第13話 荒ぶる魂
『優しい娘。
汝はまことに、優しい娘よ。
ゆえにこそ、戻ってきたのであろう?
さあ、来るがよい。
今度こそ――わらわの元へ』
***
ぼんやりする頭を抱えてサツキは起き上がった。
奇妙な夢を見ていた。いつ、どこでだったか、聞いたことのある声が――絹のようにすべらかな女の声が、自分に呼びかけてくる夢だ。
応えるべきであるように感じた。それでいて触れてはならぬような感覚もあった。起きてもその葛藤は消えるどころか、ますますサツキの胸中で荒ぶり始めた。
(――誰なの)
人影のない部屋の中を見回す。衾を押しのけて寝床から出た。
やけに暑い気がした。どこからともなく嫌な臭いが漂ってくる。――腐肉のような臭いだ。
死の国であるとはいえ、黄泉の空気は常に涼やかで清浄だった。こんなことは初めてだった。
「何なの、これ?」
思わず呟く。そこに高い声が響いた。
「嬬巫女様ーっ!」
「大事にございます!」
見れば、黒輔と白丸が庭を駆けてくるところだった。
常には朗らかな犬たちの顔に浮かぶ緊張に、サツキは固唾を呑んだ。
***
神楽殿に立ったサツキは言葉を失った。
燎原の炎が乱れている。嵐に吼える川のように、唐突に高く燃え上がり、かと思えば低く這い、見たこともないような黒い煙を吐いている。
そして乱れ舞う炎の中で――魂たちが荒れ狂っていた。
黒い穢れに覆われた形のない魂が、蒼い焔に転がされ、声にならない叫びを上げている。耳ではなく、頭の芯に直接反響するその音が、背筋を絶え間なく粟立たせる。
人の形を残している怨霊が、身をよじりながら燎原の底を這い、落ちくぼんだ目で道連れを探している。腐りかけた肉がずる剥け、えもいわれぬ悪臭を放っている。
まさに地獄の惨憺。
狂える魂たちがこちらへたどり着けずにいるのは、ひとえに黄泉神が右の手をかざし、結界のようなものを張っているからだった。
「――来たか」
黄泉神がちらりとサツキを見た。美しい眉がごくわずかに、しかし苦しげに寄せられていた。
「祝詞を捧げよ。私だけでは長くもたぬ」
「……っ、はい!」
榊の枝を握り、いつもの祝詞を唱えた。
心の臓がどくり、と大きく脈打つ。黄泉神の核と自分が重なり合うのを感じる。
目の前に一瞬、波紋のような模様が走った。魂たちの怨みの声がほんの少し、遠ざかる。祝詞によって結界が強化されたのだろう。
サツキは黙って榊の枝を鈴に持ち替えた。そして一歩を踏み出し、結界の手前で舞い歌い始めた。
サツキの歌舞に合わせるように黄泉神が印を結ぶ。すれば炎が少しずつ常の様相を取り戻してゆく。形のない弱い魂たちは、厚くまとった怨恨を焼かれ、やがて白く光って消えてゆく。
だが怨霊たちはそうはいかなかった。腐った肉と骨はやがて燃え尽きた。だが残った魂の核は黒く穢れたまま、怨み憎しみの声をサツキの脳裏に響かせ続ける。
じわり、と脂汗が浮かぶ。もうどれほど舞い、歌っただろう。
嬬巫女の歌舞はただの歌舞ではないことを、サツキは今ようやく理解した。これは己を己ならざるものに響かせるための行為。ゆえに、長く続ければ芯から消耗するのだ。
目がかすんできた。心身の限界が近づきつつある。焦燥が心に忍び込み始めた。
大きな手がそっと肩に触れたのは、そのときだった。
「そこまでにしておけ」
「……黄泉神様?」
サツキは驚いて顔を上げる。そのとたんに足元がふらついた。転びかけたサツキを、仮初の夫がしっかりと受け止めた。
わっと頬が熱くなった。頭の中を一瞬にして、自問自答が駆け抜けてゆく。
酷薄の具現だったような黄泉神が少しずつ変わりつつあると思うのは、気のせいだろうか。こちらに向けられている優しさがあると思うのは――自惚れ、だろうか。
だが――これ以上、考えられない。立っているのがつらい。
かすむ目を閉じる。そのままサツキは意識を手放した。
***
体が揺れる感覚で目を覚ました。慌てて起き上がるや、低い天井に頭をしたたかにぶつけてしまった。
「いっ、たたたぁ……」
サツキは涙目で頭を抱えた。呆れたような溜め息がそばから聞こえてきた。
驚いて顔を上げる。そこには黄泉神の姿があった。自分たちが今いるのは――牛車の中。いつもサツキを燎原へと運ぶ車に、黄泉神が共に乗っているのだった。
「黄泉神様……どうしてここに?」
当惑するサツキに、涼しい面の男はただまばたいた。
「なぜ、と?」
「はい……いつも儀式が終わったら、ご自分だけでどこかへ行ってしまうのに」
すれば黄泉神はつい、と顔を背ける。いつもの無表情で、それでいて何かをごまかすように、物見窓から外を見やった。
「巫女が倒れたならば、宮まで送るは道理であろう。眷属のみには任せられぬ」
「えっと……」
眷属、とは犬たちや白い手のことだろう。
これまでずっとサツキの面倒を見てきた彼らにも任せられないというのは――彼なりに心配をしてくれてのこと、なのだろうか。
牛車が動きを止めた。ご到着にございます、と外から黒輔の声がした。
白い手が御簾を上げる。黄泉神が先に降りたかと思うと、両腕を伸べてサツキを抱き上げた。
「わっ!?」
「頓狂な声を上げるな」
冷たく言って、黄泉神は宮の北の対へと歩き始めた。
「清めきれなかった魂には、明日改めて対処する。今日はよく休養せよ。よいな」
その声は静かで、穏やかだった。
また、とくり、と心の臓が鳴った。
そっけない優しさ。淡々とした気遣い。――火垂と全く同じ顔。
(……だめ)
サツキは顔を伏せ、強く拳を握り締めた。
自分がここにいるのは、役目を果たすためではないか。
現世を救う役目を果たしたら、すべてに別れを告げねば。黄泉神にも、火垂にも。浮ついている場合ではないのだ。
もしこのまま、ふたりの優しさに溺れてしまったら。
自分はどこへも帰れなくなるかもしれないのに。
ふと、魂たちが荒ぶっていることへの気がかりが再び頭をもたげた。
今日だけのことであってほしかった。だが、この異常はほんの皮切りにすぎないだろうという奇妙な予感が、サツキの中にはあった。




