、ひどく悲壮だった。
「逃げろ、サツキ」
「え? 待って、ねえ。どういうことなの、火垂」
サツキは岩から下りる。混乱のまま、火垂の顔と明けの空を見比べた。地平線に何かの影が見える気がした。
「捕まってはいけない。私はもうだめだろうけれど、君だけは逃げてくれ」
「捕まって……って、何に? あの影に? 『もうだめ』ってどういうことなの?」
「いいから西へ走れ。目覚めよ、と念じるんだ。さあ、早く!」
言って火垂はサツキの肩を押す。サツキが振り返りつつも駆け出すと、火垂はこちらに背を向け、東へ向き直った。
彼が印を組み、何かを唱えているのが分かった。
「かけまくも畏き伊邪那美命、燎原が涯てにおわす黄泉津大神……」
湿原の泥に足を取られぬよう必死に走りながら、ちらりと振り返る。
そのとき、朱い光を背にした影が一瞬にして膨れ上がった。黒い波が奔るように広がり、火垂の姿を呑み込んだ。
「火垂!!」
叫んだ瞬間、足元がぐるりと回転した。青い夜空、泥、光、闇。最後に耳に残ったのは、高笑いする女の声だった。
***
サツキは飛び起きた。全身にひどく汗をかいていた。
荒い息をつきながら周囲を見渡す。いつもの自分の部屋だった。
ふいに、説明のつかない悲しみが押し寄せてきた。臓腑を叩き、喉元を掻き、熱い奔流となって両の目を押す。
(……火垂)
サツキは手のひらに顔を埋め、耐えきれずにすすり泣いた。




