表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハンフリー  作者: DingerBox
6/6

緊張

世界から、音が消えた。


ほんの数秒前まで、そこには日常があったはずだ。


蒸気機関車特有の、腹の底に響くようなガタン、ゴトンという律動的な走行音。

古びたレールが車輪と擦れ合う、甲高い金属音。

そして、向かいの席に座る無粋な理系女が、銀紙に包まれた角砂糖を取り出すカサカサという微かな音。


それら全てが、唐突に、何の前触れもなく消失した。


「......?」


シャーロット・オリエンスは、手にしていた詩集から顔を上げた。

耳がおかしくなったのかと思った。あるいは、長いトンネルに入ったことによる急激な気圧の変化で、鼓膜が塞がってしまったのかもしれない。

彼女は優雅な動作で、手元のティーカップを持ち上げようとした。


そこで、異変に気づいた。


カップから立ち昇っていたはずの湯気が、止まっている。

通常であれば、熱気はゆらゆらと揺らめきながら空気に溶けて消えていくはずだ。

だが目の前のそれは、まるで白磁のカップから伸びる「ねじれたガラス細工」のように、空中で完全に凝固していた。

指で触れれば、パキリと折れてしまいそうなほどに、時間は凍り付いていた。


「......おい」


向かいの席から、低い声がした。フーリ・エルゴだ。彼女もまた、自分のコーヒーから伸びる奇妙な「固形化した湯気」を凝視していた。


「動くな。呼吸以外、何もするな」


「どういうことですの? まるで時間が止まったような......」


「窓を見ろ」


フーリに促され、シャーロットは視線を横に向けた。

悲鳴が出そうになるのを、淑女のプライドで強引に飲み込む。


窓の外に、景色がなかった。トンネルの闇ではない。夜の闇でもない。

そこにあったのは、発光するような、のっぺりとした「白」だった。

奥行きがなく、上下もなく、ただ無限に続く白い虚無。それが窓ガラスに張り付いている。


「ホワイトアウト......」 シャーロットが戦慄く。「『ハンフリーの呪い』ですの?」


「そうだ。座標喪失。僕たちは今、現実の空間から切り離された」フーリはゴーグルを装着し、周囲を見回す。「だが、おかしい。呪いの直撃を受けたなら、僕たちの肉体も情報分解されて消滅しているはずだ。なのに意識がある。この部屋だけが、台風の目のように保たれていると考えて良いだろう」


カラン、と乾いた音がした。


「ひっ!?」カリゴが短く悲鳴を上げる。「し、シャルさん! あれ!」


カリゴが指差したのは、天井の隅だった。

そこには、空調用の真鍮製ダクトが口を開けている。その格子の隙間から、何かが吐き出され、風に押されてひらひらと舞い落ちてきたのだ。


それは、くしゃくしゃに丸められた紙片だった。

無重力の羽のようにゆっくりと落下し、テーブルの中央に、音もなく着地した。


密室に現れた、薄汚れた紙切れ。フーリはハンカチを取り出し、指紋がつかないように慎重にそれを広げた。


そこには、万年筆で荒々しく書き殴られた文字があった。


『騒ぐな。この列車は頂いた。 命が惜しければ、部屋から出るな』


簡潔にして絶対的な、勝利宣言。

署名はない。ただ、インクが飛び散るほどの筆圧で書かれている。


「この列車は頂いた、か」フーリは不快そうに鼻を鳴らした。「確かに、この状況を作り出せるならハッタリじゃない。犯人は『ハンフリーの遺物』――それも重力制御クラスの危険物を所持していると考えられる。僕たちの生殺与奪は奴の手の中というわけだ」


「......」シャーロットは無言で、フーリの手から紙片を奪い取った。

「おい」

「静かに。......違和感があるの」


彼女は紙片を光にかざし、インクの滲み、線の震え、そして紙に残された「痕跡」を観察する。レッテラの代表として、古今東西の文献に触れてきた彼女にとって、筆跡は書いた人間の魂そのものだ。


「この文字、矛盾しているわね」


「何がだ? 脅迫状としては成立しているだろう」


「内容は自信に満ちているけれど、筆跡が『生理的な拒絶反応』を起こしているの」 シャーロットは爪先で文字を示す。


「見て、『頂いた』の最後の払い。線が波打っているでしょう? これは単なる恐怖の震えではないわ。神経が麻痺しかけているような、微細な痙攣よ」


「痙攣?」


「ええ。それに紙の端についたこの汚れ。オイルと......鉄錆の匂いがする」


シャーロットは目を細めた。「犯人は、この手紙を書いている時点で、すでに『何かとてつもなく厄介なもの』を抱えていたのよ。その『負荷』に耐えながら、震える手で無理やり強気な言葉を並べた」


「なるほど」フーリが顎に手を当てる。「高出力の遺物は、起動前から周囲の磁場や神経系に影響を与えるものが多い。つまり犯人は、ダクトにこれを投げ込む直前の時点で、すでに遺物の副作用に蝕まれていたわけか」


「その通り。これは『勝利宣言』ではないわ。『我慢比べの開始合図』よ」


シャーロットは紙片をテーブルに放り投げた。「彼は最初から制御なんてできていなかった。暴れ馬の手綱を握ったまま、必死に『俺は乗馬の名手だ』と叫んでいるだけよ」


「なら、今はどうなっていると思う?」


「決まっているでしょう。その馬に振り落とされて、蹴り飛ばされている頃でしょうね」


「それを確かめるには、物理実験が必要だな」


フーリは白衣のポケットをごそごそと探り、銀紙に包まれた角砂糖を一つ取り出した。

マセマティカの研究員にとって、糖分は思考の燃料であり、時には実験道具にもなる。


「カリゴ、ドアを開けろ。ただし、ほんの数センチだ。チェーンをかけたままな」 「へ、へい。マジっすか......」


カリゴがおそるおそるドアノブに手をかける。カチャリ。ロックを外し、ドアをわずかに引いた、その瞬間。


ヒュオオオオオッ!


凄まじい風切り音と共に、部屋の中の空気が外へ吸い出された。「うわっ!?」カリゴが慌ててドアを押さえる。


「そのままだ! 絶対離すなよ!」フーリは叫びながら、ドアの隙間に近づいた。「いいかい。もし犯人がこの状況をコントロールしているなら、重力は正常なはずだ。廊下も、ここと同じようにな」


フーリは角砂糖を指先で弾いた。白い立方体は、ドアの隙間――廊下の空間へと飛び出していく。


通常であれば、重力に従って廊下の床に落ちて転がるはずだ。だが。


バシッ!


角砂糖は隙間を出た瞬間、まるで下から強烈なアッパーカットを食らったかのように、真上(天井)に向かって飛び、廊下の天井板に叩きつけられて粉砕した。


「......は?」

隙間から覗いていたカリゴが絶句する。「フーリさん、今、砂糖が空に落ちましたよ!?」


「やっぱりか」フーリはニヤリと笑ってドアから離れた。「閉めろ! 実験終了だ!」



カリゴが渾身の力でドアを閉める。バタン!という音と共に、再び静寂が戻った。


「重力異常だ。しかも局所的かつ劇的な」フーリは黒板代わりの手帳に、猛烈な勢いでベクトル図を書き殴る。


「この部屋の中は、奇跡的に重力が安定している『ラグランジュ点(釣り合いの取れた場所)』だ。だが、廊下は違う。重力のベクトルが180度ねじれている。あそこは今、天井が床だ」


「それだけならまだマシだ。恐らく、空間自体が歪んでいる。事象の地平線イベント・ホライゾンの縁だ。不用意に外へ出れば、潮汐力で体を引きちぎられるぞ」


「......なるほど」シャーロットが、扇子を閉じる音を響かせた。「答え合わせができたわね」


二人の天才の視線が交差する。

言葉にしなくても、結論は一致していた。


「犯人は、失敗したんだ」 フーリが嘲るように言う。


「遺物を使って列車を止めようとしたが、制御を誤った。結果、マイクロブラックホールを暴走させ、自分自身がその重力の檻に閉じ込められた」


「間抜けな泥棒猫というわけですわね」 シャーロットも同意する。

「つまり、この脅迫状は『部屋から出るな』という命令ではなく、結果的に『部屋から出ると死ぬぞ』という親切な警告になってしまったわけね」


状況は読めた。敵は廊下で動けない。自滅している。だが、これは勝利ではない。


ミシッ......。部屋の梁が、不吉な音を立てた。


「フーリ」シャーロットの声から、余裕が消える。「この『安全地帯』、いつまでもつの?」


「計算中だ......出た。あと三百秒」フーリはストップウォッチを見ずに答える。


「外部の重力崩壊が加速している。あと五分もすれば、この客室も圧力に耐えきれずに圧壊する。僕たちは仲良く缶詰の中のサーディンだ」


「冗談じゃないわ!」


「同感だ。だから、やるしかない」


フーリは部屋の壁を睨みつけた。「ドアを開けずに、外にある暴走した装置を止める。犯人が抱え込んでいるであろう『遺物』を、ここから破壊するんだ」


「透視能力も念動力もないのよ?」


「物理学があれば十分だ」


フーリは室内を見回す。真紅のヴェルベット、マホガニーのテーブル。そして、壁の下を通る真鍮製のパイプ。

蒸気機関車の客室には、暖房用の蒸気をボイラー室から循環させるパイプが張り巡らされている。


「......メイド。そのパイプのバルブ、回せるか?」


「錆び付いていますが、物理的強制力を行使すれば可能です」

メイドはスカートの裏から巨大なモンキーレンチを取り出した。


「よし。僕の計算が正しければ、このパイプは廊下の床下を通って、車両の連結部へ繋がっている。そして重力異常の中心、つまり犯人は、位置的に通気口のすぐ向こうでへばりついているはずだ」


フーリの目が、科学者の冷徹な光を帯びる。


「シャーロット、君の『本』を貸してくれ。一番分厚くて、一番硬い表紙のやつを」


「トマス・グレイの『墓畔の哀歌』初版と知っていての言動? まさか鍋敷きにするつもりなら、この場で貴方を呪うけれど」


「命の恩人にするんだよ」フーリはシャーロットから、辞書のように分厚い古書をひったくった。


「いいかい、今からこのパイプの中の蒸気圧を急激に変化させる。『ウォーターハンマー現象(水撃作用)』を知っているか?」


「配管の中を水や蒸気が暴れる現象でしょう? 水道管がガンガン鳴る、あの下品な音」


「その下品な衝撃波を、パイプ越しに廊下の犯人へプレゼントするんだ。パイプという『銃身』を通して、衝撃という『弾丸』を撃ち込む」 フーリは本を、パイプの屈折部分に強く押し当てた。 「上手くいけば、その衝撃で犯人が抱えている遺物が弾き飛ばされて、座標がズレる。そうすれば重力場は霧散するはずだ」


「失敗したら?」


「パイプが破裂して、この狭い部屋に高温高圧の蒸気が充満する。僕たちは仲良く蒸し焼きだね」


「......あなたと一蓮托生なんて、人生最悪の悪夢だわ」


「奇遇だね、僕もだよ。さあ、準備はいいか!」


フーリの合図と共に、メイドがレンチをバルブに噛ませた。

カリゴが、万が一の破裂に備えて、シャーロットを庇うようにマットレスを構える。


三百秒のカウントダウンは、もう残りわずか。 密室のパラドックスを解く鍵は、古書と蒸気、そして二人の天才の悪あがきに託された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
どうなるか。ドキドキ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ