発生
蒸気機関車「アイアン・デューク号」の一等客室。 それは、真紅のヴェルベットの座席と、艶やかなマホガニーの壁で装飾された、走る貴賓室だ。 この車両を手配したのは、ヴァルカンとルミエールだ。贅沢の限りを尽くした内装に皆内心落ち着かない様子だが、出資者がふたつの国ともなれば、この待遇は妥当なものなのだろう。
車両の料金は当然、この車内で頼んだものも全てが国の「ツケ」で頼める。昨日のみすぼらしい朝食とは対照的な朝だ。 本来であれば、優雅な旅のひとときを約束する空間であるはずだった。 もし、同乗者が「この二人」でなければ。
「......うるさい」
シャーロットが、優雅に読んでいた詩集をパタンと閉じた。 彼女の眉間には、貴婦人にあるまじき深い皺が刻まれている。
「先ほどから、ブツブツと呪文のようなものを唱えるのをやめていただけない? 活字が頭に入って来ないの」
「呪文じゃない。軌道計算だ」
向かいの席で、窓ガラスにへばりついていたフーリが振り返る。 彼女の手にはストップウォッチが握られており、窓の外を流れる電信柱を睨みつけていた。
「この列車、遅れている。予定では今の通過速度は時速六十キロであるべきなのに、僕の計算では五十八・五キロしか出ていない。このままではアルコ到着が三分十四秒遅れる」
「たったの三分でしょう。お茶を淹れる時間にもならない」
「その三分があれば、新たな数式を一つ発見できるかもしれないだろう!」
「あなたの人生、隙間なく埋めないと気が済まないの?」
豪華な個室の中、二人の天才の舌戦が繰り広げられる。 アカデミア・ヌルを出発して数時間。この「不協和音」は一度として止むことがなかった。
「大体、君は荷物が多すぎるんだ」 フーリが、網棚を占領しているトランクの山を指差す。 「質量の増加は燃費の悪化を招く。君のその無駄にふりふりしたドレス一枚につき、石炭が何キロ無駄になっているか計算してやろうか?」
「私は全裸でも研究ができれば良いような猿とは違うの。あなたこそ、そのポケットに入れてある大量の角砂糖。それが溶けてベタベタになる確率を計算したら?」
「溶けないよ! これは個別包装されている!」
ギャーギャーと騒ぐ主人たちを他所に、従者たちは我関せずを貫いていた。
「......暇っすねえ」
カリゴは座席で行儀悪く胡坐をかき、持ち込んだクッキーの缶を抱えていた。既に中身は半分以下になっている。
「窓の外、ずっと霧だし。面白いことなんもないっす」
「退屈こそが平穏の証ですよ」 答えたのは、部屋の隅で直立不動を貫くメイドだ。 彼女は揺れる車内でも体幹が微動だにせず、手元の銀食器を磨いている。
「ですが、確かに視界が悪いですね」
メイドの言う通り、窓の外は深い霧に包まれていた。 アカデミア・ヌルを出た時はまだ薄かった霧が、北へ進むにつれて濃くなっている。 最初は見えていた田園風景も、今や乳白色の壁に遮られ、時折過ぎ去る枯れ木が亡霊のように見えるだけだ。
「おい、カリゴ。食べかすが落ちてるぞ」 フーリが苛立った様子で指摘する。 「あ、すんません」 「まったく......エントロピーが増大するから片付けろ」 「エントロピーって何すか? 新しいお菓子?」 「無秩序の度合いだよ!」
フーリは頭を抱え、シャーロットはため息をつく。 この珍道中は、アルコに着く前に互いの精神を摩耗させて終わるのではないか。そんな予感が漂い始めた頃だった。
「――お飲み物はいかがですか?」
コンパートメントのドアがノックされ、ワゴンを押した車掌が入ってきた。 救いの神だ。この閉鎖空間の空気を入れ替えてくれるなら、悪魔でも歓迎したい。
「紅茶を頂けるかしら。アールグレイで」 シャーロットが即答する。 「僕はコーヒーだ。砂糖は要らない、持参しているからな」 「自分、サンドイッチあるだけ全部!」
車掌はにこやかに注文を受け、優雅な手つきでカップに液体を注いでいく。 琥珀色の紅茶と、漆黒のコーヒー。湯気が立ち上り、車内に芳醇な香りが充満する。
「ふう......」 シャーロットが一口啜り、ようやく表情を緩めた。 「悪くありませんわね。揺れる車内でこれほどの香りを楽しめるとは」
「まあまあだね。抽出温度が二度ほど高いが、許容範囲だ」
二人は一時休戦し、それぞれの飲み物に口をつける。
ガタン、ゴトン。 ガタン、ゴトン。
規則的なレールの継ぎ目の音が、心地よいリズムとなって眠気を誘う。
「ねえ」 不意に、フーリが口を開いた。少しだけ、真面目なトーンで。
「何? 改まって」 シャーロットがカップを置く。
「君は、本当に信じているのか? その『物語』の力を」 フーリは黒い液体を見つめながら言った。 「僕には理解できないんだ。過去に起きた事象は、観測された時点で確定したデータだ。それを後から『解釈』したところで、事実は変わらないだろう?」
「......ええ、事実は変わらない」 シャーロットは窓の外、白い霧を見つめる。 「でも、『真実』は変わる」
「言葉遊びだね」
「いいえ、視点の問題ね」 シャーロットはフーリの方を向く。 「例えば、この列車。貴方にとっては『蒸気でピストンを動かし、鉄のレールの上を走る物理的な輸送機関』でしょう?」
「その通りだ。それ以外に何がある」
「私にとっては違う。これは『故郷から遠ざかり、未知の土地へ運命を運ぶ揺り籠』なの。あるいは『二度と戻れない時間の矢』かもしれない」 彼女は微笑む。 「人は事実だけでは生きられないの。そこに意味を見出し、物語を重ねることで、初めて恐怖や悲しみを乗り越えられる。それが『認識の楔』よ」
「ふん......」 フーリは鼻を鳴らし、角砂糖をコーヒーに放り込んだ。 「非効率的だ。だがまあ、その非効率さが、今回の任務には必要なのかもしれないな」
「あら、珍しい。私を認めるような発言をするなんて」
「勘違いするな。君のその『妄想力』が、観測装置のノイズキャンセリングに使えると言っただけだ」
「一言余計よ、計算機」
憎まれ口を叩き合うが、先ほどまでの険悪さは少し薄れていた。 少なくとも、互いが互いの役割を――理解はできずとも――認識し始めたようだ。
その時だった。
ガタン、ゴトン。 ガタン、ゴトン。 ガタン――。
「......ん?」
フーリの手が止まった。 ストップウォッチを持つ指が、微かに震える。
「どうかしました?」
「......音が、変だ」
フーリは立ち上がり、床に耳を当てるような姿勢をとった。 「レールの継ぎ目の音が反響している。リズムは変わらないが、音質が変わった。まるで、無限に続くパイプの中を走っているような......」
「トンネルに入ったからでは?」 カリゴがサンドイッチを頬張りながら言う。
「いや、入ってからが長すぎる」
フーリの顔色が青ざめていく。
「おい、今何時だ?」 「ええと、午後二時十五分ね」 シャーロットが懐中時計を見る。
「おかしい」 フーリが叫ぶように言った。 「さっきのトンネルに入ってから、もう二十分は経っているはずだ。この路線のトンネルは最長でも五キロ。時速六十キロなら五分で抜けるはずだぞ!」
言われてみれば、窓の外は先ほどからずっと「暗い」。 霧だと思っていたその白さは、トンネル内の照明ではなく、もっと別の――違和感のある何かが発光するような白さだった。
「お嬢様」 今まで沈黙していたメイドが、鋭い声を出した。 「窓を、よくご覧ください」
テーブルの上。フーリとシャーロットの飲み物は、列車の振動に合わせて小さく揺れている。物理法則はまだ生きているようだ。 だが、視線は窓に釘付けになった。
「窓ガラスに、何も映っていない......」 シャーロットが呟く。
夜やトンネル内なら、暗い窓ガラスには車内の明るい様子が鏡のように反射して映るはずだ。
だが、そこには自分たちの顔も、豪華なシャンデリアも映っていなかった。
フーリも、シャーロットも、カリゴも。 ただ、のっぺりとした白い「何か」が、ガラスの向こう側に張り付いているだけ。
「反射がない......?」 フーリが窓に手を近づける。指先すら映らない。 「いや、違う。外の『白』が、ガラスのすぐ向こうまで迫っているんだ。空間が圧縮されている!」
「......まさか」 シャーロットが立ち上がり、コンパートメントのドアを開けようとする。 「車掌さん! 今の状況を......」
ガラッ。
ドアを開けた瞬間、シャーロットの言葉が凍りついた。
そこにあるはずの廊下が、ない。 隣の客室も、ない。
ドアの向こうには、見渡す限りの「真っ白な空間」が広がっていたのだ。 床も天井もなく、ただ白一色の虚無。 その中を、自分たちのいるコンパートメントだけが、レールもない空間を浮遊するように走っていた。
「そんな......客車が、消失した?」 シャーロットが後ずさる。
「違う」 フーリがゴーグルを装着し、その白亜の世界を睨みつけた。額からは冷や汗が垂れている。 「消失したのは僕たちの方だ。ここは座標(null)。『ハンフリーの呪い』の腹の中だ」
ガタン、ゴトン。 存在しないレールの音が、幻聴のように響き続ける。
日常は唐突に終わりを告げた。 アルコに辿り着く前に、彼女らは既に「彼岸」へと足を踏み入れていたのだ。




