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忘れた温もり

作者: 司夜牙狼
掲載日:2026/01/31

久しぶりに書いた

 右手を握り開く。手のひらをまじまじと見る。意味も忘れて、理由も忘れて。それでも毎日続けていた、気がする。物忘れが激しくて何年続けていたのかも覚えていない。

 私は明らかに人間ではないのだ。覚えていることもほとんどない。しかし、千年は生きている、と思う。やはり確証はない。誰もいない家で、庭を眺めている。美しい庭を見ると心が落ち着く。そうして千年を過ごしたのかもしれない。花は毎日変わっている。だから飽きない。

食事も最近とった記憶がない。最後に食べたのは二年ほど前だった。珍しく客人が訪ねてきて久しぶりに話したことを覚えている。しかし、なぜ二年も食べていないかは覚えていないし、客人の名前も声も、あるいは人だったのかすら一切覚えていない。しかし私が楽しかったと言ったことは覚えている。……お世辞だったかもしれないが。まあ空腹を感じていないので特段困ることではない。

 忘却はきっと悲しいことだ。しかし、幸せでもあるのだろう。良い思い出も悪い記憶も忘れてしまった。だが、嫌なことを思い出すことが無いのは幸せである。幸せな記憶を思い出せないのもある意味では良いことなのかもしれない。思い出す必要が無いほど幸せなのかもしれないし、あるいは私のように平穏に暮らしているということなのかもしれない。……屁理屈な気がする。私は本当は悲しいのにどうにか幸せであると思い込みたいのだろうか。

 「お届け物です」

来客である。二年ぶりだ。いや、配達員のようなので客ではない。玄関に向かい扉を開けた。配達員は人ではなかった。白い翼が生えていた。

「あなたの記憶をお届けに参りました」

「どうも」

私は手帳を受け取った。配達員は笑った後に音もなく消えていた。記憶、か。確かに間違ってはいないのかもしれない。これはどうやら昔私が書いた日記らしい。特徴的な字を見て私の物だと確信する。かつての私は何を思っていたのだろうか。

「なんだ、大したものではないな」

 手帳はほとんど塗りつぶされていた。かろうじて読める文字も私が本当に体験したことなのかわからない。記憶と言われたが、実感がない。だがある一行だけは妙に引っかかった。

 「私はこの手のぬくもりを生涯忘れることはないだろう」

 全く覚えていない。かつての私が聞いたらきっと失望するだろう。幸せだったのか悲しかったのかすら覚えていない。しかしこの一行が頭から離れない。きっと大事な記憶なのだろう。それなのに一切覚えていないことが少々悲しかった。思い出せないということはきっと重要ではない。誰かがかつてそう言っていた、気がする。まあ気にしても無駄だろう。右手を握り開く。手のひらをまじまじと見る。意味も忘れて、理由も忘れて。


 日記が届いてから数日が立った。結局何も思い出せなかった。だからと言って何か変わるわけでもない。しかし気分転換にお茶を入れることにした。飲みながら庭を眺める。今日も花が変わっている。不思議なものだ。あまり気にしていなかったが、なぜ世話もしていないのに毎日変わるのだろう。人間ではない私が気にしても詮無き事ではあるかもしれない。しかしやることもないので花を花瓶に生けることにした。

 鮮やかな花である。美しい黄色の花である。名前は忘れてしまった。春か夏の花だったようにも思うし、秋か冬の花だったようにも思う。名前を覚えていたところでここでは何の役にも立たないのだ。死なずに何年生きたか忘れてしまった。やはり千年は生きていたはずだ。そこから先は覚えていない。そういえばここから出たことはなかった、気がする。外はどうなっているのだろうか。

 そんなことを考えながら花瓶を探した。すぐに見つかると思っていたがなかなか見つからない。先ほどお茶を飲んでいたのでそれでも良いのだが。確か白い花瓶があったはずなのだ。できればそれに生けたかった。誰かにもらった花瓶だったか、はたまた自分で作ったものだったか。気に入っていたことだけは覚えている。

 「見つけた」

 一時間は探していたと思う。埃をかぶっていたので洗ってから花を生けた。記憶では白い花瓶だったが、ほんの少しだけ薄い青がかかっていた。黄色の花を挿して水を注ぎテーブルに置いた。花はよいものだ。寂しい部屋だったがこれで少しマシになった。そういえば庭の花は毎日変わるがこの花も明日には変わっているのだろうか。少し楽しみだ。右手を握り開く。手のひらをまじまじと見る。意味も理由も忘れたが。ほんの少し温かかった。


 夢を見た。誰かが私の手を握っている夢だ。そして花瓶に花が生けてあった。花瓶は白や薄い青ではなかったし、花は黄色ではなかった。しかし手は心地よく温かかった。もしかしたら日記に書かれていたのはこのことなのかもしれない。生涯忘れないだろうと記し、そのまま忘れてしまったのかもしれない。確証はなかったが不思議とそんな気がした。

 庭を眺めた。青い花だった。夢とは関係が無いのかもしれないがどこか懐かしい気がした。そして思い出す。昨日は花を生けたのだった。不思議な庭だからもしかしたら花瓶の花も変わるのかもしれないと楽しみに思っていた。早速花瓶を見ることにした。

 「変わっていないな」

 黄色の美しい花。昨日と変わらない姿。なら今日は青い花を生けることにしようか、それともこのままにするか、あるいは黄色と青の花を一緒に生けるか少し悩んだ。そうして様々な色の花を見れた方が楽しいだろうとこれから毎日一本ずつ追加することにした。花が痛むのにどのくらいかかるかはわからないが、しおれた頃にその花を捨てればよい。そうすれば毎日の楽しみになる。どうせやることなどないのだから、これくらいがちょうどよい。

 また庭を眺める。青い花が一面に広がっている。本日は花が変わる以外に少し変化があった。猫がいる。白い猫だ。いつもは鳥すらいないが、珍しいこともあったものだ。あるいは心境の変化が関係しているのかもしれない。いつも受動的に生きていた。やることはなかったし何も食べなくても生きていけたからそれで良かったのだが。花を生けたことで少し楽しみができた。そういえば花が一面に広がっているのは初めてだった。やはり心境の変化が原因なのだろう。

 猫がこちらに気づいた。とことこと歩いてくる。鳴き声を上げて私の隣に歩いてきた。猫をなでるのは久しぶりだった。最後になでたのは十年ほど前だったように思う。あの時はしゃべる猫で庭で話していた。色も黒だった。何を話していたのかは全く覚えていない。いつものことだが。

 白猫はゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。話し相手にはならなさそうだが、暇つぶしに黙々と猫をなでる。鳴き声を上げて私の手に頬をこすりつけてくる。この猫はどこから来たのだろうか、家族はいるのだろうか。あるいは猫の形をしている化生の類なのかもしれない。現世ではないのだろう。翼の生えた配達員もいたし天国なのかもしれない。あまり疑問を覚えたことはなかったが。


 ふと目を覚ます。猫をなでていたはずだがいつのまにか寝てしまっていたようだ。庭を見ても猫はいない。帰ったのだろうか。あるいは猫をなでていたのは夢だったのかもしれない。ふと花瓶を見てみると黄色の花と青い花が一本ずつ生けてあった。確かに私は一本ずつ生けようとしていたが、実行には移していなかった。花を摘む前に猫をなでていたからだ。もしかしたら猫がやったのかもしれない。不思議なこともここなら起こるだろう。

 右手を握り開く。手のひらをまじまじと見る。今日は猫の温度を覚えていた。

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