第10話 力なき者
動けなかった。
逃げなければ、と思うのに、足指の先まで凍りついたようだ。
青白く腐った手が、まっすぐサツキの顔へと迫ってくる。
(――いや)
怖い、逃げたい、と思うのに。
目を閉じることもできず。
声も――出なくて。
そのとき、目の前に黒い背中が立ちはだかった。
割って入った黄泉神が片腕で怨霊を薙ぎ払う。怨霊はどす黒い靄へと崩れ、再び形をなして彼に襲い掛かった。
『▬▬▬▬……▬▬▬▬▬▬▬▬▬……』
言葉として聞き取ることすらできない声が頭蓋を揺らす。
黄泉神が両手で素早く印を組んだ。清めの儀式のときには見たことのない印だった。
「天つ剣。敵災事、斬り捨てよ!」
刹那、強い風が湧き起こった。風圧に押され、体を捕らえていた呪縛がふつりと切れた。おのずと数歩、後退ってしまう。
怨霊は耳をつん裂くような叫びを上げ、今度こそ消え失せた。灰のようなものがはらはらと神楽殿に降り注いだ。
茫然とするサツキの前で黄泉神ががくりと膝をついた。
サツキははたと我に返り、彼に駆け寄った。
「……黄泉神、さま……」
隣に膝をついた瞬間、サツキは息を呑んだ。
黄泉神の左腕、肘から下の一部が腐り落ちている。袍の袖に焦げたような穴が開き、肉が溶けて白い骨が見えていた。怨霊につかまれたところだろう。
――頭がくらりとする。
このひとは自分をかばって、こんな傷を負ったのだ。
黄泉神は食いしばった歯の間から声を絞り出した。
「寄るな。……大事、ない」
「でも!」
何が「大事ない」だ。ひどい苦痛に決まっているのに。
巫女装束である千早を震える手で脱ぎ、黄泉神の傷を包もうとした。
だが、右の手で乱暴に払いのけられた。
「軽々に触れるな! 大事ないと言っている」
「そんな……」
心の臓が喉元で早鐘を打っている。どうすればよいのか分からない。
黄泉神が左の腕を力なく垂らしたまま立ち上がった。それを見た白丸が神楽殿の階段を駆け上がってきた。
「黄泉神様、宮へ」
「……分かっている」
白丸の背を借りるようにして、黄泉神は階段を下りてゆく。そのまま白丸ごと、黒い霧となって消えていった。
千早を握りしめたまま座り込んでいるサツキに、残された黒輔が寄ってきた。
「嬬巫女様も宮へお戻りくださいませ。――黄泉神様のことならばご案じめされるな。手を施せば元に戻りまする」
「本当に?」
「はい。神の肉体はあくまで器。核が損なわれたわけではございませぬゆえ」
「……そう」
大きく息をつく。汗がにじんで痛む目を閉じた。
黒輔の濡れた鼻がそっと手に触れた。
「さ、嬬巫女様。湯殿で禊をなさいませ」
「ありがとうね……黒輔」
サツキが目を開けて薄く微笑むと、黒輔はぱたりと尾を振った。
***
黄泉の宮の裏手にある湯殿で衣を脱ぎ、髪が濡れないよう結い上げた。もくもくと湯気の上がる中、手桶で湯を汲んで体を洗う。いつの間にか全身についていた灰のような汚れが取れたところで、風呂に足を踏み入れた。
ゆっくりと肩まで湯につかり、深く呼吸する。体を洗っても残り続けていた違和感が少しずつ溶けてゆくような気がした。
白い湯気にけぶる満天の星空をじっと見上げる。藍と紫の混じり合う空を背景に、動かぬまま瞬き続ける白い星々を数える。
ふいに、じわ、と目頭が熱くなった。大きな粒がつうと頬を伝い落ちる。
自己憐憫でも郷愁でもない。悔しさの涙だった。
(私は――ぜんぜん、だめだ)
すっかり巫女として成長したような気がしていた。
できることが一気に増え、怨霊を浄化するのもうまくなった。心の底では、いつまでも冷たいままの黄泉神に「どうだ」と言ってやれる気さえしていた――のだと思う。
でも、とんでもない思い込みだった。
強力な怨霊一体が現れただけで動けなくなってしまって。黄泉神に守られて、ひどい傷を負わせて。
黒輔は大丈夫だと言っていたが、あのおぞましい傷のさまを思い出すたびに胸がずきずきと痛み、嫌な汗が額ににじむ。
自分がもっと立派な巫女だったら――心も技も強かったなら、あんな目に遭わせずにすんだのだろうか。
いくら冷淡な神様だからといって、自分のせいで苦しい思いをさせたなんて耐えられない。たとえ一年限りの巫女であってもだ。
それに、あの怨霊だって苦しかったのではないか。まとっていた襤褸は、今思えば、自分の村で見るような庶民のものとそう変わらなかった。自分にもっと力があれば、苦しめることなく来世へ送ってやれたのではないだろうか。
「……頑張らなきゃ」
小さく呟き、両の手で湯をすくう。ばしゃりと顔にかけ、頭を大きく振った。
落ち込んではいられない。もう一度、気合を入れ直そう。そう思って勢いよく風呂から上がった。
***
湯上がりの小袖をまとって湯殿から出ると、黒輔と白丸が外で待っていた。
「嬬巫女様!」
「湯加減はいかがでございましたか?」
こちらを見上げる丸い瞳にサツキは微笑み返した。
「うん、気持ちよかったよ。ありがとうね」
「それはようございました」
「実にようございました!」
犬たちは至極明るく尾を振る。サツキは恐る恐る問いかけた。
「あの……黄泉神様は?」
「ご安心なさいませ。主様は今、傷を癒しておいでです」
「明日には元通りになられまする」
そう言われ、サツキはほっと息をついた。
「……よかった」
「ええ、ですからそのような顔をなさらないでくださいませ」
「嬬巫女様が悲しくておられると、我らも悲しくなりまする」
犬たちはサツキの左右に立ち、両側から見上げてくる。その愛らしい表情にサツキは思わず口元をほころばせた。
「ありがとう。元気出すよ。また頑張るつもり」
そのとき、声がした。
『……嗚呼。汝はまこと、優しい娘よ。ゆえにこそ――戻ってきたのだな』
「え?」
サツキは驚いて振り返る。だが、そこにはただ湯殿があるばかりだった。
心の臓が激しく脈打っている。声の出どころを探したかった。だが――うかつに追ってはならぬような気もした。
「嬬巫女様?」
「いかがなさいました?」
犬たちがきょとんと首を傾げる。サツキは彼らに向き直り、曖昧に微笑んだ。




