8-7 「処理すべき例外」
地下の空気は湿って重く、錆と血と薬草の匂いが喉に残っていた。どこかで水が落ち、遅れて壁に返った音が階段の奥で小さく割れる。
暗がりの中心に立つレインの視線だけが、まっすぐ刺さっている。
ナユタ。
星屑はナユタの周囲に漂う。
静かに、離れない。
青い粒は壁にも盾にもならず、ただ輪郭の近くをゆっくり回っていた。
レインが踏み込む。
足音は小さく、迷いのない直線が引かれ、腕が伸びて指先が胸を取りにくる。
届くはずの距離が、半歩ぶんだけ遠くなる。
体が遅れたわけではないのに、近づいたはずの指先が、ナユタの横を空切りした。
外れたが、レインの顔に感情は浮かばないまま、すぐ次の踏み込みに移る。
二度目は角度を細く、肩の力を抜き、避けにくい線で通してくる。
その線に、黒い影が割り込んだ。
ルシファーだった。
翼を広げかけた瞬間、砕かれた羽根の根元が軋み、背の傷が焼けつくように熱を持つ。
構わず前へ出る。痛みより速く、踏み込みだけで間合いを殺した。
「……ここまでだ」
声は短い。
ルシファーは拳を振り抜かない。殺さない角度を選び、肘でレインの腕を打ち落として手首を取る。
手首、肘、肩。流れるように関節の自由を奪い、体重だけで床へ叩きつけた。
床が鳴り、コンクリートに細い亀裂が走る。
腹へ入る直前で止めた膝を、代わりに肩へ沈め、起き上がれない形に固める。
背の熱が増し、ルシファーの喉で唸りが漏れた。
それでも指は緩めない。拘束は完成している。
「殺さねぇ」
「動けば壊す」
レインは反応しない。
痛みで顔を歪めることも、力任せに暴れることもしない。
ただ、床に縫い付けられた状態で、首だけがギチギチと音を立ててナユタを向く。
逃げたいのではない。対象へ到達する、その一点だけに身体が命令を通し続けている。
「……なに、これ……」
ヴァルナの声が震えた。
目の前で起きている異常に、全員が息を呑んでいる。
ルシファーは眉間を寄せ、さらに体重を乗せた。
関節は極まっている。動けない形に嵌めているのに、レインの視線だけが外れない。
「工程……更新」
声は小さい。
直後、レインの肩から湿った音が鳴った。
ゴリ、と骨が外れる音。
極められた関節を、自分で壊して抜け道を作った音だった。
「ッ……!?」
ルシファーが目を見開く。
レインの腕が、ありえない方向へ回転し、肩が不自然に落ちてぶら下がる。
拘束の支点を自ら破壊し、彼女は腕を引き抜いた。
「バケモンが……!」
ルシファーは舌打ちし、即座にもう片方の手首を掴みに行く。
だが、レインは止まらない。脱臼した腕を遠心力で振り回し、鞭のようにルシファーの顔面へ叩きつけた。
激突音。
痛みなどないかのように、壊れた腕を武器にして隙を作る。
ルシファーがのけぞる。
その一瞬で、レインは床を蹴った。
起き上がりざま、脱臼した肩を壁に叩きつける。
ゴグッ、という鈍い音が響き、肩が元の位置へ収まる。
顔色は変わらない。呼吸も乱れない。
ただ視線だけが、ナユタを捉えている。
ナユタが半歩、前へ出た。
足がすくむのに、目を逸らせない。頬の擦れがじわりと熱く、痛みより先に言葉が喉を押し上げた。
「なんで、俺なんだよ」
「なんで、俺だけ狙う」
レインの瞳は空っぽのまま、焦点だけが鋭い。
自分の体を壊してでも、命令の先だけを見る目。
彼女は一言だけ返した。
「──処理すべき例外」
ルシファーは口元の血を拭う。
「……上等だ」
星屑はナユタの周囲に漂う。
その輪郭がある限り、ナユタへ向く線だけがわずかに滑る。
異常な執着でこじ開けようとする影が、すぐそこまで迫っていた。
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