第1話 黄泉の花嫁
冷たい石の感触でサツキは目を覚ました。
ぴちょん、と水の滴る音がする。身にまとった粗末な小袖が湿っている。
松明の焦げる匂い。ぼんやりと照らされる闇。ここは――洞窟の中か。
体を起こして、ふと視線に気づいた。
祭壇のようなものの向こうに三対の目がある。くりくりとした獣の目が二対。そして静かな黒い目が一対。
黒い目の持ち主が一歩進み出た。男の姿が松明の灯りに照らし出される。
――その瞬間、彼がただの人ではないことを、サツキは悟った。
美しい男。
白い面、涼しい伏し目、しなやかな身体。
まとっているのは貴人のような袍と袴。だが黒い髪は女のように長く垂らされ、ないはずの風になびいている。
その髪の内側に、まるで夜空の星のようなきらめきが抱かれているのは、いかなる目の錯覚か。
茫然とするサツキをよそに、男の背後に控えた黒犬と白犬が、子どものような声を揃えた。
「おいでなさいませ、嬬巫女様――黄泉神の花嫁様」
神秘には縁のない人生を送ってきた、と思う。
生まれてから十八年、京の都の郊外にある小さな村で暮らしてきた。
村は記憶の限りずっと貧しかったし、家族は一人残らず死んでしまった。残された幼いサツキをしかし、村の人々は厄介者扱いしなかった。そもそも村全体を見やれば、家族に先立たれた者たちは数多い。そういった仲間と肩を寄せ合い、少ない食べ物を分け合い、支え合って生き延びてきた。
厳しくも温かなこの場所が自分の世界。死ぬまでずっと自分の居場所。
そうだとばかり思っていたのに、水を汲みに行った帰りに強い風に捲かれ、目を閉じて――そこから先の記憶がない。
ここはいったいどこなのだろう。現世とはとても思いがたい、この場所は。
「立て」
美貌の男が冷たく言った。サツキは混乱をぬぐえぬまま、黙って立ち上がる。
犬たちがカチカチと爪音を立てながら寄ってきて、男の左右に行儀よく座った。
「いかがでしょう、主様」
「完璧にございますのでは?」
「しかりしかり」
「まさにまさに」
サツキにちらちらと視線を投げながら口々に言う。
男はしばらくじっと黙ったまま、品定めをするようにサツキを見つめていた。だがやがて、完璧な線を描く唇がゆっくりと開き、夜闇を思わせる静かな声がこぼれ出た。
「――娘。呆けるな。ここは黄泉の国である」
「え……?」
サツキはぽかんと口を開けた。
黄泉の国。それはつまり死者の国ではなかったか。自分はまさか死んでしまったのだろうか。
血の気を失うサツキを見て、犬たちは焦ったようだった。
「ご心配なく、嬬巫女様」
「あなた様は亡くなってはおられませぬ」
「生ける身のままこちらへお招き申し上げました」
「ええ、ええ」
幼い声で次々に言われる。サツキは額に片手を当てた。
「待ってください……整理させて。ここは黄泉の国? でも私は生きたままやってきたの? というより……あなたたちが私を呼んだんですか? どうして?」
「我らが主、黄泉神様があなたのお力を必要とされているがゆえにございます」
黒い犬がぴっと背筋を伸ばして言った。サツキはいっそう戸惑い、美しい男に目を向けた。
「黄泉神……って、あなたのこと?」
「軽々しく呼ぶな、娘」
男――黄泉神は柳眉を寄せ、サツキを睥睨する。白い犬が焦ったように彼の袴の裾をくわえて引いた。
黒犬が代わっていそいそと進み出た。
「ご説明申し上げます。ここ黄泉の国は今、崩壊の危機にございます。なぜならば国を支配される黄泉神様が本来の力を失っておられるからです」
言われてサツキは黄泉神を見やる。男は整った面を微動だにさせず、ただ黙って彼女を見返した。
白犬もまたサツキの前に歩み出た。
「主様が力を取り戻すには、『嬬巫女』の存在が不可欠。あなたはその適任者なのでございます。ええ」
「つま……みこ?」
説明を聞いても意味が分からない。自分はただの農民の娘だ。巫女などではありえない。ましてや「つま」とは――結婚相手の「妻」のことだろうか。
「黄泉神様と縁を結んでいただき、神核とあなた様の魂とを共鳴させることで、神としての力を増幅させるのが嬬巫女様の役目にございます」
「あなた様の魂はすでに、我らが主様と鼓動を同じくしておられる」
「これ以上の方はおられませぬ」
「何とぞ、何とぞ」
犬たちは相争って言葉を重ね合う。サツキは眉を下げ、胸の前で両手を握り合わせた。
「そんなことを言われても……私には村の皆がいるの。帰らなきゃ。うちへ帰してください」
「そうはいかぬ」
低い声が響く。それだけでさっと洞窟の温度が下がった。
サツキも犬たちも口をつぐみ、一斉に黄泉神を見やる。
全員の視線を集めた男は、冷え切った瞳でサツキを見下ろした。
「黄泉の国の崩壊を止めねば、お前の帰る村もなくなるだろうよ」
「どういう……ことですか」
「一年後には、黄泉の国に押しとどめている怨霊たちが現世に溢れ出す。かつてない疫病で多くの人々が死ぬだろう」
「……そんな」
サツキは全身が冷え切るのを感じた。
疫病。自分や村人たちの家族を苦しめ、殺し尽くし、今に至るまで傷を残したもの。
今も都のあちこちで時に荒ぶっては命をいたずらに奪い去ってゆく。恐ろしいもの。憎むべきもの。
それがまた現世に溢れるなど、絶対に許してはならないことだ。
「……私が力を貸せば、それを防げるんですか?」
黄泉神の真黒い瞳を見返し、問うた。すれば彼は小さく頷いた。
サツキは大きく息を吸う。迷っている場合ではなさそうだった。
「分かりました。――でも、条件をつけさせてください」
この言葉に、黄泉神はわずかに片眉を上げた。
犬たちも丸い目でこちらを見上げてくる。サツキは両の拳をぐっと握り締めた。
「……ずっとここにいたくはありません。黄泉の国が落ち着いたら、故郷に帰してください」
「ほう?」
「さっき『一年後』とおっしゃったでしょう? あなたが力を取り戻して、一年後の災厄が防げたなら、私はもういらないんじゃないですか?」
犬たちが不安げに目を合わせる。黒い犬が口を開いた。
「主様……そうはいかぬのでは? 最悪の事態は避けられますが、やはりずっといていただいた方が……」
だが黄泉神はひとつ瞬き、静かに言った。
「こちらとて、よそ者を長く置きたいとは思わぬ。よかろう、一年限りの契約を結ぼうではないか」
契約。その言葉にサツキはすかさず飛びついた。
貧乏人として、交渉の機会は決して逃さない。
「契約、と言いましたね。なら、私に何かの報酬がないとおかしくありません?」
「……報酬、と?」
黄泉神が腕を組む。サツキは唾を飲み、もう一度口を開いた。
「はい。もし失敗した場合でも……私の村だけは守ってください。黄泉『神』とおっしゃるからには、神様なんですよね。それくらいのことはできるんじゃないですか?」
きゅう、と犬たちが声を上げた。耳の付け根が怯えるように下がる。
だが黄泉神の答えはあくまで淡々としていた。
「承諾した。その程度であれば造作ないことだ」
「……約束ですよ」
「黄泉の主に二言はない」
それだけ言って黄泉神はきびすを返す。長い髪がさらりと風に舞う。
松明の灯りの中、遠ざかってゆく背中越しに静かな声が響いた。
「明日、しきたりに則り、婚礼を挙げる。支度をせよ」
「はっ」
「お任せを!」
犬たちが口々に応えて頭を下げる。
サツキはひとり、ぽかんと口を開けた。
「……婚礼?」
『嬬巫女』の『つま』とは、やはりそういうことだったのか。
――とんでもないことに、なってしまった。
犬たちが目を輝かせ、サツキの前でしっぽを振った。
「参りましょう、嬬巫女様」
「いざいざ。お部屋にご案内いたしまする」




