表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハンフリー  作者: DingerBox
4/6

直感

アカデミア・ヌル、西地区。マセマティカ本部。

深夜になっても、工場のピストン音と蒸気の排出音は止まない。

この地区は眠らない。物理法則が休暇を取らないのと同様に、ここを支配する者たちもまた、思考を止めることを許されないからだ。


その最奥にあるフーリの研究室。普段は計算用紙の雪崩が起きている部屋だが、今夜ばかりは床が見えていた。

部屋の中央には、無骨なジュラルミン製のトランクが広げられている。


「......本気ですか?」


呆れたような声を出したのは、メイドだった。彼女はトランクの中身をつまみ上げる。それは巨大なコイルと真空管が絡み合った、漬物石よりも重そうな機械の塊だった。


「当たり前だろ。それは局所時空固定装置の試作三号機だ」フーリは白衣のポケットにチョークを詰め込みながら答える。「今回の目的地である『アルコ』は、高濃度の『ハンフリーの呪い』が残留している可能性がある。もし僕たちがくしゃみをした拍子に物理定数が揺らいで、重力が何倍にでもなったらどうする? 内臓が潰れて死ぬぞ」


「お嬢様。その機械、総重量が三十キロあります」


「たったの三十キロだ。僕の脳味噌の価値に比べれば軽いものだろう」


「運ぶのは私なのですが」


「そのためのメイドだろう」


フーリは悪びれもせず、次は複雑なレンズが幾重にも重なったゴーグルを手に取った。


「いいかい、よく聞け。この世界は今、薄氷の上に立っているんだ」


彼女はゴーグルを覗き込み、ピントを調整しながら語り始める。「1900年代初頭。蒸気機関と電気が世界を照らし始めたこの時代、人類は思い上がった。『我々は全てを知った』とね。だが、ハンフリー・デービーの遺産がそれを否定した。世界には、我々の物理学では記述できない『空白』がある」


フーリは窓の外、霧に煙る街を見下ろした。遠くに見えるガス灯の明かりが、不安定に揺らめいている。


「ホワイトアウト。あれは単なる爆発じゃない。情報の欠落だ。宇宙という計算機が処理落ちを起こして、その座標のデータを『null』として処理してしまうバグだ。某国の師団が消えたのも、彼らが『そこに存在した』という定義を維持できなくなったからだ」


「だから、お嬢様が必要だと?」


「そうだ。僕たちマセマティカの役割は、揺らぐ現実に数式という杭を打ち込むことだ。『ここは1メートルだ』『ここは1秒だ』と観測し続けなければ、この世界はあやふやな夢のように溶けてしまう」


フーリはゴーグルをトランクに放り込む。


「帝政ヴァルカンが血眼になるのも分かるさ。彼らは恐れているんだ。隣国という敵よりも、足元の地面が抜けることをね。だからこそ、無限エネルギーという『絶対的な定数』を求めている」


「なるほど」 メイドは無表情に頷き、そしてトランクから三十キロの機械を取り出して床に置いた。「世界の危機は理解しましたが、それはそれとして、これは置いていきます」


「は? おい! 僕の命綱!」


「現地までは列車と徒歩です。さすがに私も怠いので......、いえ、代わりにこちらを」メイドが差し出したのは、大量の角砂糖と、数冊のメモ帳、そして一丁の無骨な自動拳銃だった。


「......砂糖と紙は分かる。その鉄塊は何だ」

「護身用です。数式で弾丸は止まりませんので」

「野蛮だねえ。質量弾を飛ばすなんて前時代的だ」

「引き金を引けば人が死ぬ。最も単純で、最も確定された物理法則ですよ」


「やれやれ。科学の最先端を行く僕が、鉛玉と砂糖を持って遠足とはね」


「遠足ではありません。戦争ですよ、お嬢様」


メイドは眼鏡の奥の瞳を光らせた。「過去という亡霊と、未来という怪物との戦争です」手際よく荷物を詰め込みながら話す。フーリはその背中を見ながら、小さくため息をついた。


「あのさ」


「何でしょう」


彼女が指さした先には、もうひとつのジュラルミンケース。


その中には、最低限の着替えの隙間を埋めるように、煙草のカートンがぎっしりと詰め込まれていた。


~~~


同時刻。アカデミア・ヌル、東地区。レッテラ本部。


静寂。ここにあるのは、紙が擦れる音と、インクの匂い、そして古時計が時を刻む音だけだ。

壁一面を埋め尽くす本棚には、世界中の歴史、物語、詩、神話が眠っている。


その一室、シャーロットの私室では、優雅な「選別」が行われていた。

革張りのトランクには、既に数着のドレスと、最高級の茶葉、そしてティーセット一式が詰め込まれている。


「ねえシャルさん、これ要るんすか?」


カリゴが呆れたように持ち上げたのは、分厚くて古びた一冊の本だった。表紙の革はボロボロで、タイトルも擦れて読めない。


「ええ、絶対に必要よ。それは18世紀の詩人、トマス・グレイの『墓畔の哀歌』の初版だもの」 シャーロットは紅茶を啜りながら、こともなげに言う。

「今回の旅先は『アルコ』。そこは霧深く、死者と生者の境界が曖昧な土地。そんな場所で、言葉の武器を持たずに歩くなんて自殺行為よ」


「武器ねえ......」カリゴは腰のベルトに、ナイフやメリケンサックをジャラジャラと装着しながら首を傾げる。「自分には、こっちの方がよっぽど頼りになる武器に見えるんすけど」


「野蛮ね、カリゴ。物理的な暴力で解決できるのは、生きている人間相手だけよ」シャーロットは本を奪い取り、丁寧にトランクに収めた。


「いい? この世界は今、病にかかっているの。『忘却』という病に」


彼女は部屋に飾られた、一枚の絵画を見上げた。どこかの田園風景を描いたものだが、その端が少し白く霞んでいる。


「産業革命以降、人々は効率と数値を追い求めすぎた。その結果、土地に宿る物語や、物に宿る魂を軽視し始めたわ。ハンフリーの呪い......あの『虚無』は、その反動よ。意味を失った空間が、存在することをやめてしまっているの」


「ふーん。要は、みんなが『ここには何もない』って思っちゃうから、本当に無くなっちゃうってことっすか?」


「あら、意外と筋が良いじゃない。その通りよ」 シャーロットは微笑む。「マセマティカの連中は、数式で世界を縛り付けようとしているけれど、それは対症療法に過ぎないわ。世界を繋ぎ止めるのは『認識』よ。ここにはこういう歴史があって、誰かが愛して、誰かが死んだ場所だという『物語』。それが楔となって、世界を形作っているの」


「だからレッテラが必要ってわけっすね」


「そう。私たちは世界の記述者。消えかけた現実にインクを足し、再び物語を紡ぐことで、存在を確定させる。それがサン・ルミエール共和国の、ひいては人類の願いよ」


「ま、難しいことは分かんないっすけど」カリゴは最後のナイフをブーツの底に仕込んだ。「自分は、シャルさんが本を読んでる間に、邪魔してくる奴をぶん殴ればいいんすよね?」


「ええ、頼りにしているわ。......ああ、それと」シャーロットはトランクの隙間に、小さな香水の瓶を詰めた。


「これは?」


「防腐剤代わりの香油よ。アルコは古都だもの。地下納骨堂の一つや二つ、潜ることになるでしょうから」


「うへぇ、死体っすか」

「死体ではないわ。かつて生きていた物語の抜け殻よ」


シャーロットは窓を開ける。湿った夜風が吹き込み、カーテンを揺らした。その風には、遠い異国の、錆と土の匂いが混じっている気がした。


「行きましょう、カリゴ。あの無粋な計算機たちに、本当の世界の美しさを教えてあげないとね」


「了解っす。......あ、おやつ持ってっていいっすか?」


「......クッキーなら許可するわ。ただし、ボロボロこぼさないこと」


~~~


翌朝。アカデミア・ヌル中央駅。

霧が立ち込めるホームに、巨大な蒸気機関車が黒い怪獣のように横たわっている。蒸気を吐き出すその姿は、この時代の科学の象徴であり、同時に煤煙で空を汚す元凶でもあった。


「......朝から気が滅入るね」


「......同感ですわ」


ホームで鉢合わせたフーリとシャーロットは、挨拶代わりに嫌味を交換した。

フーリは身軽な鞄一つ(中身はほぼ砂糖)だが、メイドが巨大なトランクを引きずっている。

シャーロットもまた優雅な手荷物一つだが、カリゴが山のような荷物を背負わされている。


「その大荷物、何が入ってるんだ? まさかドレスか? 探検に行くんだぞ」フーリが鼻で笑う。


「『場を弁える』という嗜みをご存じ? 歴史ある古都に敬意を払うのは当然なの。あなたこそ、そのポケットの膨らみ......また砂糖? 糖尿病で死ぬわね」


「脳の活性化には必要なんだよ。君みたいに雰囲気で生きてる人間には分からないだろうけどね」


二人の間に火花が散る。周囲の乗客たちが、関わらないようにそそくさと避けていく。


「はあ......。お嬢様、そろそろ発車時刻です」


「シャルさん、早く乗らないと席埋まっちゃうっすよ」


従者たちに促され、二人は互いに「ふん」と顔を背けて列車に乗り込んだ。


目指すは北方、霧の古都アルコ。

かつてハンフリー・デービーが研究所を構え、そして最期の時を過ごした場所。そこは今、最も「呪い」に近い場所として封鎖されている。


「世界の定義」を信じる理系。「世界の記述」を信じる文系。水と油の二組を乗せて、蒸気機関車は長く鋭い汽笛を上げた。

その音は、これから始まる旅の過酷さを告げる断末魔のようにも聞こえた。


車輪が回り始め、アカデミア・ヌルの景色が後ろへと流れていく。窓の外、霧の向こうで、何かが白く揺らめいた気がした。


「......見たか?」 フーリが窓に張り付く。


「......ええ。嫌な気配ですね」 とシャーロット。


一瞬だけ、二人の認識が一致した。それがただの霧ではなく、世界を食い荒らす「虚無」の予兆であることを、二人は直感していたのだ。


ここから先は、地図にない場所。知識と物語だけを頼りに進む、空白地帯への旅路が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
消えかけた現実にインクを足し、再び物語を紡ぐことで、存在を確定させる。 かっこいいなぁ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ