冷静
熱狂とは、冷めればただの頭痛だ。
昨晩のオークションは、歴史に残る泥仕合となった。
マセマティカを推す帝政ヴァルカンと、レッテラを推すサン・ルミエール共和国。互いに国家予算の限界まで入札を繰り返し、最終的に提示された金額は、小国のひとつやふたつなら丸ごと買収できるほどの天文学的な数字に達した。
結果、支配人が木槌を叩き割らんばかりの勢いで宣言したのは「引き分け」という裁定だった。どちらか一国では払いきれない。ならば両国で折半し、その「権利」も折半する。つまりは、痛み分けの共同落札だ。
一夜明けて、アカデミア・ヌル。
世界の中心にある湖に浮かぶこの人工島は、今日も変わらず不協和音を奏でている。
西側からは、工場地帯のピストンが叩きつける重低音と、薬品の刺激臭を含んだ蒸気。東側からは、活版印刷機の規則的なリズムと、古書を虫干しするカビと埃の匂い。
それらが混ざり合う場所が、島の中心にある「緩衝地帯」だ。
ここには、国境も学派もない。あるのは、どちらの組織にも属さない――あるいは属せなかった、半端者たちが営む商店と、両陣営が唯一顔を合わせるいくつかの施設だけである。
その一角にあるレンガ造りの喫茶店『カフェ・バベル』。
入口のドアベルが、カランコロンと気の抜けた音を立てた。
「......最悪だ」
店に入ってきたのは、白いボロ布――もとい、白衣を纏ったフーリ・エルゴだった。
彼女は亡霊のようにふらふらと歩き、一番奥の席に倒れ込むように座った。その向かいには、黒い影のように音もなくメイドが座る。
「お冷やを二つ。それから、角砂糖をポットでください」
メイドが淡々と注文すると、ウェイトレスは慣れた手つきで水を置いた。
「おい、コーヒーは? カフェインがないと僕の脳は起動しないんだが」
フーリがテーブルに突っ伏したまま抗議する。
「お嬢様。現在の我々の財政状況をご理解されていますか?」
メイドは眼鏡の位置を中指で押し上げた。
「昨晩のオークションで、貴方は見栄を張って『勝利の前祝いだ!』と、研究所の備蓄予算で最高級のシャンパンを抜きましたね?」
「あー......うん、まあ。勝つ予定だったからね」
「結果は引き分け。予算の補填はまだ行われていません。つまり、現在のマセマティカ本部の金庫には、埃と蜘蛛の巣しかありません」
メイドは無慈悲に宣告する。
「よって、本日の朝食は無料の水と、無料の砂糖のみです」
「嘘だろ......科学への冒涜だ......」
フーリは絶望の声を上げる。「カロリーこそが思考の燃料だぞ。砂糖水だけでどうやって『虚無』の拡散係数を計算しろって言うんだ」
「光合成でもされてはいかがですか? 幸い、今日は日差しが良いようですし」
「この真っ白な肌が葉緑体持ちに思えるか!?」
フーリが喚いていると、再びドアベルが鳴った。
今度はこつこつと、まるで舞踏会に行く途中かのような優雅な足音が響く。
「ごきげんよう、マスター。いつもの席は空いていて?」
現れたのは小綺麗に身を纏めた文学少女、シャーロット・オリエンスだった。その背後には、今日も今日とてボロ布のようなキャミソール姿のカリゴが、あくびをしながらついてきている。
「......げっ」
「......うわ」
目が合った瞬間、店内の気温が三度は下がった気がした。
フーリは露骨に顔をしかめ、シャーロットは扇子で口元を隠しながら軽蔑の眼差しを向ける。
「朝から気分が悪いね。空気が澱んだよ」
「こちらの台詞だね。消毒液の臭いが移りそう」
シャーロットはふいっと顔を背け、フーリたちとは離れた窓際の席へ座ろうとした。しかし。
「あ、お客様。申し訳ございません」 ウェイトレスが申し訳なさそうに声をかける。
「ただいまランチタイムのピークでして......。相席でもよろしいでしょうか?」
見渡せば、確かに店内は満席だった。
各国のスパイと思わしき人、商人、あるいは両陣営の下っ端研究員たちで溢れかえっている。
空いているのは、フーリたちが座る4人掛けのテーブルのみ。
沈黙。
フーリとシャーロットは、互いに視線をバチバチと火花させながら、数秒間の睨み合いを展開する。
普通なら店を出るところだが、悲しいかな、この「緩衝地帯」でまともな食事ができる店はここしかない。それに、彼女たちの腹の虫は、プライドよりも正直だった。
「......仕方がない。寛大な心で許容しましょう」
「......僕の席の半径一メートル以内にポエムを持ち込まないなら、許可してやるよ」
かくして、世界で最も仲の悪い朝食会が幕を開けた。
「ご注文は?」 ウェイトレスの問いに、シャーロットはメニューを優雅に開き、パタンと閉じた。
「トーストを一枚。焼き加減はミディアムレアで。それと、タップウォーターを」
「自分はミートソースパスタ大盛り! あとパンとサラダとスープ! 全部大盛りで!」
対照的な注文が響く。
フーリが鼻で笑った。
「ぷっ、ミディアムレアのトーストだってさ。金がないなら素直にそう言えばいいのに。見栄っ張りだねえ、文系は」
「素材の味を楽しむにはこれくらいが丁度良いの。あなたこそ、砂糖水がお昼ご飯? カブトムシの方がまだ良いものを食べているわ」
シャーロットがやり返す。図星を突かれたフーリは、悔し紛れに無料の角砂糖を水に放り込んだ。一つ、二つ、三つ。既に飽和水溶液も目前であった。
「ふん、効率だよ効率。脳に必要なのはブドウ糖だけだ。君たちみたいに、食事に無駄な品性を求めるから貧乏になるんだ」
「食事とは文化です。貴方のように燃料を入れる作業とは違いますの」
この店で一番安いメニューであるトーストがシャーロットの前に置かれる。確かにそれは丁度ミディアムレアというに相応しい焼き加減で、パンの四隅が少し茶色になるくらいのものだった。
シャーロットはナイフとフォークを使って、外科手術のように細かく切り分け始める。
一口を極限まで小さくすることで、少しでも長く味わおうという涙ぐましい努力だ。
その横で、カリゴは山盛りのパスタを掃除機のような吸引力で吸い込んでいた。品性という言葉とは正反対の豪快な食べっぷりには、普段は呆れるシャーロットも羨望の眼差しで見ている。
「んー! やっぱタダ飯の次に美味いのは、大盛り飯っすね!」
「......君、財布は大丈夫なのか?」 フーリが呆れて聞く。
「へ? ああ、ツケっすよツケ。レッテラの経費で落ちるはずっすから」
「落ちませんよ」
冷静に突っ込んだのは、向かいでただ煙草をふかしているメイドだった。
「先ほど確認しましたが、大金が動き過ぎたとの事で、銀行から一時取引不可の通知を頂いておりまして。ですのでマセマティカの口座は凍結中です。レッテラも同じ状況かと」
「ブッ!」カリゴがパスタを吹き出しそうになる。「ま、マジっすか!? シャーロットさん!?」
「......お黙りなさいカリゴ。優雅な朝食の邪魔ですわ」
シャーロットは震える手で、サイコロ状になったパン屑を口に運んだ。現実逃避のスキルだけは超一流だ。
「やれやれ......」
フーリは砂糖水をちびちびと啜りながら、窓の外に目をやった。
そこには、無骨な鉄骨と、蔦の絡まるレンガが混在する、奇妙な街並みが見える。
「早く出たいね、こんな街」ポツリと、フーリが漏らした。
その言葉にだけは、シャーロットも反応した。 「......ええ。カビ臭くて、一日中騒音が響く、最低の街」
アカデミア・ヌル。知識の箱庭といえば聞こえはいいが、実態は各国が互いを監視するための牢獄だ。
ここにいる研究者たちは、皆何かしらの理由で「祖国にいられなくなった」はぐれ者か、あるいは「才能がありすぎて危険視された」天才たちだ。
フーリも、シャーロットも、その例外ではない。
「無限エネルギーさえ見つかれば」 フーリがグラスを回す。「僕はこの世界を支配する物理法則を書き換える。そうすれば、こんな狭い鳥籠になんて用はないんだ」
「私は、忘れられた歴史を全て掘り起こす。この街が沈めている真実を白日の下に晒し、もっと美しい場所へ行きたい」
目的は違う。アプローチも違う。だが、「ここではないどこかへ行きたい」という渇望だけは、奇妙に一致していた。
それが余計に、互いの癇に障るのかもしれない。同族嫌悪に近い何かが。
「ま、精々頑張りたまえよ。君のポエム解釈で、せいぜいお化け屋敷でも見つけるんだね」
「貴方こそ、計算間違いで『ホワイトアウト』しないように気をつけることですわ」
再び険悪な空気が流れ始めた、その時だった。
カランコロン、とドアベルが鳴る。
今度は、明らかに異質な客が入ってきた。
全身を灰色の軍服に包んだ男と、派手な羽飾りのついた帽子を被った男。それぞれの肩の階級章を見るに、帝政ヴァルカンの将校と、サン・ルミエールの外交官だ。
彼らは店内を見回すと、フーリたちのテーブルへ一直線に歩いてきた。
「ここにいたか」 将校が低い声で言う。
「マセマティカ本部長、フーリ・エルゴ。および、レッテラ代表、シャーロット・オリエンス」外交官が続く。
「なんだい? 予算の入金通知なら、そこに置いておいてくれ」
フーリが面倒そうに手を振る。しかし、男たちがテーブルに置いたのは、小切手ではなく一通の封筒だった。蝋で封じられた、仰々しい公文書。
「これは両国による合同司令書だ」将校が告げる。「昨晩の協定により、無限エネルギー探索は『共同戦線』とすることが決定した」
「は?」 フーリの手が止まる。
「え?」 シャーロットのナイフが皿にカチンと当たる。
外交官が、にこやかな笑顔で爆弾を投下する。
「つきましては、お二方には直ちにチームを結成し、例の座標――および『鍵』の場所へ向かっていただきます。出発は明朝。アルコ行きの列車を手配しました」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」 フーリが立ち上がる。
「チームって、まさか......」
彼女は恐る恐る、目の前の「ポエム女」を指差した。
「その通り」 将校は無慈悲に頷く。「マセマティカの計算力と、レッテラの推測力。どちらが欠けても装置にはたどり着けん。貴様らは今日から、運命共同体だ」
「冗談じゃない!」
「冗談じゃありません!」
二人の声がユニゾンした。
「こんな非論理的な感情論者と!」
「こんなデリカシーのない計算機と!」
「一緒に行けるわけがないだろう!」
「死んだ方が幾分も楽だね!」
喧しく喚く二人をよそに、将校と外交官は冷ややかな目でそれを見下ろす。
「拒否権はない」 将校が腰のサーベルに手を置く。「もし断れば、今後一切の予算を凍結する。マセマティカの工場も、レッテラの図書館も、即時閉鎖だ」
その言葉は、どんな物理法則よりも、どんな悲劇的な詩よりも、彼女たちに深く刺さった。
金がなければ研究はできない。金がなければコーヒーも飲めないし、トーストも食えない。それは即ち、死だ。
「......」
「......」
フーリとシャーロットは、互いに顔を見合わせる。相手の顔には、自分と同じ絶望と、そして「妥協」の色が浮かんでいた。
「......分かったよ」 フーリが吐き捨てるように座り直す。「行けばいいんだろ、行けば。ただし、僕の邪魔だけはするなよ」
「私の台詞だね。私の足を引っ張ったら、その白衣を雑巾にして差し上げよう」
「契約成立だな」男たちは満足げに頷くと、踵を返して店を出て行こうとする。
「あの」
そう声をかけたのは、丁度パスタを綺麗に食べ終わったカリゴだった。
「何だね」
優しく、それでいて威圧を感じる重い声。彼女の声に応えたのは将校だった。
カリゴはそんな声色を無視して、おずおずと物申した。
「えっと、行きます。行くんで......、ここの朝食代払って貰えません? 自分、皿洗いはしたくなくて......」




