8-6 「当てさせない光」
静けさは、守られていたわけではない。
崩れる前の形として、かろうじて残っているだけだった。
治療の手は止まり、息だけが薄く続いている。床には包帯の切れ端と乾ききらない血の痕が残り、煮出した薬草の器はまだ温度を持ったまま、匂いだけを空間に漂わせていた。ここにいる者たちは、生き延びたという事実だけを共有し、次の瞬間を待っている。
ヴァルナはナユタの前に立っている。
膝はわずかに沈み、前腕に走った痛みが抜けきらない。それでも腕を広げ、背を向けたまま退かなかった。
その向こうで、白衣が止まっている。
レインは動かない。だが、その静止は迷いではなく待機だ。次の工程が確定していることを示していた。視線はヴァルナを通り越し、ナユタだけに固定されている。
ルシファーが一歩、前に出た。
床が短く鳴り、その場所だけ空気の温度が変わる。
「レイン」
名を呼ぶ。
返事はない。
ルシファーは、白衣の奥の目を見た。空っぽだった。
息が浅くなる。歯が鳴りそうになるのを押し殺す。
「……そこまでして、使うか。ゼウス」
吐き捨てるような低い声。だが怒鳴らない。怒鳴る価値すらない、と言うように。
レインは反応しない。視線の焦点も揺れず、言葉は空間に落ちて、そのまま消えた。
ルシファーは息を吸い、さらに距離を詰める。背に走る痛みを無視し、足を止めない。
次の瞬間、レインの軌道が変わった。
ヴァルナの正面を、意図的に外す。わざわざ避けるように角度だけを調整し、一直線に――ナユタへ。
「っ……!」
ヴァルナが身体を入れ替えようとする。だが次の一撃は、その位置を通らない。レインの動きは正確で、障害を最小限に回避し、目的へ届く線だけを残していた。
ルシファーが踏み込む。
ナユタを掴み、引き離す――そのための距離を詰める。
間に合う。
ルシファーの手が、ナユタの肩へ伸びる。
だが触れるより早く、ナユタの瞳の奥で淡い青が点になって灯った。
次の瞬間、瞳の奥の星屑が弾け、視界の端まで細かな欠片を撒いた。
粒子は一気に溢れ、空間に薄い層を作る。触れた空気がわずかに押し返され、その燐光は攻撃でも拒絶でもなく、ただ当てさせないためだけに働いていた。
レインの一撃が、そこへ差し掛かった瞬間。
力が相殺されたわけでも、弾かれたわけでもない。
軌道だけが、正確に外れる。
衝突は起きない。砕きもしない。
ただ、狙いだけが成立しなかった。
レインの表情は変わらない。だが次の手順は更新され、速度を落とさないまま、軌道だけがさらに細く鋭くなる。
そこにあるのは、明確な殺意だった。
一方で、瞳から溢れる青い星屑は押し返さず、傷つけず、ナユタへ向かう線だけを外し続ける。
光が流れ、軌道をずらし、空間にわずかな隙間を作る。ナユタは中心に立たされ、動けないまま、息だけが浅くなる。瞳の奥で、欠片が忙しく揺れていた。
ルシファーは、言葉を発さなかった。
ただ、ナユタの瞳から溢れる星屑の軌道を、眼で追う。
それが――守るためだけに動いていることを、瞬時に理解していた。
星屑が、再び逸らす。
床に衝撃が走り、仮設灯が揺れた。
レインは構えを変えない。感情はなく、工程だけが積み上がっていく。
ルシファーは翼を広げ、割り込む。
広げた瞬間、砕かれた羽根の根元が軋み、背の傷が熱を持つ。
それでも、止まらない。ここで止める。
ナユタの瞳から溢れる青い星屑が、さらに密になる。守るためだけに、静かに働いていた。
──抗いは、すでに始まっている。




