8-5 「侵入」
湿った空気が、先に落ちてきた。
水滴がどこかで弾け、低い反響が階段の奥へ沈んでいく。仮設灯の白い光が、濡れた壁と鉄骨を細く照らしていた。闇は光の外側に溜まり、動かず、逃げない。
レインは階段を降りる。足取りは一定。音は抑えられているが、完全には消えていない。白衣の裾が湿気を含んだ空気を切り、袖口に冷気がまとわりつく。
地下は静かだった。換気の低いうなりと、水の落ちる間隔だけが続いている。鉄と油の匂いに、錆と血の匂いが薄く重なる。薬草の気配が、その上に置かれていた。
壁際に、横たわる影がいくつもある。床には包帯の切れ端。乾ききらない血の染み。煮出した薬草の器が、仮設灯の下で鈍く光っている。
通路の奥で、音が一度だけ止まった。水滴の落ちる間隔が、わずかに狂う。
ルシファーは顔を上げる。翼を畳んだまま、視線だけを階段へ向けた。呼吸が一拍、ずれる。
「……来たな」
治療は続いていた。レビは包帯を引き出し、血の止まった傷を確かめる。リュックが背で小さくうなり、次の道具を吐き出した。ヴァルナは膝をつき、悪魔の肩に手を当てたまま、呼吸の間を数えている。
誰も、すぐには振り向かない。だが空気は、確実に変わった。
白衣が、階段の最後の段を踏む。
レインは立ち止まり、アンダーグラウンドを見渡した。仮設灯の位置。動ける者と動けない者。出血量。脈の乱れ。防衛線の距離。視線は迷わず、数字のように巡る。
そして、中央へ収束した。
壁にもたれ、膝を抱えて座る少年。淡い金色の髪。周囲より少しだけ明るい瞳。呼吸は浅いが、逃げていない。
レインの視線が、固定された。
「対象確認」
声に抑揚はない。確認は、処理の開始を意味していた。
ルシファーが一歩、前に出る。翼は広げない。だが、その場の空気が引き締まる。
「レインか」
レインは答えない。返答は不要だった。
レインの踵が床を捉えた。踏み込みは短く、重さが消える。次の瞬間、距離が縮む。床を蹴る音すら残らない。白衣が跳び、一直線にナユタへ迫る。仮設灯の白が、一筋だけ引き伸ばされる。
ナユタが構える暇はなかった。
影が、割り込む。
「ダメ、やらせない」
ヴァルナが前に出ていた。腕を広げ、身体で塞ぐ。声は震えていない。守るための言葉が、先に出た。
衝撃が、空気を叩く。
レインの腕が突き出され、ヴァルナの前腕がそれを受ける。止めたのではない。受けた瞬間、骨の奥まで鈍い痛みが走り、ヴァルナの膝が沈む。次の圧が、追い打ちのように落ちた。
ヴァルナの身体が横に弾かれる。床を削るように滑り、膝と手をつく。息が途切れ、指が一瞬開いた。だが彼女はすぐに身体を起こし、ナユタの前へ戻って腕を広げた。
仮設灯が一斉に揺れ、闇が壁に大きく跳ねた。治療の手が止まり、呼吸だけが残る。
レインは、止まった。
口元が、わずかに歪む。笑みではない。均衡が一瞬だけ崩れたような形だった。次に落ちる声は、乾いていた。
「……予測外」
視線はヴァルナではなく、ナユタに戻っている。対象から外さない。障害として処理するだけだ。
ルシファーの足が、床を鳴らした。
「……触るな」
低い声。温度が、そこだけ変わる。
──処理は、想定より早く動き始めていた。




