第12話 旋風
サツキは毎朝、剣の印を組む練習を続けた。どこからともなく旋風が湧き起こるような感覚は、練習を重ねるたび、徐々に強くなっていった。
その感覚にサツキはひたすら意識を集中させた。この風がきっと怨霊を斬るのだ。そしてそれを操ることができるのは、おそらく自分の思いのみ。なれば、呪言を唱える一瞬に全身全霊を費やすのが最善のはずだった。
いつしか練習していることを犬たちにも知られた。彼らはちょこりと庭の隅に座り、サツキが練習を終えるのを見守ってくれるようになった。
「嬬巫女様がこうして身を守るすべを覚えてくださるのは、喜ばしきことにございます」
「左様。先日のようなことはきわめて珍しいとはいえ、今後も二度とないとは言えませぬから」
「そうなんだ……」
練習を終え、白い手の力を借りて朝の装束に着替えるサツキは、黒輔と白丸の言葉に目をしばたたいた。
確かに、清めの儀にこういった危険が伴うのであれば、犬たちは先に説明してくれていただろう。それに、気づけばサツキが黄泉の国へやってきて半年近くが経とうとしている。その間、清めの儀が乱されるような事態は、先日のただ一度きりだった。そうである以上、「きわめて珍しい」という白丸の言葉に嘘があるとも思えなかった。
印を組む練習は、ことによれば無駄に終わるのかもしれない。だが火垂に教えてもらったこと、黄泉神に鍛えてもらったことを忘れたくはなかった。
それに――犬たちの言葉とは裏腹に、いつかこれが必要になるような気がしてならなかった。
***
サツキが剣の印を学んで、およそ一カ月後の朝だった。
いつものように白い小袖と赤い袴、文様の入った千早の巫女装束に着替え、白い牛の牽く車に乗って、燎原の縁へと向かった。
黄泉神は神楽殿の上でいつも通りにサツキを待って(まあ、待っていたのかいなかったのかよく分からない冷淡な態度のままだが)、燎原の果てを見つめていた。
サツキが鈴を持って隣に立っても、ちらりと視線を投げるだけ。それにはもう慣れた。慣れれば慣れるほど、一カ月前に印の組み方を――サツキの手に触れてまで――教えてくれたことが、なんだか不思議な夢のように思えてならなかった。
清めの儀が始まる。揺れる蒼い炎の奥から、満たされて死ぬことのできなかった魂たちの怨みの声が響く。
遠くで鈴の音が鳴る。黄泉神が炎の印を組めば、燎原がしばし、それに反応して動きを止める。
サツキは息を吸い、いつもの祝詞を唱え始めた。
「かけまくも畏き黄泉神、比良坂が涯てにおわす――」
ふと、燎原の炎が不自然な揺れ方をした。
(……何?)
不吉な感覚が全身をざわめかせる。
その予感に応えるかのように、炎が大きく膨れ上がった。
「――っ!」
サツキは息を呑んだ。
蒼い灼熱の只中に、腐りかけた肉を辛うじてまとった死者の姿が見えた。
その手が神楽殿へと伸びてくる。考える間もなく、とっさに両手を組み合わせた。
「天つ剣っ……!」
風が巻き起こる。怨霊がわずかに押し返された。
だがそれも一瞬のこと。風圧をかき消すようにして、溶けた肉の手が眼前に迫ってきた。
(……だめだ)
自分の力では足りない。――捕まる。
目を閉じかけた瞬間だった。
「――天つ剣、敵災事、斬り捨てよ!」
黄泉神の声が高らかに響く。刃のような風が渦を巻き、前方へ襲いかかる。怨霊は絶叫し、灰となって消え失せた。
緊張の糸が切れる。サツキはその場に崩れ落ちた。
隣に誰かが膝をついた。袍の袖をかざし、舞い落ちる灰を遮る。見上げると、そこにあるのは黄泉神の姿だった。
黒い瞳は一切こちらを見ない。だが今までしてもらったことのない行為に、サツキの心の臓は我知らず跳ねた。
「……嬬巫女様!」
「ご無事ですか!」
犬たちの声が神楽殿の下から聞こえてくる。
サツキは震える声を絞り出した。
「だ、……大丈夫、なんともない」
「そうですかー!」
「ようございましたー!」
燎原は静まっている。穏やかに揺らぐ蒼い炎は、常のとおりの姿だ。
黄泉神が立ち上がる。袖の灰を払い、そっけなく炎の野の先を見やった。
「――不完全ではあったが、本物の怨霊を前に発動できたな」
「……え」
淡々とした声にサツキは顔を上げた。
まさか――今、自分は褒められたのだろうか。
「実際の怨念を前にして精神を統一することは容易ではない。修練を続けよ」
「は、はいっ!」
慌てて立ち上がりながらサツキは応える。膝を払い、儀式に使う鈴を拾い上げた。
黄泉神がちらと視線を投げてきた。
「続けるぞ」
「……はい、黄泉神様」
大きく息を吸う。祝詞を改めて捧げ、いつもの歌舞に移った。
最近始めたばかりの印とは異なり、時間をかけて修練したことだ。もう体に染みついている。歌い上げ、舞っているうちに、先ほどの事件も少しずつ脳裏から消えてゆく。
鈴の残響が耳の奥を震わせ、静かに消えてゆく。そのとき、神楽殿の下から犬たちの声が響いた。
「ご覧くださいませ、炎が!」
サツキは汗の沁みた目を拭き、燎原を見やった。
――炎の勢いが増していた。
巻き上がる焔。散る火の粉。蒼い炎の平原全体が大きく揺れている。
魂たちの穢れが燃やし尽くされてゆく。白い灰が吐き出され、星に満たされた空へと昇ってゆく。
「勢いが戻ってきております!」
「在りし日の通りとはまだ参りませんが、明らかに、明らかに!」
犬たちのはしゃぐ声が響く。
後ろ脚で立ち上がらんばかりの勢いで黒輔が飛び跳ねた。
「燎原が元に戻る日も近うございますな!」
「本当に? 黒輔、白丸」
「はい! はい、それはもう!」
「間違いのうございまする!」
犬たちの反応にサツキはほっと息をつく。燎原の炎に元の勢いを取り戻すことは、契約巫女としてのサツキの使命だ。それが達成に近づいているのであれば、このうえなく嬉しかった。
視線を感じたのはそのときだった。何かと思って出所を見やる。
「……あ」
目に入ったのは、ごく小さく口元をほころばせる黄泉神の姿だった。
一瞬、サツキは呆けた。
その笑顔は――あまりに火垂に似ていた。
「主様!」
「もしや微笑んでおられます!?」
犬たちの声がきゃんきゃんと響く。黄泉神はすぐに真顔に戻った。
そのまま彼は立ち上がり、神楽殿から下りていく。いつもどおり、階段の一番下で銀の霧となって消えた。
サツキは座り込んだまま、ぽかんとその姿を見送った。
驚くあまり、白丸の呟く声は彼女の耳には届かなかった。
「ああ……嬬巫女様が今度こそ、ずっといてくださったなら」




