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「えー、ご歓談中のところ恐縮とは存じますが、皆様。そろそろ今回の本題、この夜のメインイベントに入りたいと思います」
皺ひとつない燕尾服を完璧に着こなした初老の男性、このオークションを取り仕切る支配人が、壇上で恭しく一礼した。
ここはアカデミア・ヌル中央地区、大講堂。
かつてはオペラ座だったその場所は、座席が全て取り払われ、豪華なビュッフェと血生臭い欲望が並ぶ巨大な宴会場へと変貌していた。
天井には豪華さだけが取り柄の壮大な宗教画が描かれており、その下で蠢くのは信仰心のかけらもない亡者たちだ。
シャンデリアの照明を反射してうるさいくらいに光る宝石を纏った淑女のドレス。見せつけるかのように下品な金の刺繍が入ったネクタイを身に着けた紳士。彼らは表面的な笑顔を張り付けて談笑しているが、その目は笑っていない。
今や世界で最も醜悪な金が動く「競売場」となったこの場所。
誰もが「自分が主役だ」と思い込み、自分こそがこの世界の真理を買う権利があるのだと勝利を確信している。だが、実際には誰ひとりとして主役になれない。そんな出来の悪い喜劇か、あるいは質の悪い群像劇のような一幕を作り上げていた。
壇上の支配人が、指揮者のように片手を挙げる。すると、今までの耳をつんざくような喧騒が、まるでスイッチを切ったかのように嘘のように静まり返る。
興奮、期待、あるいは剥き出しの闘争心。ぴん、と極限まで糸が張られたように、会場は一瞬で濃密な緊張感に包まれた。
会場の右側バルコニーには、薬品と機械油の匂いが染みついた煤けた白衣の集団と、鉄のような規律を重んじる軍服の「帝政ヴァルカン」の一団。 左側バルコニーには、古書のインクの香りを纏う豪奢な衣装の集団と、芸術と自由を愛する華やかな礼装の「サン・ルミエール共和国」の一団。
それぞれがマセマティカとレッテラを支持しており、互いに軽蔑と敵意の視線を交差させている。もし視線に温度があれば、この会場はとうに火の海になっていただろう。
「それでは、ただいまより『第1回・無限エネルギー探索権』のオークションを開催致します」
支配人のその一言で、場の空気が粘度を増す。それもそうだ。これから行われるのは、絵画や骨董品の売買ではない。どの国が覇権を握り、どの国が滅びるか。それを決定づける情報戦の最前線なのだから。
舞台袖から、屈強な男たちが恭しく巨大な台車を運んでくる。その上には、厳重なガラスと、真空状態を維持する装置に囲まれた「古びた石の塊」が鎮座していた。
会場がざわつく。ただの石ではない。表面には無数の傷が刻まれている。何かしらの文字のようにも見えるが、古代文字なのか、ただの汚れなのか、この客席にいる素人には判別がつかない。
例え意味がない石ころだとしても、それが「ハンフリー・デービーの遺品」である以上、彼らはそれを論じ、値踏みせずにはいられないのだ。
「皆様、静粛に願います」
支配人が木槌を軽く鳴らす。
このオークションにおいて、「物」自体はさして重要ではない。重要なのは、それを解析し、咀嚼し、意味を見出した「情報」だ。
ひとつの団体しか研究していないものなら、ただ値段をつければ良い。だが今回は、マセマティカとレッテラという水と油が競合した。
同じ品を見て、全く異なる真実を導き出した二つの頭脳。どちらの「物語」に金を払うか。自分の国を守りたいという血眼のパトロンたちを相手に、相手よりも有益で、確実で、美しい情報であると思わせなければいけない。
このプレゼンひとつで、向こう半年の研究予算が決まる。今日のディナーがシェフのコース料理になるか、乾いたパンになるかが決まる。だからこそ、舞台袖で待機するフーリとシャーロットの間には、目に見えない火花が散っていた。
負けてたまるか。あのわからず屋に、私の正しさを認めさせてやる。そんな執念が、会場の熱気を底上げしていた。
「こちらが今回のオークションの品となります。それでは、まずは先行。マセマティカ本部長のフーリ様からプレゼンしていただきましょう」
「先行は僕か......。まったく、前座扱いとは気に入らないね」
フーリがだるそうに壇上に上がる。彼女は不機嫌そうに、直前にメイドにきつく締め直されたばかりのネクタイを、乱暴に緩めた。白衣のポケットには無造作にねじ込まれたチョークと計算尺が入っている。
「えー、とっとと終わらせるよ。僕たちの時間は、君たちがシャンパンを飲んで無駄話をしている時間より遥かに貴重なんだ」
冒頭から喧嘩を売る直情的なプレゼンが始まる。
ヴァルカンの軍人たちがニヤリと笑う。彼らはその傲慢さこそが「天才の証」だと信じているからだ。
フーリは指を鳴らす。背後から複雑怪奇な図形と数式が投影された紙が垂らされる。
「単刀直入に言う。この石板は、天然の石ではない」
フーリは指示棒で、スペクトル分析図のピークを叩く。
「君たちの曇った目にはただの黒い石に見えるだろうが、我々が分析にかけた結果、これは高純度の炭素結合体――つまり黒鉛だ」
会場がざわつく。
「これは1807年、デービーがアルカリ金属の分離実験に使用した、巨大な炭素電極の成れの果てだ。長年の電気分解による浸食で、このように変形している。これだけでも科学史に残る遺物だが、問題は表面の傷だ」
彼女は次々とまくし立てる。誰も理解できない速度で。
「文系の連中はこれを『文字』だと思い込んでいるようだが、笑わせる。炭素電極は脆い。実験中に生じた放電痕やひび割れに過ぎない。だが、我々がカオス理論に基づき解析した結果、そのひび割れに見事なフラクタル構造が浮かび上がった」
垂らされていた紙を裏返すと、無秩序に見えた傷が、美しい幾何学模様へと変化を遂げていた。
会場がざわつく。貴族は小難しい数式よりも、美しく華やかな模様の方が好きなようだ。
フーリは勝ち誇った顔で、聴衆を見下ろす。
「僕が計算した結果、導き出された座標は北緯51度30分、誤差は小数点以下8桁まで......。おっと、ここから先を知りたければ、マセマティカに入札することだね。これは『場所』を示す地図だ。確率83.8%で間違いない」
「は、83%か......」
「かなり高い数値だぞ」
「いや、残り17%のリスクはどうなる?」
ざわつく会場に、フーリは冷たく言い放つ。
「文系の曖昧な妄言に比べれば、83%は果てしなく高い。科学とは確率であり、確率は裏切らない。以上」
完璧な論理。数字という共通言語。そして圧倒的な「正解感」。
マセマティカを支持しているヴァルカンの外交官たちが、勝利を確信して葉巻を揺らし、小切手帳を取り出す。
「相変わらず無粋だね。炭素だから何だって言うの」
入れ替わりで壇上に上がったのは、シャーロットだった。
フーリとは対照的に、彼女は優雅な所作でスカートの裾を持ち上げ、一礼する。その姿は、これから悲劇を演じる女優のようだ。
「マセマティカの皆様は、それが『何であるか』はお分かりになっても、『何に使われたか』は読めないようですね」
彼女は優雅な所作でスライドを切り替える。
「皆様。グラファイトとは、即ち『鉛筆の芯』と同じ素材です。デービーは晩年、病によりペンを持つ力さえ残っていなかった。そんな彼が、枕元にあったこの柔らかい黒鉛の塊に、自らの爪を立ててまで残そうとしたもの。それはデータなどという無機質なものではありません」
会場の空気が、分析的なものから情緒的なものへと一変する。
シャーロットは悲しげに目を伏せる。
「筆跡心理学の観点から、あの傷の筆圧は『悲嘆』と『懺悔』を表しています。そして、その不規則なリズム。これを彼が愛した詩人、ワーズワースの『抒情歌謡集』の草稿用紙に記された未発表詩の韻律に当てはめると......奇跡が起きます」
彼女は両手を広げ、朗読を始めた。
『――我が魂は、あの森の陰に眠る。愛しきジェーンの元へ』
静寂。ハンカチで目頭を押さえる婦人の姿が見える。
「浮かび上がったのは『名前』です。レディ・ジェーン・アプリース。デービーの妻でありながら、高慢な性格ゆえに彼と生涯理解し合えなかった女性。ですがデービーは、死の淵でようやく彼女への本当の愛に気づいたのです」
シャーロットは観客一人一人の目を見つめ、訴えかける。
「彼は無限エネルギーの鍵を、妻ジェーンの一族に託したのです。座標に行ったところで、そこには冷たい土があるだけ。鍵は『人の心』が持っています。愛と歴史を知るレッテラだけが、その系譜を辿ることができます」
静まり返る会場。数字の説得力か、物語の感動か。確実な場所か、それとも鍵となる人物か。どちらかを選んで買わねばならない。
その選択次第で、自国の未来が丸ごと変わってしまう。そんな重圧が、金持ちたちの脂汗を誘う。
「は? 愛だの恋だの、馬鹿じゃないのか?」
沈黙を破ったのは、舞台袖に戻っていたはずのフーリだった。我慢できずに飛び出してきたのだ。
「詩の韻律だって? そんな主観的なこじつけが証拠になるか! たまたま傷のリズムが似ていただけだろ! 大体、そのレディ・ジェーンとやらの存在証明はあるのか?」
「あら、それを言うならあなたたちこそ」 シャーロットも涼しい顔で応戦するが、その目は笑っていない。
「マンデルブロ集合? ランダムな傷を無理やり数式に当てはめただけでしょう? 貴方たちの悪い癖ですわ。世界を全て自分の知っている定規で測ろうとする。石がどこで作られたかが分かっても、今どこにあるかは分からないのに?」
「なんだと......! 物理的証拠こそが絶対だ! 感情論で国家予算を動かすな!」
「感情こそが人を動かすのです! あなたのような計算馬鹿には分からないでしょうけれど!」
「いつもいつも突っかかって......! このポエム女!」
「数字をこねくり回す以外に何ができるの? ミス机上の空論さん」
壇上で火花を散らす二人。
それは高尚な学術論争から、徐々に子供の喧嘩へとレベルを落としていく。
しかし、それを見ていた聴衆たちは、むしろ熱狂していた。この必死さこそが、情報の信憑性を高めていると錯覚したのだ。
「両者の主張は出揃いましたね。これより入札を開始致します」
支配人の声が、闘争のゴングとなる。
瞬間、怒号のような入札の声が響き渡る。
「マセマティカに5000万ポンド!」「いや、レッテラだ! ルミエールが6000万出すぞ!」「ヴァルカン、8000万!」「なんだと、ならこっちは8500万だ!」
飛び交う数字は、もはや庶民には想像もつかない天文学的な桁に達していた。その熱狂の渦を、舞台袖の暗がりから二つの影が見ていた。
「うへぇ、すごい額。自分の生活費の何百年分になるんすかね、これ」カリゴが退屈そうに大あくびをする。「石ころ一つに国が買える値段がついちゃった。人間って愚かっすね」
彼女にとって、この煌びやかな世界は全く興味のない出来事だった。
「まったくですね。ですがカリゴ様、あちらをご覧ください」
メイドが指さす先を見て、カリゴは面食らった。
壇上の中心で、フーリとシャーロットが、互いの胸倉を掴み合う取っ組み合いの喧嘩を始めていたのだ。
「証拠を出せ証拠を!」
「君こそ数字の前に言語を学ぶべきだろ! ABCは書けますか?」
幸いふたりともデスクワーク専門で体力がないものだから、襟が少しよれて、髪が乱れる程度の可愛らしい争いではあったが、公衆の面前である。
「本当にお前の支持してる所は大丈夫か?」「そちらの代表も随分荒っぽいお方ですのね、野蛮だこと」
そんな呆れた声が、ひそひそと観客席の方から聞こえてくる。せっかくの高値が、これでは下がりかねない。
「あちゃー、またやってますね」とカリゴが頭を抱える。
「そちらも大変そうですね」
「いやあ、うちのシャーロットがいつも迷惑かけちゃってすんませんね。自分、ちょっと止めてくるっす!」
カリゴが裸足のままペタペタとステージへ走っていく。その背中を見ながら、メイドは懐から煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつけた。
紫煙が、シャンデリアの光を浴びて青白く揺らぐ。
「いつまでも元気な子なのも困りますね」




